Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ジュネ;変身

2011-06-26 13:35:50 | 日記


★ ジャン・ジュネは、自己を変身させる驚くべき力を持っていた。伝記を書くという作業はしばしば、ある一人の人間が一つの明確な方向へと踏み出す小さな歩みの跡を追うことだと思われている。だが、ジュネがその人生の最初から最後までを通して行った尋常でない跳躍を論理的に摑まえることなど、誰にも出来ない。

★ だが再び、今度は政治的な行動主義者の姿で、この不死鳥は甦る。下層階級から出てきた作家は大抵の場合、自分をそこからすぐに切り離そうとするものだが、ジュネは世界の悲惨な人びとの使途となった。1970年代から1986年の死まで、彼は囚人や移民労働者の権利を護ろうとした。そしてとりわけ祖国を失った人々、すなわちブラック・パンサーとパレスチナの人たちの大義に係わっていく。時折発表するエッセイとインタヴューを除けば、彼は堅く沈黙を守り通したが、それは死の一ヵ月後に刊行された、それまでにもまして驚くべき「想い出」の分厚い一冊の著作を作り上げた。しかもこの『恋する虜』は、それまでのもの全てを超えた最後の作品となっている。

★ 彼は新しく、誠実で静謐な調子(トーン)を用いているのだ。彼はまたそこで、自分の周囲の世界に対する新たな関心――歴史、建築、政治、さらには小説の中では避けてきた女性に対するものまで――も示している。

★ 彼は放浪者であり、荷物は小さなスーツケース一つに納まってしまうほどのものしか持っていなかった。たいていは鉄道の駅の近くのホテルを宿とした――これは、すぐに逃げられる場所を確保しておこうとする、泥棒としての長年の習い性だった。

★ 無神論者サルトルは、大いなる皮肉を込めて彼のことを「聖ジュネ」と呼んだのかもしれないが、ジュネ自身は一種の現世での至福というものに憧れを抱いていた。彼は自分の人生を立派なものにするために、物質主義、世間的な出世の仕組み、友人関係を支えるための義務、さらに芸術的な達成にまつわる虚栄心までも否定した。このように性的、社会的に偏向した者が(略)人々に一つの規範を与えることが出来ると思う人はまずいないだろうが、この伝記はどのようにしてこうした変身が形作られたのかを示すものである。ジュネの一生のように驚くべき、そして多様な人生は、柔軟に記述する必要がある。本書の目指すところは、ジュネの人生が描きだしている複雑な文様の痕跡を追うことであり、それを単純な一つの枠にはめることではない。

★ ディジョン南西のアリニィ=アン=モルヴァンでの少年時代、ジュネは家の外の便所で長い時間を過ごすのが好きだった。便所は二つあって、一つはスレート葺きの屋根の大きな石造りの家の近くに、もう一つは野菜畑を横切って二十歩ほど行った小学校の壁の脇にあった。彼が何時間も夢想に耽ったり本を読んだりしたのは、二つのうちの遠くて不便な方の便所だった。

★ フランス語で「ジュネ」というのはエニシダを指す語で、その黄色い花はフランスの田園地帯を広く彩っている。母親が自分を捨てた野原の花に因んで自分は名付けられたのだ、と彼はコクトーと俳優ジャン・マレーに語っている。

<エドマンド・ホワイト『ジュネ伝』(河出書房新社2003)>





★ 徒刑囚の服は薔薇色と白の縞になっている。

★ わたしはそうした婚姻を高らかに歌いたいと思い、そのために、すでに徒刑囚の服が暗示している、自然界の最も甘美な感受性の形式――花――がわたしに差出すものを用いるのだ。徒刑囚の服の布地は色彩以外の点でも、そのざらざらした感触によって、花弁にうっすらと毛の生えたある種の花々を連想させる。この些細なことは、それだけでも、力と汚辱という観念に優雅と繊弱という性質をごく自然に結びつけて考えさせるのに十分なのである。

<ジャン・ジュネ『泥棒日記』(新潮文庫1968)>






葬儀

2011-06-26 09:29:50 | 日記


“刑事コロンボ”さんが亡くなったそうだ。

ぼくは‘ひねくれる’わけではないが(ほんとに!)、“コロンボさん”とか“寅さん”が好きじゃない。
見たことは(もちろん)あるが、見続ける気にはならなかった。

でも、ピーター・フォークは、「ベルリン天使の詩」によって記憶される。


それで葬儀の話である。

あるひとの葬儀の話から、ある本ははじまっている;

★ その日、モンパルナスでは優しさと不安の取り留めのないざわめきの中ですべてが滞っていた。四月の空、肌寒い日の光。(略)葬儀は祝祭の雰囲気の中で始まった。そして今、歩道の上でいきなり終了したデモのように終わって行くのだった。


1980年のことである。


ある《高名な人物》が死んだ。

彼が高名だったのは、彼の言葉が《いつまでも離れ離れにならない蜜蜂の群れのように、地球上のあらゆる場所をくるくると旋回した》からであった。

もちろん、この《地球上のあらゆる場所》には、“日本”も含まれていた。

しかしこの《高名な人物》は、この分厚い本=『サルトルの世紀』(藤原書店2005)を書いたベルナール=アンリ・レヴィというひとにとっても、
《好きだったとは必ずしも言えないあの男、とは言え好きでなかったとも言えないあの男》
なのであった。

なにしろレヴィは、ずっとサルトルの『存在と無』を読まなかったのである。

しかしまさに、サルトルは、《種なき個体、もしかしたらその種の最後の個体であって、その種は彼の死と共に絶滅したのかも知れない》。

この《種》を、“知識人”と呼んでしまうことは、退屈である。

しかし、サイードは(サイードも)『知識人とは何か』において、サルトルを参照したのではないか。


ぼくたちの“常識”では、この世界には、“ある事実”や“ある作品”があり、“ある創造的(生産的)人間”がいて、批評家や思想家はそれを解説したり説明することによって、自らの思想を表明すると考えている。

しかしある人物がいて、かれが“それ”について発言するなら(発言することによって)、<世界>が存在するようになり、<世界>への関心が喚起され、<世界>が面白く感じられる“ようになる”言説というものがある。

そのような言説を発信する人物を、知識人と言う。

だから、サルトルは、“最後のひと”だったのだろうか?

いや“サルトルの後に”、フーコーがいる、デリダがいる、あるいはサルトルより年長のラカンが“いる”のだろうか。

べつに、“フランス系”や“哲学”の話をしていない。

この世界に発信するひと、の話をしている。

そして、まさに、このことは、この本でベルナール=アンリ・レヴィが言っているように、それは、個人の問題ではなく“世紀の”(時代の)問題だったのだろうか。

たしかに“このひと(サルトル)”は、発言するひとであり、読みまくり、書きまくるひとであった(あるいは、かれの”豊富な(貪婪な!)“女性関係に興味を持つか?)

しかし、それらの“総体”としての、かれの“生き方”(実存)があった。

しかも、その軌跡は、まったく“立派な”ものでも“輝かしい”ものでもない。
晩年のサルトルには、“惨めな老残”のイメージがつきまとう。

彼の“過激さ”は、ことごとく“空回り”したのではないか。

すくなくとも彼は、子供たちに規範として示せる人物とは、評価されない。
しかし、ここにこそ、“サルトル”という人間の唯一の生(生存)はあった。

ぼくは“ジャン・ジュネ”という人物を発見しつつある今、サルトルを思い出した。

たしかに大江家健三郎を経由してぼくはサルトルを知り、サルトルの“想像力”を卒論のテーマに選んだにもかかわらず、サルトルを充分に読めなかった。

たぶんこのことが、ぼくの哲学コンプレックスとなった。

結局、ぼくはサルトルもフーコーもデリダも読めない。
永遠にその周辺をさまようばかりだ。

けれども、この<違和>こそを大切にしたい。

ぼくは、そこで、かろうじて世界への感触を得る。

日本回帰は、ありえない。

もしこれが軽薄なら、それでいい。
“重厚な(重い)”日本回帰はありえない。

まさにこの自閉世界から少しでも離脱できるなら、<軽薄>であることが、世界を知ることであると思う。