◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「2月26日」の出来事=妹夫妻初参列◎

2013年02月26日 | 末松建比古


昨日「NHKネットクラブ」からメールが届いた。「二・二六事件」の関連番組は、事前に連絡が届くようにしてある。知らされた番組が「翌日のニュース番組」なので、不思議に思った。
翌朝の新聞を見て納得。しかし「新資料証言テープ」とは何だろうか。今回も、NHKが得意とする“羊頭狗肉”の類なのだろうか。当ブログを閲覧して下さる方のために「緊急速報」を載せておく。

「中公文庫」5セットをバッグに入れて、家をでる。JR「原宿駅」下車で「二・二六事件慰霊像」に向かう。代々木公園では、若者たちのパフォーマンス。NHK前では、ゼッケン姿の抗議集団。慰霊像への道筋は“世相の一端”に触れる道でもある。
慰霊像前の「集会」は既に終わっていた。有志の皆様は、街宣車に分乗して「賢崇寺」に向かったのだろう。焼香台の前には、供花と供物が(雑多な感じで)置かれていた。多数の清酒カップやカステラ菓子には、いささか「?」の思いを感じた。
渋谷駅前まで歩いて「都06」のバスに乗る。渋谷~麻布十番~新橋。慰霊像から賢崇寺への移動には、最適の路線である。センチメンタル・ジャーニー。高橋正衛氏の横に坐って、賢崇寺に向かった日々が懐かしい。



久しぶりの「法要」は、ガラリと雰囲気を変えていた。停車している“街宣車”2輌を横目に、賢崇寺の急坂を上る。老化の進行につれて“登る”と表現したくなる急坂である。境内に「鋭い目付き」の「黒い服の男たち」が無言で佇んでいる光景は、以前と変りが無い。変ったのは「受付テントが消えた」ことである。
玄関を入ると「法要の受付」と「慰霊像護持の会=浄財寄金受付」の机が並んでいて、香田サンと今泉夫妻が対応していた。志の共有者(私もそのひとり)には、それぞれに記帳して御香典と寄金を納めることに、何の違和感もない。しかし、志の共有者でない人の中には、予期せぬ反応を示す人もいた。後述するように、雰囲気を一変させた「今回の法要」では、不快な反応は一掃されたと思う。

法要の場(本堂)では、以前のような「遺族席」や「関係者席」が無くなって、全員が祭壇に向かって坐ることになっていた。
法要は、藤田俊孝老師(+僧侶3人)によって進められる。2月26日は「二・二六事件全殉難物故者の法要」であるから、藤田老師は最初に「斉藤実招霊、高橋是清招霊、渡辺錠太郎招霊、松尾伝蔵招霊」と呼びかけ、殉難警察官「村上嘉茂左衛紋招霊、土井清松招霊、小館喜代松招霊、清水与四郎招霊、皆川義孝招霊」と続ける。野中四郎以下「二十二士」が呼ばれるのは、重臣と警察官の後である。
今回が「七十八回忌」になるから、山口一太郎以下「その他の物故者」の数は多い。87歳まで生存していたから「末松太平招霊」は、かなりの後半になる。常盤実少尉、今泉義道少尉、赤塚(鈴木)金次郎少尉、柳下良二中尉、池田俊彦少尉、北島弘伍長。私が(末松太平の死後に)親しくして頂いた皆様も、招霊される側に行ってしまわれた。



2階書院で催されていた「直会」も、中止されていた。外部の私が意見を述べる立場ではないが,老齢化につれて遺族や関係者の姿も減り、裏方(遺族の奥様たち)の労力も負担になりはじめていたようだから、当然の処置かも知れない。
今回は、妹夫妻が、初めて“法要の席”に加わった。今までも“2月26日の賢崇寺”に来ていたが、法要に加わらずに帰っていたという。世話人の皆様に「末松太平の長女です」と紹介して、しばらく歓談する。

画像参照。今泉章利(今泉少尉の次男=「慰霊像護持の会」世話人代表)サン、香田忠維(香田大尉の甥=「仏心会」世話人代表)サン、安田善三郎(安田少尉の弟=「仏心会」世話人前代表)サン、そして妹夫妻サン。バッグが置かれているのが私の席である。撮影者(私)の横に、志村(志村中尉の長男・相澤中佐の孫)サン、野中(野中大尉の実兄の親族)サンも坐っていた。安田サンは「中公文庫」を早速開いていた。
やがて、世話人の皆様は(今後を話合うために)別室に移り、私と妹夫妻は「永坂更科・布屋太兵衛」に向かった。(末松)
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