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《「年表・末松太平」1971(昭和46)年。/末松太平=65歳~66歳/私=30~31才。》
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◎雑誌「情況」1971年3月号。「二・二六は革命だったか━有馬頼義の『二・二六暗殺の目撃者』に就いて」を載せる。
★関連資料★・・・・・・・・・・
《「情況編集委員会」による前説。全文掲載。》
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●」昭和四十二年二月二十五日の「朝日新聞」文芸欄に、作家の有馬頼義氏が二・二六事件の犠牲者の一人、斉藤実のことを「二・二六事件と私」と題して書いたことがある。そのなかに、二・二六事件は革命などという代物ではなく、強盗・殺人・火つけの類いだというような文句があり、それに対して蹶起将校の遺族の会である仏心会代表の河野司氏が、同じ「朝日新聞」紙上で反論を展開した。有馬頼義氏はその後まもなく、先の文章を詳述した「二・二六事件の目撃者」を「週刊新潮」に連載した。連載が終ったときにそれを批判する原稿を末松太平氏が執筆したが、『二・二六暗殺の目撃者』(読売新聞社刊)の<あとがき>で有馬頼義氏が、「週刊新潮の連載が終った段階で、今度は、末松太平氏から長文の反論を受けた」としているのが、それである。
●末松太平氏のこの原稿は、彼の友人が文芸春秋社に持ち込んだが敬遠され、次いで新潮社に持ち込んだが再び敬遠され、しばらく新潮社に留めおかれたという。『二・二六暗殺の目撃者』が新潮社からではなく、読売新聞社から刊行されたのは昨年八月である。この書評を出版ニュース社から依頼された末松氏は、前記原稿を一字一句訂正せず載せれば自から書評になるといってそのまま掲載することを希望したが、スペースの関係でこれも実現しなかった。
●「二・二六は革命だったか━有馬頼義の『二・二六暗殺の目撃者』に就いて」は以上のような経過を経たものであるが、末松氏の了承を得て、一字一句訂正せずここに掲載する。 情況編集委員会。
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・・・「前文」はここまで。「本文」は省略。関心のある方は《「情況」1971年3月号》でどうぞ。といっても、古本屋でも入手困難かも知れない。
◎この年も、末松太平は青森を訪れたようである。
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◎1971年11月23日。長女田鶴子が結婚。尾島田鶴子となる。
・・・その後、尾島夫妻は、末松太平が死去するまで「世話」をすることになる。長男(つまり私)が無責任なので「仕方なく」である。
《「年表・末松太平」1971(昭和46)年。/末松太平=65歳~66歳/私=30~31才。》
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◎雑誌「情況」1971年3月号。「二・二六は革命だったか━有馬頼義の『二・二六暗殺の目撃者』に就いて」を載せる。
★関連資料★・・・・・・・・・・
《「情況編集委員会」による前説。全文掲載。》
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●」昭和四十二年二月二十五日の「朝日新聞」文芸欄に、作家の有馬頼義氏が二・二六事件の犠牲者の一人、斉藤実のことを「二・二六事件と私」と題して書いたことがある。そのなかに、二・二六事件は革命などという代物ではなく、強盗・殺人・火つけの類いだというような文句があり、それに対して蹶起将校の遺族の会である仏心会代表の河野司氏が、同じ「朝日新聞」紙上で反論を展開した。有馬頼義氏はその後まもなく、先の文章を詳述した「二・二六事件の目撃者」を「週刊新潮」に連載した。連載が終ったときにそれを批判する原稿を末松太平氏が執筆したが、『二・二六暗殺の目撃者』(読売新聞社刊)の<あとがき>で有馬頼義氏が、「週刊新潮の連載が終った段階で、今度は、末松太平氏から長文の反論を受けた」としているのが、それである。
●末松太平氏のこの原稿は、彼の友人が文芸春秋社に持ち込んだが敬遠され、次いで新潮社に持ち込んだが再び敬遠され、しばらく新潮社に留めおかれたという。『二・二六暗殺の目撃者』が新潮社からではなく、読売新聞社から刊行されたのは昨年八月である。この書評を出版ニュース社から依頼された末松氏は、前記原稿を一字一句訂正せず載せれば自から書評になるといってそのまま掲載することを希望したが、スペースの関係でこれも実現しなかった。
●「二・二六は革命だったか━有馬頼義の『二・二六暗殺の目撃者』に就いて」は以上のような経過を経たものであるが、末松氏の了承を得て、一字一句訂正せずここに掲載する。 情況編集委員会。
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・・・「前文」はここまで。「本文」は省略。関心のある方は《「情況」1971年3月号》でどうぞ。といっても、古本屋でも入手困難かも知れない。
◎この年も、末松太平は青森を訪れたようである。
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◎1971年11月23日。長女田鶴子が結婚。尾島田鶴子となる。
・・・その後、尾島夫妻は、末松太平が死去するまで「世話」をすることになる。長男(つまり私)が無責任なので「仕方なく」である。