Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

誰が?

2011-06-28 06:35:52 | 日記


引用;

maruyamakenji 丸山健二
 もう一度言う。いや、何回でも言う。これは不特定多数の民衆のための国家などではないのだ、と。特定少数の連中がいい思いを独占したいがための国家なのだ、と。そいつらの傲慢で豪勢な暮らしを支える、それだけのために我々は存在し、かれらの奴隷として一生を終えるのだ、と。国家なんて幻だ。
19時間前



このひとつのツィート、言葉のつらなり、ひとつの認識、メッセージ。

ここに書かれていること(のみ)なら、この“認識”をぼくは共有する。

けれども、そもそも、ここに“書かれていること”は、なにか?

ひとは(読む人は)、この“文”を1分で読み、共感したり、反発したりするのだろうか。

あるいは、“疑問”を提示してもよい;

①《不特定多数の民衆》とは誰か?

②《特定少数の連中》とは誰か?

③もちろん《国家》とは、何か?
 それは、“本来的に”何か?ということだけではなく、“現在”、国家と呼ばれるものは、われわれ(たとえば“日本人”)にとって、どのように“認識”され、いや、そのひとりひとりの生きる場所として、どのように“リアル(現実)”なのか?


国家を否定したり、肯定したり、信仰したり、愛したり、憎んだりする以前に、そもそも、“日本(国)”とか“日本人”とかが、ぜんぜん、リアルとは思えない。

そんなものは、たんなる習慣、習性、“いちども考えたことがない空気”でしかないのではないか?

だから、<敵>がいなくては、敵としての<国家>がなければ、競争相手としての国家がなければ、国家など存在しようもない。

それは、商売の単位にすぎない(だからグローバル化は“国家”の根拠を失わせる→それが“国家イデオロギー”を強化する)

もし、共同性の幻想が欲しいなら、まさに、あらたな関係、あらかじめ定義も意図もできない、この関係、の、偶然性に賭けるほかない。

言葉が信用できず、徹底的に無力であるときに、言葉以外のものがあるなら、それでもいいが、別種の言葉の使用について探究し、それに自分の生を賭ける者が、あらわれても、いい。

国家と呼ぼうが、社会と呼ぼうが、“システム”を変えることが必要なのは、“具体的”要請である。

たぶん、システムが変われば、人間が変わる。

いまより良いシステムの構築により、いまより幸せなひとを増やせる。

“そのために”言葉は必要である。

だが、いつも“システム”は、言葉を無視して(無効化して)、自動運動しているように思える。

言葉は、いつもいつも、“後追い”であり、アリバイづくりにしかならない。

“現実を変える”言葉なんか、存在したためしはない。

現実を変えたのは、“暴力”である。

そういう退屈な事実の認識も必要である。

だから、何度も何度も失敗し、失敗しながら、言葉を使用する。

そういう認識をもたずに、発言する者は、たんなるバカである。

だから、言葉を使用することを職業とする人々には、バカが多いのである。

ぼくは、否定的なメッセージを発信していない。

肯定性を目指さなければ、言葉など使用する必要はない。





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