
山口富永氏(大正13年生)から手紙が届いた。数年前の電話で「貴方の父上の歳を超えてしまった」と笑っていたが、卆寿を超えても若々しい“発信力”を持続していることには感服させられる。
《お変わりありませんか。
国民新聞の私の記事をみてもらいたく、おおくりします。
御尊父様のことを書いておきました。私もこのごろ眼が不自由になってきました。
「国民新聞」が廃刊になり、最後の一文となりました。
御尊父様を私に紹介してくれたのは、山田恵久さんでした。
「わが昭和史メモ」として
1・真崎大将の墓を訪ねて
2・近衛上奏文の歴史的意義
3・岩淵辰雄に刺客をさしむけた東条軍閥政権
4・日本崩壊の始まりの銃声
5・末松太平大尉の二・二六を連載しました。(後略)》
山田恵久氏は「国民新聞」の編輯兼発行人である。末松太平が逝去した際には(父親の交友関係に疎い私のために)いろいろと御尽力いただいている。そういうこともあって「国民新聞」廃刊の報せは、いささかショックであった。

画像参照。1992年(平成4)7月25日、山田恵久氏のカメラでセルフタイマー撮影した写真である。
末松太平の「米寿」を祝う会。西千葉駅前のみどり鮨に、末松夫妻を招待し「御祝」を贈ったのは、以下の6名。前列左端が相澤正彦氏(相澤中佐・長男)、右端が山田恵久氏、後列左から今澤栄三郎氏、山口富永氏、田々宮英太郎氏、今泉章利氏の皆様である。
末松太平が死去したのは翌年1月17日だから、この写真が“最後の晩餐”になってしまった。
「国民新聞」平成27年3月25日号。巻頭に掲げられた山田氏の挨拶を紹介しておく。
《冠省 明治23年に徳富蘇峰が「言論報国」の理念を掲げて創刊した小紙「国民新聞」は、この程つひに矢玉尽き、刀折れ、「言論千早城」は落城。三月二十五日をもって休刊することになりました。リーマン・ショック以前からの超過債務が重しになり、もうこれ以上前に進める状況ではなくなりました。挙句に一月末にわたくしが悪性脳腫瘍に罹患してゐることも判明し、小紙の発行は残念乍ら断念せざるを得ません。
読者の皆様には長い間ご愛読いただきまして、まことに心より感謝を申し上げます。なほ三月十二日以降は購読料をご送金なさいませぬやう宜しくお願ひゐたします。ありがたうございました。敬具。/国民新聞社主幹 山田恵久》
《「国民新聞」の復刊を希う常連執筆者の声》が掲載されている。
《「国民新聞」は国体護持を願う全ての人々に開かれている。同志の中にあっても、皇統、憲法、TPP、原発等々、必ずしも合致しない諸点があったが、山田主幹は、本来戦うべき敵は誰なのかを見極め、同志の優れた論考は、ともに同じ紙面に載せた(後略)。飯嶋七生》
思いをこめた文章を寄せているのは16名。私が親しくさせていただいている方々では、森田忠明氏と山口富永氏のお二方が「常連執筆者」であった。
《(前略)幸ひ現今では不治の病といふのでもないのですから、先進医学療法の駆使によって可及的速やかに障碍を軽減し撃退し、美酒も待つほどに。一日も早くもとの健康体を取り戻して戦線復帰を果たされますやう、ただただお祈りするばかりです。》
森田忠明氏の祈りが胸に迫ってくる。
「国民新聞」最終号(第19202号)掲載。山口富永「わが昭和史メモ(四)」
「末松太平大尉の二・二六事件 ― 軍服を着た百姓一揆だった」(末松)