◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

渋川善助(その3) 渋川明雄様投稿

2009年06月11日 | 今泉章利
私が何もしない間に、コツコツと明雄様は投稿してくださっておりました。本当にありがとうございます。
以下がご投稿のものです。

士官学校退校後、第一高等学校を受験。学科試験合格するも内申不良で落ちる。
昭和2年7月、西田税の「天剣党事件」で、その同志リストに末松太平と共に名を連ねる。後に親交を深める東大生伊東六十次郎、加藤春海等もリストにあったが、西田は本人の承諾を得ずして独断で記載。
これに対し西田に抗議文を送る。しかし、盛んに西田宅に出入りし1年あまり居候した。
昭和3年4月、明治大学専門部政治経済科に入学。明大も内申で落とされそうになるが、栗原教授の特別なはからいで入学できた。以後、4、5年間東大を受験するも内申で落とされる。
沼波武夫未亡人が、一高、東大生を対象に「瑞穂寮」を経営していたが、この寮に入寮。
明大に入学してからのことを次のように言う。
「社会方面に関心を持つ様になったのは明治大学専門部に入学し、政治経済を学ぶ様になってからで、当時文明史、政治史等を研究した結果と雖も国内の事情を知り且国外的の知識を求め国家発展の為働かねばならんと思いました」と。
昭和3年9月23日、伊東六十次郎、加藤春海と共に拓大教授満川亀太郎宅を訪ねる。
同年、福島県会津出身の遠藤友四郎と後年「直心道場
」の道場長となる大森一声の組織なる「錦旗会」のメンバーとなる。
「錦旗会」は、熱烈なる皇室中心主義の下に錦旗を奉じての社会改造を理想とし、純国粋主義の宣伝に努めた団体。
昭和4年11月、左翼学生運動に対抗する目的を以て、東大、明大、拓大、日大、慶大、東農大の各大学有志によって「学生興国連盟」が創立される。加藤春海(東大)、藤村又彦、林貞四郎、山下光治(明大)等と共にその中心人物となる。そして、ロンドン条約反対運動に狂奔する。その頃を次のように言う。
「私が社会的に実際働きかけたのは其の頃で倫敦条約締結に付て論議された時からであります。我々は当時我が帝国海軍の主張する三大原則の貫徹を期して運動し私は興国連盟の代表者と共に当時の軍令部長加藤寛治大将を訪問し、大に我海軍の主張貫徹を激励しました。続いて同条約の御批准に反対の運動を為しましたが結局統帥権を干犯して条約が締結せられたのでありました」
そして、
「其の頃自分等が蹶起する時機があるのではないか」と思うようになる。
ロンドン条約反対運動では、同じく明大生で「愛国学生連盟」を組織し、その委員長であった三原朝雄(昭和51年福田内閣時防衛庁長官)がいた。
三原は当時を回顧して次のように言う。
「東京駿河台の明大キャンパスで親交を結んだ学友のうち、今なお忘れられない友人に渋川善助君がいます。・・私は渋川君と常に行動を共にしておりました・・明大生の私は、青年将校らと親しくしておりましたから、二・二六事件のときに日本にいたら、私も関係者の一人として軍の取り調べを受けていたかもしれません」と。
三原は、昭和7年明治大学法学部法律学科を卒業し、満州国政府大同学院の試験にパスし、満州に渡っていた。
北一輝は、国家改造には軍隊を手中にすること、軍隊の内応運動に着手すべきことが先決であるとし、特に青年将校を対象にすることを西田に示唆し、渋川はその青年将校等との衝にあたった。
渋川の怜悧な頭脳を西田が踏台にしたのは、北一輝の意向ともいわれる。
昭和5年2月、「明大興国同志会」を藤村又彦、林貞四郎等と共に設立しその中心人物となる。
同年5月14日、第一回講演会兼創立大会を開催する
。弁士に法政大学教授中谷武世を招く。その時の模様を昭和5年5月17日付の「明治大学駿台新報」に掲載し、新入会員を募った。

以上は渋川明雄様のご投稿ぶんでした。

(今泉章利)

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