Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Good-by みたくない顔

2011-06-29 15:28:30 | 日記


感情的発言で恐縮だが、“みたくない顔”が消えるらしい;

<保安院の西山審議官、事実上の更迭 女性問題で>アサヒコム2011年6月29日12時15分

経済産業省原子力安全・保安院は29日、東京電力福島第一原発事故で記者会見の報道対応を務める西山英彦審議官(54)を、森山善範・原子力災害対策監(54)に交代させた。事実上の更迭だ。西山審議官は週刊誌で女性問題が報道され、海江田万里経産相から23日に厳重注意を受けていた。当初は続投する予定だったが、森山対策監は「報道の件で問い合わせがあり、対応に支障を生ずる」と交代理由を話した。
 西山審議官は3月13日の記者会見以来、連日記者会見を担当していた保安院の「顔」だった。役職は審議官のままだが、保安院担当を外れたという。事故以来、保安院のスポークスマンはこれで5人目になる。
(引用)


ぼくは(最近はやめたが)福島原発事故以後2ヶ月以上、“TBSニュースバード”チャンネルで、この保安院、東京電力、政府(枝野)の記者会見(何時間にも及ぶこともある)を見れる限り見続けていた。

だから《3月13日の記者会見以来、連日記者会見を担当していた保安院の「顔」》にウンザリする権利があると思う

もちろん、西山氏よりは後からだが、東京電力記者会見の《顔》、松本ナンタラも同じである。

お二人とも、“お仕事”で、デタラメばかりを発言している、かわいそうなひとなのかもしれないが、やっぱ、こういう“仕事人間の顔”は、見ていて心が寒くなる。

“日本人の顔”がイヤになる。


もうひとり、見たくない顔がある(笑);

<細野氏の「避難区域縮小」発言、福島副知事「違和感」>アサヒコム2011年6月29日11時40分

 東京電力福島第一原発事故で、細野豪志原発担当相が、放射線量の着実な減少などの目標期限にあたる7月17日をメドに避難区域の縮小を検討すると発言したことについて、福島県の松本友作副知事は29日、「違和感がある」と述べた。県災害対策本部の定例会議で指摘した。
 松本氏は「県民が望んでいるのは事故の収束がどこまで進んでいるかだ。見通しが立たない中、避難区域の見直しというのはどうかと思う」と批判。佐藤雄平知事も「現地の状況を政府は分かってもらわないと困る」と述べ、副知事に同調した。
(引用)



ぼくはけっして、けっして、西山英彦審議官、松本純一東電原子力・立地本部長代理、細野豪志原発担当相や枝野とかいうひとの《顔》をぼくのブログに貼り付けたいとは思わない。






無知と貧困

2011-06-29 08:31:23 | 日記


今朝の天声人語は言う;

《▼この国を舞台に映画を撮ったイラン人監督のマフマルバフ氏が言っていた。「米軍が爆弾でなく、本を落としていたら」。識字率は男性で50%、女性は18%しかない。無知と貧困こそ、暴力とテロの温床になる》


ぼくたちは(優しい日本人は)、こういう言葉を、永遠に聞き、そうすることによって、《無知と貧困》、《暴力とテロ》を永久に放置・許容する。

すなち、この、識字率が高い日本国において、《無知と貧困》は、増大している。

毎日、天声人語を読んでも《暴力とテロ》は減少しない。

たとえば“太平洋戦争”(アメリカと日本の戦争である;念のため)において、アメリカ(合衆国、我執国?)は、爆弾の雨を降らせた(原爆は黒い雨を降らせた)だけではなかった。

チョコレートやガムや野球などなどという雨も降らせたのである。

まさに“英語”という言葉の雨を降らせた(つまり“英語の本”が降ってきた)

アメリカンな“カルチャー”と“ライフスタイル”であった。

それは、生活と文化の洗脳である、これを“啓蒙”とか“生活のクオリティの向上”とも呼ぶ。

ぼくも少年時より、このカルチャーにどっぷり侵食され、デズニー映画を見、プロ野球を観戦し、ジーンズ狂となり、ロックンロールにしびれた。

なによりも“テレビ”であった。
テレビが始まったとき、ぼくより熱心にテレビを“観賞して”いたひとは、いるのだろうか?

その“愛”によるのではなかったが、ぼくの職業の多くの部分も、テレビに関与していた。

結局、ぼく(ぼくら)は、テレビが売るものを買ってきたのだ。

それは、電気洗濯機!電気釜!エアコン!のみではなく、カルチャーという“テイスト(味覚)”であった。

“違いがわかる”基準は、このテイストであった。

そのカルチャーの“極めつけ”は、このパソコンである。

おうち(お家)でも仕事場でも、ぼくはこの画面ばかり見て、ポコポコ不器用に“入力”するだけである。

いったい、この灰色に輝く画面は、解放へつながるフィールドなのか、ただ彷徨うだけの閉塞の荒野なのか。

実感としては、もう答えは出てしまった。

だから、実感を裏切ることが必要である。

実感を裏切る(くつがえす)言葉を、さがす。

たとえば、

★ 大事なのは自分は存在していると感じるということなんだ、われわれは一日のうちの大半はこの真実を忘れてすごしているものだが、それも、家々とか赤信号をながめているときに突然、この真実がうかびあがってくる。―ゴダール







<結論>

天声人語ではなく、ゴダールを読め、ジュネを読め、デュラスを読め、ル・クレジオを読め、中上健次を(笑)読め!


識字率が上る、ことは必要である。

なぜなら、言葉が(本が)“読める”。

だが、なにを、どのように読むのか?

あるいは、読む対象を選ぶとき、すでに、ぼくらは、自分に必要なものがわかっている。

もし、読んで、失望しても、実は、そのことが必要だった。

むしろ、あらかじめ“納得されてしまう”言葉こそ、無用なのだ。

多くの人々が、うなずきあう言葉こそ、言葉の危機だ。

私は、字が読めているのか?

私は、他人のおしゃべりを聞けているのか?

自分にこの疑問を突きつけることが、必要である。

そして、電撃のように言葉に出会う。

それは、私が、これまでに知らなかった言葉である。






ゴダール語録

2011-06-29 07:22:19 | 日記


ゴダールの発言だけを集めたツイッターというものを見つけた。

ピンとくるものと、そうでないものがあるが、なぜか読み続けられる。

ゴダールの伝記よりも、ゴダールの映画よりも面白い(笑)かもしれない。

ゴダールは“ツイッター”なのかもしれない;


★ godard_bot Jean-Luc Godard
映画はどれもみな、どんな人の一日の生活よりも想像力に欠けています。ところが、それを見る人たちは、二ドル払わせられたうえになお、その映画は自分の人生よりもずっと素晴らしいと思いこまされているのです。―ゴダール
6月21日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
夢が今でもまだ大きい力をもっているのは、夢はサイレント映画の時代に属するものだからだ。夢はテレビの時代のものじゃないわけだ。―ゴダール
6月21日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
苦しみを託されたものとしての映画、―ぼくはこれはすぐれた観念だと思う。そして、自分に大げさに考えるべきじゃないと言い聞かせながら、この観念を自分に適用している。―ゴダール
6月22日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
だから、映画を撮るというのはきわめて単調な仕事です。そしてそのために、人々はあれこれと技巧をもちいたり、多くの人を呼び集めたりすることによって、その単調さを完全に隠してしまおうとします。―ゴダール
6月22日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
まただからこそ、私は自分に、「物語というのは、ひとが自分自身の外へぬけ出るのを助けるものなのだろうか、それとも、自分自身のなかにもどるのを助けるものなのだろうか?」という疑問をなげかけるわけです。―ゴダール
6月22日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
アマチュア映画では、パパが自分の娘を、クリスマスに一度とバカンスのときに一度撮るだけです。そこには二つの映像しかなく、それでは十分じゃありません。だからこの場合は、映像をいくらかふやしてやる必要があります。―ゴダール
6月22日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
私がこれまでに何本かの映画をつくり、今もなお映画をつくろうと努めているのは、ただ単に、こわいからです。私は仕事を手に入れることに関しては、だれもあてにしていません。だから私には、明日になって仕事がなくなっていることがこわいのです。―ゴダール
6月22日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ひとははじめのうちは、自分は自分を表現していると思い込み、その表現のなかに、自分のなかから生まれたものではない、ある大きな感化の運動が入りこんでいるということを理解しようとしません。―ゴダール
6月23日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
よくおぼえていますが、私は『気狂いピエロ』を撮りはじめる一週間前は、完全なパニック状態におちいっていました。なにをすればいいのかわからなくなったのです。―ゴダール
6月23日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
映画史というのは、自らの歴史をもつことができる唯一の歴史だということです。なぜなら、映画史というのは自らの痕跡をもっている唯一の歴史だからです…人々がこしらえたさまざまの映像が残っているからです。―ゴダール
6月23日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
テレビというのは不安を扶養するなにかだ。人々に責任があるにしろ、あるいはもはやないにしろ、今では人々の肉体に不安が定着しつつあり、しかもその不安は、ときどきあまりに強力なものになる。―ゴダール
6月23日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ジャーナリストというには人から吹きこまれたことをそのまま記事にするものなんだ。だから、できのいいプレスシートをつくれば、それはかならずあちこちに掲載されると確信できるわけだ。―ゴダール
6月24日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
フォードのなかには、映画は映画にほかならない。映画は単純なものだという観念がある。そして彼は、いつも同じ主題をとりあつかっていた。彼がより作家的ないしはよりヨーロッパ的な映画作家だったのはそのためだ。―ゴダール
6月25日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
かつて映画と認められていたような映画、映画館で上映されるたぐいの映画は今では姿を消しつつある。そうした映画は今では、テレビとともに別のなにかにかわってしまったんだ。そしてその別のなにかを見つけ出す必要があるわけだ。―ゴダール
6月25日

★godard_bot Jean-Luc Godard
ぼくは一人の女優と一緒に仕事をし、その女優を映画に出演させ、しかもその女優と一緒に暮らしていたということだ。こうした部分については語られていないんだが、でもこうした部分が生きられていたんだ。―ゴダール
6月25日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ぼくと一緒に仕事をした人たちはみな、父親を必要とする人たちだったんだ。同様に、ぼくのなかにはしばらく前から、女優を自分の娘とみなし、家族として、映画における家族として一緒になにかをつくりたいという欲望があった。でもこれもまた誤りだった。―ゴダール
6月25日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
コクトーの言葉によれば、映画は《死神が仕事をしているところをとらえる》唯一の芸術だ。撮影されている人はみな、そのとき年をとっている最中であり、いずれは死ぬことになる。だからそのとき、死神が仕事をしている瞬間が撮影されていることになるわけだ。―ゴダール
6月26日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ぼくにとっては映画を撮っているときと撮っていないときという、互いに異なった二つの人生があるわけじゃない。映画を撮るというのは人生の一部をなすことであるべきだし、ごく自然でごくふつうのことであるべきなんだ。―ゴダール
6月27日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
大事なのは自分は存在していると感じるということなんだ、われわれは一日のうちの大半はこの真実を忘れてすごしているものだが、それも、家々とか赤信号をながめているときに突然、この真実がうかびあがってくる。―ゴダール
6月27日


★ godard_bot Jean-Luc Godard
夜のパリを車で走っているときに目にするものはなにかと言えば、赤、青、黄色の信号だ。ぼくはこれらの要素を、かならずしも現実にあるものとして配置しようとはせずに提示しようとした。―ゴダール
13時間前