「人物本位」入試の怪シサ フーコーらの議論から考える
という記事が朝日新聞に載ったのは少し前のことだが、ちょうど教科書でフーコーの話題が出てきたので、「朝日新聞の記者さんも、まあまあ勉強してるみたいだな」と、上から目線で紹介しておいた。
「人物本位」の入試を行うと、「先生からどう見られるか」という意識が常に内在することになり、みんな良い子を演じるようになる、という主旨の文章だ。
~ 彼は近代の試験を「教育実践の中に組み込まれた観察の装置」と位置づけた。「たえず見られているという事態、つねに見られる可能性があるという事態」を作り出し、「個人を服従強制の状態に保つ」ためだ。フーコーは学校のほか病院や監獄にも同じような機能があると見ていた。(田玉恵美「朝日新聞11月6日」) ~
記者さんは書いてないけど、そういうシステムでできている空間を「一望監視装置(パノプティコン)」とよぶ。
教科書で出てきた時、こんな話をした。
「みんな、中学校のときを思い出してごらん。3年にもなると内申書を気にしたりして、とりあえず授業中手をあげておこうとか、音楽の授業中、大きな口あけて歌ってるふりしようとか、思わなかった? そういう状態がパノプティコンにいる状態ということなんだよ。」
そういう状態のなかで人は、「従順な『主体』」に変わっていくと、教科書では表現されていた。
従順な「主体」か。
そうなるんだよね。パノプティコンのなかでは。
そういう学生を、本来大学が求めるべき「人材」と呼ぶとは、思えないのだ。ほんとしつこいけど。