「何のためにカルタをするのか?」
「自分のため以外に何かあるの?」とクイーンの若宮詩暢(しのぶ)は言う。
学校対抗のチーム戦に青春をかける部員たちを、「カルタが好きなんやなくて、集まって何かするのが好きなだけの人たちや」と、詩暢は論評する。
そして「本当にカルタを大切にしてるのがどっちかは、言わんでもわかるやろ」と続ける。
ちなみに、原作が設定したキャラと実写のキャストとが、もっとも幸せな結びつきを見せているのは、詩暢を演じる松岡茉優さんではないだろうか。
バラエティではキャぴきゃぴしてるけど、映画やドラマだと、どんな役も期待以上の仕事をしているように感じられる彼女は、二十歳そこそこにして大御所感がただよう。
何のために音楽をするのか。
何のために絵を描くのか。
何のためにボールを蹴るのか。
何のために部活をするのか。
人生の効率で考えたなら、高校時代なんて不条理のかたまりだ。
なぜに同世代でつるんであれこれやらねばならないのか。3年も。
部活も、文化祭も、修学旅行も、合宿も、バーベキューも、学校の勉強にしたって、「絶対に」やらなければならないものなど何もない。
堀江貴文さんなら、むだに高校生活をだらだらすごすより、一日も早く起業してやりたいことをやれと言うだろう。それはそれで一理ある。やりたいことがある子は、むしろどんどんやっていい。
でも「何のために」については、自分的には答えをもっている。
なんで、そんな面倒くさいことをするのか。した方が「きれいな心」になる可能性が高まるからだ。
「思うように札がとれないとき、どうしても悪い流れに入ってしまったとき、何かいい方法はないか」と太一に尋ねられ、新(あらた)はこう答える。
「イメージや。一番楽しかった頃のことをイメージするんや」
部活も勉強も仕事も人間関係も人生も、うまくいかない時はある。
しかし自分の人生をふりかえってみて、そのすべてがマイナスだったはずはない。どんなことにも、山もあれば谷もある。うまくいかない時はなぜか、今までもこれからも、ずっとうまくいかないモードに入ってしまい、抜け出せなくなっているのだ。
そんなときは、深呼吸して、誰もが一つや二つはあるに違いない楽しかったシーンをイメージする。
そして気づく。いいことも悪いことも、積み重なって今の自分をつくっているのだと。楽しかった場面は必ず誰かとそうしているはずだ。ひとりではない。これまでもこれからも。だから今の自分も。
カルタは何かのためにやるものではない。誰かのためにやるものではない。
しかしカルタを通して仲間とつながることは、決してカルタを手段にしているのではなく、よりカルタの魅力を高めている。
何のために演奏するのか。
何のために走るのか。
何のために生きるのか。
そのもののなかに喜びがあり、それ自体に価値がある。
あとで思い浮かべられる楽しい場面が一つでもある人は、生きることに価値を見いだすことができる。
99つらくても1いいことがあれば、心のよりどころにできる。
それを作るための場として、高校はなかなか捨てたもんじゃないと思う。
「ちはやふる」は、競技カルタにうちこむ高校生の群像という特殊を描きながら、ときに生きることの価値さえ見失いがちな「ガラスの自我」をもつ若者たちに、一つの答えを提示するという普遍に達した、まさに「青春映画の金字塔」というべき作品になった。
映画の冒頭、福井に住む綿谷新を訪ねようとした千早が、特急「しらさぎ」から芦原温泉駅にホームに降り立つ。
いつもホームの自販機で缶コーヒーを買い、プルトップをあけるあたりだ。きっとその場所に俺が残した思念に、すずちゃんは気づいたにちがいない。
新を演じる真剣佑(まっけんゆう)くん。しゅっとした顔立ちで福井弁を話すメガネの高校生役。瞬間、タイムスリップしたのかと思った。このたたずまいは、まさに昔の … 。
いろんな偶然が積み重なって到達した奇蹟に感謝し、続編の完成を待とうと思う。