◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎12月28日の出来事(午後の部)そして・・・◎

2022年12月30日 | 末松建比古
  

◎12月28日=御用納めの日。今年最後の「慰霊像周辺の清掃&正月飾り」を終えて 渋谷税務署へ御挨拶に行く。
※「二・二六事件慰霊像」は 渋谷税務署に隣接していて 御世話になることも多い。年末の御挨拶を欠かすわけにはいかない。御挨拶といっても 御礼の品を持参する訳ではない。感謝の言葉を述べるだけである。

※慰霊像の台座に刻まれた碑文には「この地は旧陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と、これに先立つ相澤中佐が刑死した処刑場の一角である」と記されている。
※敗戦後「旧代々木練兵場跡」は米軍に接収されて「ワシントンハイツ」に姿を変えていたが 東京オリンピックを契機に日本に返還された。 
それに伴い隣接する「旧陸軍刑務所跡の一角」も同時返還された。
その後の経過については《河野司著「ある遺族の二・二六事件」1982年・河出書房新社刊》に詳しく記されている。
大蔵省管財局や渋谷区役所などとの折衝を重ねて「慰霊像建立」を実現させたのは 河野司氏と小早川秀浩氏の努力の賜物である。

◎渋谷税務署への御挨拶を終え 今泉サンの車で六本木方面に向かう。
※鳥居坂の「インターナショナルハウスオブジャパン」に到着して 昼食会を兼ねた「世話人連絡会」に同席する。私は単なる傍観者。二人の対話から「御苦労の数々」を実感しながらも 口は挟まない。

◎この日 賢崇寺に行く予定はなかったが すぐ近くにいながら欠礼するわけにもいかない。
※賢崇寺のご住職に御挨拶を済ませて 供花&焼香の用意もないままで「二十二士の墓」に拝礼。
今泉サンは「墓石が(垂直でなく)前方に傾いているのではないか」と気にしていた。

※今泉サンの車でJR信濃町駅前まで行き ここで解散。ここから「帰宅22時20分」までの出来事はは・・・。
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◎12月29日=歩き納めの日。東京都ウオーキング協会「山手線一周ウオーク」に参加する。
※事前申込(参加費1800円)は「40キロコース/上野公園・受付スタート・7時~8時」だったが「家庭の事情」が発生して・・・。
※家庭の事情=愚妻の「生検」につきあうこと。午後2時30分には「板橋中央総合病院」に到着している必要がある。40キロを歩いていては(今の脚力では)間に合わない。 
※仕方なく「20キロコース/明治神宮北参道入口・受付スタート・9時~10時」を歩くことになる。
毎年「山手線一周」に参加しているが「半分だけ」は初体験。実際に歩いてみると(山手線半周どころか)3分の1程度だったようである。

◎生検=生体検査。臓器や組織の一部をメスや針などで切り取り、顕微鏡などで調べる検査のこと。病気を診断したり、進行度合を調べたりする。
※愚妻と合流し 向かったの「婦人科」で 検査が終わるまで(わざわざ来てくれた愚息と二人で)診察室前の椅子に坐っていた。
検査が終わって 女医サンの説明を聞く。不思議な雰囲気の若い女医サンで「手術の可能性もある」など コワイ話を淡々と伝えてくれる。 
「もう高年齢だから放置しておいても・・・?」「とんでもない、ダメですよ!」
※次回の診察日=1月20日。若い女医サンは「働き方改革で 担当の医師が変わっているかも」と コワイ予測も淡々と・・・。
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◎昨日の続きを少しだけ。
※信濃町駅前で今泉サンと別れた。周囲はまだ明るかった。駅前の居酒屋「魚民」に入り 20時04分に店を出た。
※八海山①+青汁ハイ②+角ハイ②+粒レモンハイ大②+氷結無糖②+かぼすサワー②=2人合計11杯。
朋美サン曰く「この店の酒は薄すぎる」。それでも 翌日の「山手線ウオーク」に多少の影響があったことは事実である。(末松)
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