◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎承前/「匂坂資料」の功罪について◎

2024年08月10日 | 末松建比古


酷暑に負けず、老化にも負けず、週に1~2回は「さいたま赤十字病院」を訪れる日々である。といっても、自らの診療や治療のためではなく、入院中の《親しい人》への面会(見舞)が目的である。
最寄り駅「さいたま新都心」の周辺は、長距離ウオーキングに明け暮れていた頃に、度々訪れた懐かしい場所てある。当時は未だ、JR線の西側エリアは発展の途上で、立派な道路は完成していたが、広大な空き地(建築予定地)が広がっていた。この「さいたま赤十字病院」の建物も当時は姿がなく、旧所在地から移ったのは最近(2017年)のことである。
jR線の東側では、旧中山道沿いの「三菱マテリアル」が「閉鎖された建物」から「広大な空き地」になり、再開発の「高層マンション地帯」に変っている。その変転を、私は長距離ウオーキングの道筋で見届けて北。そして「新しい街」では、愚息一家四人が仲良く生活している。

・・・今は「面会する側」だが、84歳の私には本来「面会される側」が相応しい。やがて「入院しても面会者は皆無」という状況が来ることも、覚悟はしている。



前回「脳トレ」についての話が「匂坂資料」の話へと転化してしまった。
例えば《「『匂坂資料』信者への抗議」末松太平》とか《「ねじ曲げられた匂坂資料」田々宮英太郞》というタイトルだけを見れば、短絡的に「匂坂資料」という存在に《邪悪な気配》を感じてしまう人がいても不思議はない。だが、しかし・・・。

《河野司「ある遺族の二・二六事件」河出書房新社・1982年2月刊》から「匂坂検察官の死」を(私なりの整理を加えて)転載する。
この頁に、末松太平は「付箋」を貼っていた。末松太平には「気になる箇所」に付箋を貼る習癖があった。中には40箇所を超えて(満艦飾の如く)付箋が貼られた書籍もあった。《澤地久枝「雪はよごれれていた」NHK出版・1988年刊》である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和28年8月19日。事件の軍法会議で主席検察官であった匂坂春平氏が死んだ。この日はあたかも村中、磯部、北、西田四士の十七回忌法要の日であった。(18行割愛。/★末松註=河野氏の勤務先に《I氏=匂坂氏の令嬢の夫》がいた。河野氏は《I氏》を通じて匂坂氏に接触を望んでおり「二十二士之墓」建立開眼供養法要の際にも、案内状も託していた。)

7月12日。梅雨の谷間の蒸し暑い日だった。蟬しぐれしきりな深い木立の境内に、たくさんの人が集まっていた。事件刑死者の十七回忌法要が営まれていた本堂での読経が始まって間もない頃だった。テント張りの受付に、案内状の封筒を差し出して、お墓の場所を訊ねる一人の老人があった。受付に居た岡部君が、法要中の本堂に案内しようとするのを押し止めて、
「私は遺族の方々にお会いするにしのびない者です。お墓にだけお詣りさせていただいて帰ります。皆さんによろしくお伝え下さい」
と丁寧に挨拶をして、教えられたお墓へ向かう老人だった。受付に残された封筒の上書きには「匂坂春平様」と書いてあった。法要が終わったあと、このことを聞かされた私は、お会いできなかったことを残念に思ったが、匂坂さんの墓参を嬉しく胸に刻んだ。
翌年の2月26日の法要にも、匂坂さんに案内状を出した。今度は或いはお会いできる、是非その機会を捉えたいと、受付の岡部君に気をつけてもらっていたが、この日も法要中の時刻を見計らったように、遅く来てお墓にだけ詣って帰る匂坂さんだった、会社で《I氏》に、墓参の礼を伝えてもらうとともに、お訪ねしてご挨拶したい意向を幾度か依頼したが、いつも同じように、会いたくないという匂坂さんの気持ちが婉曲に返ってきた。
次の機会の、8月19日の磯部、村中、北、西田の四士の、十七回忌命日の当日は、匂坂さんの姿が見えなかった。そして《I氏》からの電話で、匂坂さんの死の報を聞いた。

匂坂さんの葬儀は、8月20日に自宅で営まれた。賢崇寺の藤田住職と一緒に参列した。霊前に坐っておられた未亡人が席を立って下りてこられた。
「主人は最後まで皆さんのことを口にしておりました。ありがとうございました。
まだ語をつぎたいような未亡人を押し止めて、あらためてお伺い申上げます、と言って辞した。
私と藤田師が再び匂坂家を訪れたのは 九月の初めであった。数々の供物や生花が飾られた仏前に、藤田師の読経が捧げられた。焼香を終えて、未亡人と三人での語らいは 自ずから事件関係のことであった。
(24行割愛。/★要約=大東亜戦争が激化し、空襲による焼失から守るため、匂坂氏は役所よりは安全と思われる自宅に「大切な書類」を持ち帰っていた。河野司氏は、大切に保管されていた「柳行李にいっぱいの書類」を見せられた。)
これは大変な記録の集積である。この膨大な記録を一つ一つ眼を通すことは、幾数日間かを要するだろう。私は後日を期して、手にした書類を行李に納めた。恐らく事件の裁判記録の総ての資料が揃っているのではあるまいか。こんな記録がここに残されていることを確認しただけでも、私は胸のときめきを抑えきれなかった。
(49行割愛)
これから四年後、未亡人の死が知らされた。残された資料への手掛かりを失った侘しさは尽きなかったが、資料そのものは現存して長男哲郎氏の許に秘蔵されている。この厖大な資料はおそらく二・二六事件の未公開の唯一の重要な資料であると信じる。すでに半世紀を経過した今日、未だに多くの疑問を抱懐する暗黒裁判の内容、真相究明のために、一日も早く匂坂家からの公開を千秋の思いで待つものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平石光久氏(元・看守)が、磯部浅一の「行動記」「獄中日記」などを、秘かに持ち出したことは、遺族や事件関係者から感謝されている。
《河野司「ある遺族の二・二六事件」河出書房新社》の「善通寺に平石看守を訪ねる」には、平石氏(高松市・市会議員)を訪れた河野司氏が、資料の数々と対面し「仏心会」への寄贈を受けたことが、感謝を込めて記されている。
「この善通寺訪問が、私が二・二六事件関係資料集刊行を決意する踏切の場となったのである。辞去するにあたって、今後の刊行に際しての協力を依頼し、平石氏の快諾を与えられたことは何よりの光明であった。」
「平石氏宅の多数の遺書を書写するための時間がなかったことは心残りであった。次の機会を胸に帰京したが、なかなか再度の往訪は望み薄く、遂に意を決して、当時比較的余裕のあった末松太平氏に依頼して、平石氏訪問を引き受けてもらった。末松氏はかねて私の資料蒐集と刊行のために、積極的に協力してもらい、且つ私としては末松氏に頼るところが多かったので、同氏の快諾はひとしおの心強さであった。こうして、平石氏秘蔵の獄中手記類の写しも入手でき、後の刊行の大きな部門を占めることになったのである。」
それにしても《比較的余裕のあった末松氏》という表現には、苦笑する他はない。

匂坂春平氏(元・主席監察官)の「極秘資料」持ち出しは、焼失から守るためだったという。
その「守られた極秘資料」が「適切な方法」で公開されていれば、匂坂氏の行為は「二・二六事件の関係者」からも賞賛されたに違いない。
河野司氏の「一日も早く匂坂家からの公開を千秋の思いで待つものである」という願いは、1988年に「叶えられた」ように見える。しかしそれは、河野司氏が望んでいた形ではなかった。そしてそれは、故・匂坂春平氏にとっても「心外な形」だったのではないか、と思われてならない。(末松建比古)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメント