偶々「二・二六事件」に関心を抱いただけの方には ここ数回の「青森県のはなし」は スルーパスされるかも知れない。
勿論 二・二六事件の真意を「皇道派と統制派の抗争」として貶める「自称研究家」に惑わされている方には スルーされても仕方ない。
しかし 二・二六事件の真意を「壊滅的な農村恐慌からの救済」として捉えられる方には 蹶起への底流のひとつとして(青森県のはなしが続く理由を)ご理解いただけると思うのだ。
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◎淡谷悠蔵氏の名前が《末松太平著「私の昭和史」》に初登場するのは ほぼ中間の「相澤事件の前後(その1)」である。
※その頃の末松太平(古参の中尉)は「こっそり竹内俊吉や淡谷悠蔵に会いに青森市内にでかけたりもしていた」という。
「農民である兵は、なぜこう貧乏なのだろうか。その貧乏な兵のうちは、どうして貧乏の原因である小作人になったのだろうか、そのことを検 討したいためであった。」
「竹内俊吉は東奥日報社の記者であった。前に大岸大尉から『地方新聞には惜しい記者だ、ついでがあったら会ってみろよ』と言われていた。 その竹内俊吉の紹介で淡谷悠蔵を知り、三人で会うことになったわけである。雪のさかんに降っている夜だった。三人は竹内俊吉のうちで、初めて会合した」
「竹内、淡谷との会合も、数を重ね、探求の成果を実践と結びつけていかねねればと思った。二人ともそれを望んでいた。が思いがけない横やりが入った。/(中略)遠い和歌山の大岸大尉から『農民運動は危険だから、しばらく中止せよ』といってきたのである。その理由は・・・」
「内務省治安当局は 青年将校の行動に監視の目を怠らずにいた、しかし軍隊は(管轄が違い)取締対象にできない。農民運動に青年将校が関係しているという実証がつかめれば 青年将校運動に左翼運動をおっかぶせて(軍隊当局に)取締りを申入れることができる。/だが 青森県の事柄が 遠い和歌山に伝わったのは何故か。/青森県特高が私の身辺にまつわりついていたことは 前から感づいていた。青森県下の同志づらした民間人から 情報をとっていることも知っていた。/こんなことで 折角これぞと思った蓆旗組織工作は やっと緒についたところで 一応見合わせざるを得なくなった」
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◎淡谷氏の名前は「私の昭和史」後半の「蹶起の前後」で もう一度登場している。
※事件後の情報が(遠い青森では)判らないので 亀居大尉 志村中尉と三人で 東奥日報社に竹内俊吉記者を訪ねたときの記述である。
「参加将校の大部分が判った。私の知らない名前が多かった。/竹内俊吉は『渋川さんはどうでしょうね』と聞いた。竹内俊吉は渋川だけを良く知っていた。いつであったか 渋川が青森に来たとき、青森県下の農村の実情を知りたいというので、竹内俊吉や淡谷悠蔵を紹介したことがある。私が連隊にいっている留守に 渋川は竹内俊吉らに会いにいった」
◎「私の昭和史」には 淡谷悠蔵氏と末松太平の交流が穏やかに記されている。二・二六事件の真意(農民恐慌の救済)に連なる実例でもある。
※戦後 淡谷悠蔵氏は衆議院議員(日本社会党)になった。《「野の記録・全7巻」1976年・北の街社刊》という著作もある。ネット検索すると「野の記録」は「自伝的大河小説」として紹介されている。渋谷氏が「自伝」でなく「大河小説」とした理由は何故か。真実の記録ではなく「真実紛いのフィクション」が含まれているためである。
※末松太平「私の昭和史」1963年刊。淡谷悠蔵「野の記録・全7巻」1976年刊。但し 東奥日報の「注記」によれば「野の記録」は1942年に書き始められ、最初の出版は1958年だったという。
◎画像左=1970年・東奥日報「『野の記録』と私」全6回。私=末松太平。
※冒頭に「私のことが出ていることは相当前から知っていた」と記している。
「野の記録=フィクション」であっても構わないが 事実と異なる内容が「真実」として引用され 後世に伝わること(例えば 尾崎竹四郎
「『私の昭和史』周辺」)だけは許せない・・・。末松太平が(6回にもわたって)東奥日報に批判を書き連ねた理由である。
※渋谷氏曰く「渋川善助は背丈は大きくなかった」「末松太平は背広に外套を着て、鳥打帽を被っていた」。
渋川善助は(写真を見れば一目瞭然)高身長の偉丈夫である。末松太平は(外出姿は軍服か和服で)鳥打帽など所有したことがない。例えフィクション(作り話)であっても これでは ザ・ドリフターズのコントである。「ちょっとだけよ」では済まされない。
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◎画像右=①鈴木喜代春著「北の海の白い十字架」1985年・金の星社刊/②鈴木喜代春著「十三湖のばば」1974年・偕成社刊。
※「先生とおかあさん方へ/わたしが、青森県車力村の腰切り田のことを知ったのは、いまから二十年も前のことでした。「私の昭和史」の著者である末松太平氏が、わたしに話してくれたのです。情熱をからだにみなぎらせた末松氏は、ふしぎに、たんたんと、日本一残酷とも思える腰切り田の話をきかせてくれました。/昭和四十二年の夏、わたしはひとりで上野発の夜行に乗りました。そして翌日の昼すぎに車力村にたどりついていました。/(中略)それから二年ばかりたって、わたしは末松氏から車力村でむかし村長をやり、いま助役をやっている北沢得太郎氏を紹介されました。/北沢氏から、いろいろ話をうかがって、このような物語をつくってみました。しかし、この話は、すべてわたしの創作です(後略)」・・・「十三湖のばば」あとがき。
※「序文/わたしが青森県車力村の北沢得太郎さんを訪ねるため、上野駅から夜行列車に乗ったのは、昭和四十二年七月十九日でした。北沢得太郎さんは、車力村に生まれ、育った方です。わたしに北沢さんを紹介してくれたのは、北沢さんの先生の末松太平さんです。末松さんはいまは千葉市に住んでいます。北沢さんを訪ねる気になったのは、北沢さんの住む車力村が、昔は腰切田の村だったということを、末松さんから聞いたからでした。/(中略)それから十五年あまりの年月が流れました。この間にも、わたしの心の中から、あの白い十字架は消えませんでした。昭和五十七年十一月に、わたしは再び車力村を訪ねました」・・・「北の海の白い十字架」序文。
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軍隊を追われた後になっても 末松太平と「青森県の農民」との交流は続いていた。
淡谷悠蔵氏や大沢久明氏とは異なる次元で「二・二六事件の真意」は生き続けていたということである。(末松)