「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」(八月十五日夜、禁中に独り直し、月に対して元九を憶ふ)という題の漢詩を読む。
「元九」は人名です。「憶(おも)ふ」の主語は?
作者ですね。漢詩ですから、とくに書いてない主語は作者に決まってます。
じゃあ、作者にとって「元九」とはどんな人?
詩のなかに「故人」とありますね。日本での意味とちがって「古くからの友人」の意味は知ってますね。
友人だよ。「おもう」と言っても、たぶんBLではないよ。そういうのもあったかもしれないけど。
漢詩では、誰かを「思う」場合、その対象となるのは家族か友人です。恋人は出てきません。
と三時間目に説明してて、二時間目に読んだ「蜻蛉日記」での和歌のやりとりは、男女の感情ばっかだなあとあらためて思う。
和歌の中に人がでてきたら、ほぼすべてが「思っている人」「思われたい人」になる。
それは、やはり和歌と漢詩では作り手の層にちがいがあるからなのだろう。
漢文の作者とはどういう存在ですか? 最初に言ったよね。
古代中国の知識人たちです。科挙の試験に合格し、学問的知識をめいっぱい詰め込みながら、政治にも関わっている人たちです。
だから、おのずと話題は政治、学問、そして知識人としての生き方を述べることになる。
ただし、漢詩はやはり文学なので、政治、学問、生き方に対しての自分の考えをベースにしながらも、その思いがうまく叶わないことを嘆くときに詠まれたと思えばいいです。
本当に嘆いているかどうか別としても、人生ってうまくいかないよね的感慨を述べるのが文学であるという点では日本の文学と同じです。
ただし題材が異なる。
和歌では男女の関係がうまくいかないことを嘆く。
漢詩では、思うような生き方ができないことを嘆く。
漢詩の作者はそういう人たちだとわかれば、「遠くに離れた土地にいる友人」と書いてあったら、なぜ遠くにいるのかも想定できますね。
そうです。左遷です。
中央での権力闘争にやぶれたり、自分の信念を貫こうとして上司や主君と対立した結果、そうなったりします。
そういう姿を、科挙の試験の同期合格者というつながりがあった友として見たら、自分のことのように哀しく、やるせない思いになる。
だから友人といっても、たんなる友人ではなく、戦友みたいなものなんだよ。
遠く離れた土地で、あいつもこの「月」を見ているだろうか、という思いがこめられているのです。
題だけで、こんなに語れるおれってえらいなあ。
午後は、文化祭の曲の合奏。
ここは四分音符が四つ書いてあるけど、こういう曲はほとんど八分音符で吹けばいいんだよ、と見た目だけではわからないことを教えている。
ものを教えるというのは(きゃあ、えらそー)、書いてないことや、書いてあるけど見えてないことを教えてあげることなんだろなと思う。
書いてないことが見えるようになる方法を身につけるのが、さらに上の次元だ。