引用;
maruyamakenji 丸山健二
もう一度言う。いや、何回でも言う。これは不特定多数の民衆のための国家などではないのだ、と。特定少数の連中がいい思いを独占したいがための国家なのだ、と。そいつらの傲慢で豪勢な暮らしを支える、それだけのために我々は存在し、かれらの奴隷として一生を終えるのだ、と。国家なんて幻だ。
19時間前
このひとつのツィート、言葉のつらなり、ひとつの認識、メッセージ。
ここに書かれていること(のみ)なら、この“認識”をぼくは共有する。
けれども、そもそも、ここに“書かれていること”は、なにか?
ひとは(読む人は)、この“文”を1分で読み、共感したり、反発したりするのだろうか。
あるいは、“疑問”を提示してもよい;
①《不特定多数の民衆》とは誰か?
②《特定少数の連中》とは誰か?
③もちろん《国家》とは、何か?
それは、“本来的に”何か?ということだけではなく、“現在”、国家と呼ばれるものは、われわれ(たとえば“日本人”)にとって、どのように“認識”され、いや、そのひとりひとりの生きる場所として、どのように“リアル(現実)”なのか?
国家を否定したり、肯定したり、信仰したり、愛したり、憎んだりする以前に、そもそも、“日本(国)”とか“日本人”とかが、ぜんぜん、リアルとは思えない。
そんなものは、たんなる習慣、習性、“いちども考えたことがない空気”でしかないのではないか?
だから、<敵>がいなくては、敵としての<国家>がなければ、競争相手としての国家がなければ、国家など存在しようもない。
それは、商売の単位にすぎない(だからグローバル化は“国家”の根拠を失わせる→それが“国家イデオロギー”を強化する)
もし、共同性の幻想が欲しいなら、まさに、あらたな関係、あらかじめ定義も意図もできない、この関係、の、偶然性に賭けるほかない。
言葉が信用できず、徹底的に無力であるときに、言葉以外のものがあるなら、それでもいいが、別種の言葉の使用について探究し、それに自分の生を賭ける者が、あらわれても、いい。
国家と呼ぼうが、社会と呼ぼうが、“システム”を変えることが必要なのは、“具体的”要請である。
たぶん、システムが変われば、人間が変わる。
いまより良いシステムの構築により、いまより幸せなひとを増やせる。
“そのために”言葉は必要である。
だが、いつも“システム”は、言葉を無視して(無効化して)、自動運動しているように思える。
言葉は、いつもいつも、“後追い”であり、アリバイづくりにしかならない。
“現実を変える”言葉なんか、存在したためしはない。
現実を変えたのは、“暴力”である。
そういう退屈な事実の認識も必要である。
だから、何度も何度も失敗し、失敗しながら、言葉を使用する。
そういう認識をもたずに、発言する者は、たんなるバカである。
だから、言葉を使用することを職業とする人々には、バカが多いのである。
ぼくは、否定的なメッセージを発信していない。
肯定性を目指さなければ、言葉など使用する必要はない。