◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

渋川善助さんのこと(その2)、渋川明雄さんの投稿です。

2009年06月10日 | 今泉章利
掲載が遅くなりましたが、渋川明雄さんからの投稿です。

大正14年10月1日、陸軍士官学校本科に第39期生として入校。
同期生で無二の親友となる末松太平は入校間もない頃、大岸頼好の紹介で「大学寮」の西田税を訪ね、後に森本赳夫、草地貞吾を連れて行くが、森本はこの男はと思う同期生を何人か連れて行き西田と会わせていた。渋川はその中の一人であった。
そして「日本改造法案大綱」を手にする。「大学寮」の講師であった西田税をはじめ、満川亀太郎、中谷武世、安岡正篤、沼波武夫とは後に関わりをもつ。
大正15年6月、両親宛に次のような手紙を送る。
「皇国の将来を思ふ時、点取虫共があくせくして居る有様が情けなくなってきます。こんな奴等に日本国を負わせることが出来るかどうかと。彼等にして戦争をやる機械にならんとするならばそれでよし、俺はその機械を動かして則天行地の大業を行ふ人間たらんという意気ごみです」
この後間もなく教官と衝突。その理由は、教官が教育者として見るべき条件として厳格な諸箇条を列挙したが、それに対して、その条件に照らせば陸士の教官はすべて教育者として失格だと批判。これが問題化する。自説を撤回せず、二度の重謹慎30日の処罰を受ける。
9月に祖父善太郎に次のような手紙を送る。
「人間には大きな務めがございます。人間全体に対する務めでございます。又国民と致しましては、親よりも家よりも大事な務めが御座います。君国の御為に尽すことでございます。これがつまりは親の為家の為ともなるのだと存じます。一身の出世が目的であったり致しましては決してお国の為となるとは限りません」
昭和2年4月、本科の卒業試験も終わっていたが、退校処分となり、同年5月28日に士官候補生を免ぜられる。退校処分決定者は、校長であった真崎甚三郎。
退校になったいきさつを末松太平は次のように言う。「退校になった理由は、彼が教育学の根本問題に照らして、学校幹部の教育者としての資格を批判したからだったが、学校当局をして退校に踏ん切らせたのは、意外にも些細なことだったことが、このとき永井大尉(注・士官学校本科時代の区隊長)の口を通じてあきらかにされた。それは渋川や私と同じ区隊の生徒、赤松候補生の日記がもとでだったという。赤松は軟文学を耽読していたことが理由で、処分を受けたことのある、学校当局から目をつけられている軟派中の軟派だった。が彼はかねてから渋川を尊敬していた。渋川は退校になる前に、二度の重謹慎の処分を受けるのだが、それに同情して赤松はその真情をこまごま日記につけていた。その日記がみつかったことによって、学校当局は渋川の背後にこういう軟派たちの支持があると思い込み、渋川の処分を寛大にすることはこの軟派たちをつけあがらせることになると、厳しく退校の処分に踏ん切ったという」
末松太平は渋川のことを次のように言う。
「同期生きっての秀才」
「士官学校の優等生だったころの渋川は、口も八丁、抜群の頭脳と赤鬼というあだ名通りの体躯にものをいわして時には強引に横車を押しとおした。あのまま秀才コースをまっしぐらに進んでいたら行くとして可ならざるなき有能無類の幕僚に成長したことだろう」と。
手紙から察するに、軍人に見切りをつけ革命家になろうと決心したに違いない。「俺はその機械を動かして・・・・」は、後に西田と隊付青年将校の間にあって動いていく。二・二六事件に到るまでの陰なる重要な人物なのだ。

以上、渋川明雄様からの投稿でした。

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)

コメント

水上研究 現状報告です。

2009年06月10日 | 今泉章利
一体何をやっているのだ!せっかく、末松さんからブログのスペースを頂いたというのに!!

本当に返す言葉もありません。現状を報告いたします。

1.仕事が忙しく、きつくいのと反比例して体力が衰え、体調を崩しております。

2.水上さんのほうは、大変貴重な資料を36点、遺品を22点、日大の卒業アルバムを見せていただきました。資料の整理中です。

3.やり残していることがあります。
どうしても前沢に行かなければなりません。それ以外は、手が出ないにしても、もう一度前沢に行かねばなりません。(東京地検にも行かねばなりませんが、それは、原稿がかなりできてからだと思っています。。)

4.今は、実は、いろはの草書を勉強中です。 水上さんや奥さまの書かれたものは、草書なので、このかなを、だいたいそれぞれ三種類、、、もちろん 例の、東京都地検と同じく わからないので、やっていますが、実に微妙で、集中してやらないとだめなのです。こんなこと小学校でやってくれればよかったのにといつも思います。

いつになるのか、焦る気持ちにさいなまれながらも、見せていただいた資料は実に感動的です。胸に迫るものがあります。

御結婚前後のお手紙、事件後のやり取り、遺書など、、いろいろな意味で一級のものと確信しています。真剣に国に殉じようとした若い立派なお二人だったと思います。
すべてを投げうち、殺されて、それでも、世間がどうであっても、正義は曲げないという強い意志を感じました。なくなって、12月の12日の奥様のメモなど涙なしには読めないものです。健気な、厳しい北海道の好奇と誤解と歪んだ同情と、、そんな中でほんとうに、奥様はまっすぐ生きようとしておられました。たったひとりのご令嬢とともに。

(今泉章利)

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