この“映画の原作本”というタイトルは、色気のないタイトルである。
こういう風に書くときも、ぼくは“色気”という言葉が、読む人にとって、どう“ちがって”受け取られるのだろう?とあやしむ。
2冊の本について書こうと思うが、まずこの“2冊の本”は、2冊ではなく、片方が文庫で“上、下”巻で出ているので、3冊である(ああ、こういう説明が、書く方も読む方もめんどくさい)
A: M.オンダーチェ『イギリス人の患者』(新潮文庫1999)→オリジナル1992
B: C.フレイジャー『コールドマウンテン上、下』(新潮文庫2004)→オリジナル1997
この2冊の(2種の)本にはいくつかの共通点がある;
① いずれも新潮文庫であり、現在“中古品”である(すなわち書店では買えないが、“古本屋”で買える)
② どちらも“本国で”、それなりの“賞”を取っている(賞が好きな人のために!)
③ 翻訳者が土屋政雄というひと
④ 映画化された
⑤ どっちも、ぼくは好きだ(笑)
実は『コールドマウンテン』は、上巻も読み終わっていない、映画は両方とも見た(『イングリッシュ・ペーシェント』はテレビでだが、3~4回ぐらい見た)
ここでは、映画と原作とのちがいを論じたいのではない(笑)
“ここ”からこのブログを書き始めればよかったかもしれないが、最近、ついに本が読めなくなった。
それで、“読める本”を、(必死で;笑)考えて、ここ10年位で、いちばん無理せず読めた本はなにか?と考えたら、『イギリス人の患者』が浮かんだ。
最初とっつきにくくて、途中から夢中になれたのは、中上健次の『熊野集』、『紀州』だった。
そのほか、“理性的に”よかった本は他にもあるが(笑)、いますぐ思い浮かぶ本(ここ10年で)は、この4冊(4種)である。
『熊野集』、『紀州』のことは、さんざん引用したし、書いてきたので、ここでは書かない。
なぜ『イギリス人の患者』が好きで、読みかけの『コールドマウンテン』が、“読める”のかを考えている。
『イギリス人の患者』と『コールドマウンテン』が、映画の原作となったのは、そこに明瞭な“スジ”があるからである。
しかもソレ(筋)は、男女関係に依拠している。
すなわち、“通俗”かつ“ロマンチック”なのである(けれどもどっちも、“ミステリーでもSFでも”ない)
すなわち、“カフカ”でも、“ベケット”でも、”ブランショ“でも、”ボルヘス“でもないのである。
ぼくは、どうやら、コレを言いたかっただけである。
ああ、いま思いついたが、この2冊は、“戦争”に(暴力に)関与している。
それと前に『イギリス人の患者』の翻訳(土屋政雄)について書いたことがあったと思うが、ぼくはこのひとの(翻訳の)日本語の文が好きである。
それで、このひとが訳した『コンゴ・ジャーニー』を買った。
また、土屋政雄はカズオイシグロの“翻訳者”であり、『アンジェラの灰』の翻訳者でもあるが、いずれもぼくは未読である。
『コールドマウンテン』の最初の章の最後を引用する;
★ 窓際にすわり、一日が終わっていくのをながめた。夕日に心が騒いだ。平らな地平線に灰色の雲が低く密集し、その雲を貫いて、太い一筋の光がまっすぐ上に伸びていた。それはヒッコリー炭が熱く熾ったときの色をしていて、一本の管のように伸び、縁には銃身を思わせる硬さがあった。空に向かって五分間も直立をつづけ、突然消えた。自然は自分の一部に人間の注意を引きつけ、解釈を迫ることがある。これは何のしるしだろう、と思った。いくら考えても、苦難と危険と悲しみを暗示しているとしか思えない。だが、そんなことは、あらためて思い出させてもらう必要もない。自然も壮大な無駄をするものだ、と思った。ベッドに入り、カバーを引っ張り上げた。町を歩きまわった疲れから、わずかな時間読んだだけで、灰色の夕闇の中ですぐ眠りに落ちた。
★ 深い夜中に目を覚ました。部屋は黒く、聞こえるものは、患者の息遣いと鼾(いびき)。ベッドで寝返りを打つ音。窓からごくかすかな光が射し、明るい木星が西の地平線に傾いていた。風が吹き込み、テーブルにある死んだベイリスの紙束に当たった。数枚のページがめくれて立ち上がり、窓からの微光を受けて、小さな幽霊のように光った。
★ インマンは起き上がり、新しい服に着替えた。丸めたバートラムを背嚢に押し込み、それを背負うと、開いた大きな窓に歩み寄り、外をのぞいた。新月の暗闇があった。頭上の空は晴れていたが、地上にはいく筋かの霧が低く這っていた。インマンは窓枠に足をのせ、窓をくぐって外に出た。
なんども引用した『イギリス人の患者』からも、もう一度;
★ だが、あらゆる部族の名前がある。砂一色の砂漠を歩き、そこに光と信仰と色を見た信心深い遊牧民がいる。拾われた石や金属や骨片が拾い主に愛され、祈りの中で永遠となるように、女はいまこの国の大いなる栄光に溶け込み、その一部となる。私たちは、恋人と部族の豊かさを内に含んで死ぬ。味わいを口に残して死ぬ。あの人の肉体は、私が飛び込んで泳いだ知恵の流れる川。この人の人格は、私がよじ登った木。あの恐怖は、私が隠れ潜んだ洞窟。私たちはそれを内にともなって死ぬ。私が死ぬときも、この体にすべての痕跡があってほしい。それは自然が描く地図。そういう地図作りがある、と私は信じる。中に自分のラベルを貼り込んだ地図など、金持ちが自分の名前を刻み込んだビルと変わらない。私たちは共有の歴史であり、共有の本だ。どの個人にも所有されない。好みや経験は、一夫一婦にしばられない。人工の地図のない世界を、私は歩きたかった。
★ 砂漠は風に舞う布。誰のものでもなく、誰も所有できない。石でつなぎとめることもできない。砂漠は古い。カンタベリーが生まれたとき、西洋と東洋が戦争と条約で結ばれたとき、砂漠はすでに何百という名前をもっていた。砂漠のキャラバンは、不思議な文化だ。連夜の饗宴のあとに何も残さない。火の燃え残りすらない。私たちはみな、国という衣を脱ぎ捨てたいと思うようになった。遠いヨーロッパに家や子どもをもつ者もいたが、その人々も例外ではない。砂漠は信仰の場。人はオアシスの港を出て、火と砂の風景に消える。オアシスは水が立ち寄る場所……アイン、ビウル、ワジ、フォッガラ、ホッタラ、シャードゥーフ。じつに美しい。その美しい響きの横に、醜い人名をさらすのは恥ずかしい。人の名前を消せ。国名を消せ。私は砂漠からそれを教えられた。
★ 二人が過ごした数時間のあいだに、部屋は急速に暗くなった。いま、川面と砂漠からの光だけが残る。めずらしく雨音が聞こえはじめた。二人は窓際に歩み寄り、両腕を突き出す。思い切り外へ乗り出し、体じゅうに雨を受け止めようとする。どの通りからも、夕立への歓声が上がる。
★ いま、砂漠にだけは、神が存在すると認めたかった。外には通商と権力、金と戦争しかない。金力と武力の亡者がこの世界を形作っている。だが、砂漠にだけは神がいると信じたかった。
男は砕かれた国にいた。やがて砂から岩の領域へ。女を心から締め出し、さらに歩く。中世の城のような丘が現れる。男は影をひきずって歩きつづけ、丘の影に入り込む。そこには、オジギソウとコロシントウリの藪。男は岩肌に向かって女の名前を叫ぶ。こだまこそ、虚空にみずからを励ます声の魂なれば…・・・
★ カイロの夕暮れは長い。海のような夜空に、タカが列をなして飛ぶ。だが、黄昏の地平線に近づくと、いっせいに散る。散って、砂漠の最後の残照に弧を描く。畑に一つかみの種がまかれたように見える。
* 画像は上記4冊の本ではありません。
高橋睦郎『十二夜』の宇野亜喜良の画です。
<追記:好きな本>
“ここ10年位で”とかにこだわらないなら、好きな本はもっとある(なぜか”いま”、忘れている本も)
* 開高健の『オーパ!』などの釣り紀行
* 村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』(笑)
* F.ハーバート『デューン砂の惑星』
* 矢作俊彦『夏のエンジン』
* ビュトール『時間割』
* S.キング『IT』(笑)
* ラピエール&コリンズ『おおエルサレム!』
* アーサー・ランサム『ツバメ号とアマゾン号』
とにかく“哲学書”とか“社会科学書”とか”古典文学”ではない、のであった。