小学校六年生のときに、図書館にあったSF全集を夏休み中かけて全部読んだ。中学校に入ってからは星新一を全部呼んだ。筒井康隆や小松左京にはそれほどはまらなかった。これまでの人生で(おおげさだけど)読んだ本を思い出してベストテンを作成せよ言われたら、ハインライン『夏への扉』、広瀬正『マイナスゼロ』、井上ひさし『吉里吉里人』は間違いなく入るので、すでにSF枠が埋まりそうだが、そのぐらいにはSFを読んできた方だと思う。
あまた作られ続けるSF映画では、これらの本ほどに興奮する作品に出会った記憶がないが、近未来SF「her世界でひとつの彼女」は、途中から「息もつかせないぐらい」という形容はこういう状態に用いるのかと思えるほど耽溺した。
すごいのひと言につきる。
SFだが、現代人の孤独はなぜ生まれるのか、人はどうして人を求めるのか、愛とは? 命とは? そもそも人が存在するとはどういうこと? とまでいつのまにか無意識に考えさせられていたのだと思う。
といっても決して難解なシーンがあるわけではない。
主人公は中年のおっさん。手紙の代筆ライター(このほんとにありそうな仕事の設定がうまい)として働いているが、なかなか凄腕の書き手で、手紙をもらった多くの人を感動させる文章を書く。
もらい手の読みたいツボをピンポイントでつく術を心得ている。
しかし、自分のツボをついてくれる人がいない。妻とは心が通わなくなって長く、離婚協議中だ。
そんなある日、人口知能「サマンサ」と出会う。サマンサはコンピューターのOSで、物理的実態はないが、実に魅力的な声でかたりかけてくる。
彼のスマホのカメラから外界を知覚し、解析し、驚くほどのスピードで人工知能としての進化もし続ける。
彼について得られた情報をもとに、あれこれ会話し、彼の思考を知り、嗜好も知り、彼の言ってほしいこと、知ってほしいことを言ってほしいトーンで語りかける。
サマンサに対する彼の思いが恋愛感情に変わるのに時間は必要でなく、同時にサマンサもその思いを共有していく。
限りなく進化する人工知能は、人の知能に達しているか、むしろ越えているかにも思え、だからこそサマンサも、彼に対する自分の言葉にならないようなもどかしい思いが、人間が口にするところの「愛」なるものではないかと推察するようになる。
そういう意味で、ふたり(?)は完全に両思いだ。
彼女との会話にどっぷりと浸っていく主人公のおっさんの姿は、冷静に見たら実にイタいものなのだが、我が身をふりかえったとき、たまたま身体がそこにあるかどうかの違いを除けば、同じ精神状態になっている時は多々あるのではないかと思うのだ。
このおっさん(思い出した、なまえはセオドアだ)をイタいと笑える現代人は、実はそんなにいないのではないか。
この関係の危うさは、しかし観ている者の誰もが気づいているだろう。
いったい、いつどういう形で終わりがくるのか。
それは、ある程度は想像できる範囲内で、しかも最もシンプルにせつない形で終わりをつげることになる。
しかし、セオドアに救いがないわけではないことも、ラストシーンで暗示される。
余韻にひたりながらエンドロールを眺め、え? 奥さん役ってあのルーニー・マーラーだったの? なんてことにも気づき、西田幾多郎の「愛は知の極致である」とか、音楽座ミュージカル「シャボン玉とんだ宇宙(ソラ)までとんだ」に描かれた「ヒトは宇宙につながる生命素の乗り物である」という思想なんかも思い浮かべていた。
ほんとにすごい。最先端の表現とはこんなレベルに達しているのだ(大学の先生方も、こういうのをちゃんと見てほしいなあ。小林秀雄とかさ、わけのわからん昔の小説を全国50万高校生に読ませていったい何になるというのだろう)。
誰もが絶賛する(するしかないのだが)、一縷の期待をほんと完全に裏切って、一秒も姿形を見せてくれない声だけのスカーレット・ヨハンソン。そのの存在といったら … 。おもいだしただけでも胸がしめつけられてくる。
人生に少し疲れている人、とてもリア充とは言えない人、独りの人、おっさん … 。こういう人にはぜひともお薦めしたい。