◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎太田直樹著「昭和史の現場」への疑問◎

2015年02月14日 | 末松建比古


今年も「2月26日」が近づいた。前回は欠席だったが、さて今回はどうするか。

ウオーキングの途中で 大型書店に立寄る。
《太田尚樹著「昭和史の現場」青春出版社・2月10日発行》が平積みされていた。
《歴史的大事件の舞台となった東京の「現場」に浮かび上る激動昭和史のもうひとつの顔とは…》という内容の新刊書で、二・二六事件に多くの頁が割かれている。

最近の《この種の本》は、過去の出版物からの引用だけの《デッチアゲ本》が多いのだが、著者の太田尚樹氏は 賢崇寺の法要にも参列して、安田善三郎氏(安田少尉実弟=前・仏心会世話人代表)、香田忠維氏(香田大尉甥=現・仏心会世話人代表)、今泉章利氏(今泉少尉次男=慰霊像護持の会世話人)の話を訊いている。そういう意味では、誠実な本のような印象を受ける。
しかし、後半部分に、見過ごすわけにはいかない記述があった。
池田俊彦少尉を侮辱している表現である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《事件に連座し、四年半後に自由の身になった池田俊彦元陸軍少尉は、刑死した将校たちの遺族に「栗原さんは共産主義者でした」と語っていたそうだ》
池田氏から著者が聞いたのではなく、ある遺族(賢崇寺法要の関係者?)に《語っていたそうだ》という、無責任極まる記述である。しかし、この《遺族》とは誰を指すのだろうか。そして著者の太田氏は、この話を誰から仕入れたのだろうか。

池田俊彦氏は、2002年(平成14)3月1日に亡くなっている。87歳であった。
同年4月25日発行の「国民新聞」に、今泉章利氏による追悼文「池田俊彦氏を偲ぶ」が掲載されている。因みに、1993年の「国民新聞」には、池田俊彦氏による追悼文「末松太平氏を偲ぶ」が掲載されていた。

池田氏の逝去から十余年の歳月が経過した。だから《池田氏が語っていたそうだ》というのは、既に十余年以上も昔の出来事ということになる。そして 晩年の池田氏は病床にあって、賢崇寺の法要にも参列できなくなっていたから、更に昔々の出来事ということになる。著者の太田氏は、池田氏の名誉に関わる伝聞を、何時、誰から仕入れたのだろうか。

《私も複数の遺族からその話を聞かされたが、刑死した安田少尉の実弟善三郎も「私も池田さんから直接言われたことがあります」と言っていた》
《池田氏は回想録に「当初、栗原さんの思想には反発を禁じえなかった」と書いているから「あれっ」と感じていたのだ》
著者が読んだと称する《池田氏の回想録》とは、いったい何を指しているのだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《池田俊彦著「生きている二・二六」文芸春秋1987年刊》の冒頭部分(P20)には「栗原中尉は私にとって興味ある存在ではあったが、当初あまり魅力的ではなかった。むしろあまりにも矯激な言動に反発さえ感じていた」という記述がある。
しかし、池田氏は続けて「私も議論好きであったので、将校集会所で夜などよく栗原さんと議論した」そして「栗原さんの考え方は何回となく話しているうちに了解出来たけれど、私には今すぐそれが出来る筈はないという考えが根強かった」と記しているのである。

池田俊彦著「生きている二・二六」P50の辺りの記述も紹介しておく。
「栗原さんは陸士時代から革新思想を抱いていたらしく、レーニンの著書なども読んでいた。私にレーニンの革命方式なども話してくれたことがあり、ロシア革命の研究もしていた。しかしこの革命戦術的方面と思想問題とは一線を画していた。栗原さんが左翼かぶれしていたのではないかと疑う人がいたが、全く違うということを私は信じている。私の知人に左翼思想の人がいたが、栗原さんはそういう人とは全く違っていた。革命家的情熱は持っていたが、天皇陛下の軍人であるという精神は一貫していた」

《現代史懇話会「史・創刊100号記念」1999年7月発行》の特集は「二・二六事件をめぐる人物群像」で、秩父宮親王(保阪正康)、北一輝(岡本幸治)、真崎甚三郎大将(田崎末松)、栗原安秀中尉(池田俊彦)、石原莞爾中将(菅原一彪)の5人がピックアップされている。
田々宮英太郎氏は《編集余情》として「人物の興味もさることながら、筆者の性格や思想までが窺われて意義深い。六十余年を経た事件ながら、いっこうにその輝きを失わない。悪声と妨害が加われば加わるほど、かえって輝きを増すのは何故か。一すじの真実が厳として、そこには伏在するからにほかなるまい」と記している。

「栗原安秀中尉(池田俊彦)」の一部を紹介しておく。
「栗原中尉は一言で言えば情熱の人であった。そして頭脳もよく物事をはっきりと話した。私は事件前の昭和十年十月頃、よく栗原中尉と将校集会所などで話をした」
「(栗原中尉は)一つ一つ段階を踏んで、昭和維新の必然性を説いた。腐敗している今の社会状勢と議会政治、農村の疲弊状況などを話した」
「栗原中尉は古いものを打破して新しい組織を次々と作ってゆこうとする革命意識が強かった。しかしロシアやフランスの革命史を研究していたとはいえ、それは戦術的なことで、皇室に対する尊崇の念は人一倍強い人であった」
「栗原中尉は予審の期間中に『昭和維新論』という長文の文章を裁判官に提出している。維新と指導原理、国体論、昭和維新と皇軍、維新運動に於ける同志感など十二章にわたる長いものである。何の参考書も無いあの独房で、これだけのものを書いたことに感嘆させられる」

末松太平の逝去後に《賢崇寺法要》に参列するようになった私は、会合の場や喫茶店などで池田俊彦氏と同席する機会が増えた。池田さんの穏やかな笑顔と静かな話し方は、同席する人々を柔らかな気持にさせてくれた。
《池田氏が「栗原中尉は共産主義者でした」と言っていた》というのは、悪意ある表現である。何のための悪意なのかについては、いずれ解明する必要があると思う。
いずれにしろ《太田尚樹著「昭和史の現場」》は、その程度の◎◎◎・・・ということである。(末松建比古)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメント (2)    この記事についてブログを書く
« ◎昭和二十七年 十七回忌法要◎ | トップ | ◎ストレス・ストレス◎ »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
今年の2.26 (江翠)
2015-02-27 13:23:30
早朝7時20分・麻布賢崇寺坂道入口着。今年はゆっくりお参りさせ頂きました。NHKの「歴史ヒストリア」もやっぱり、という内容で、せめて安藤大尉のエピソード(事件以前に面談していた云々)くらいあってもねえ等と22士へ心では語りかけました。
叛徒としての事実、それに至る心の軌跡や物語、双方が伝わってこそ「歴史」なのではないでしょうか。
9時。首相官邸裏の坂道。池田少尉と林少尉が栗原中尉の指示で警戒に走った道(?)を歩いていると「平成」の新選組(笑)がスカイブルーと白ツートンカラーのバスで乗り付けてきて、バリケードを築いたり配置につき始めました。左の折れて国会議事堂前に社会k見学で入館待ちの小学生の集団。
「今日、ここで昔何があったでしょうか?」聞きたい気持ちでした。そして事件の情報を探っていたであろうゾルゲの居た旧ドイツ大使館・現国会図書館に9時半着。
開館直後の時間に、池田俊彦氏の書いた「栗原中尉」の記事を閲覧請求しようとしたら、既に画面は「閲覧中」の文字が。
えええ~!数分差でどなたかが「クリック」していた?
2月26日というこの日、一番でこの記事を読みたいのは「末松太平事務所」ブログの最新記事をご覧の方ではないかしら、と思いました。
数十人坐っているこの中に同好の士がいらっしゃる、と偶然にしてもニマッとしました。
池田氏は、栗原中尉に止められても御自分の意思で参加もされ、又栗原中尉は「革命的戦術」と「思想」は一線を画していた等(「生きている2.26」)あり、「昭和史の現場」とは全く違いますね…。

午後3時。「雨」ふりやまず。
雨中行軍で、旧陸軍省、警視庁経由で銀座に出ました。
私なりに彼らの事を考えた一日、でした。
返信する
2.26事件 (つらな)
2015-02-26 21:20:57
きょう2月26日は日本で20世紀最大(?)の事件のあった日である。

この事件で怒った昭和天皇は「大局的見地から工業化路線を優先した自分の判断が暴力的に否定されたことを意味した」ということを記述している日本大学の教授がいる。果たしてそうだろうか、私としてはあまりにも短絡的な思慮分別と思えるのだが。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。