Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

物たちへの敬意;顔の研究-F

2011-06-06 14:43:34 | 日記


★ 物たちに対する、何という敬意。どんな物にもその美しさがある。なぜなら、それは、存在すべき「唯一のもの」だから。それには、取り換えのきかないものがある。

★ ジャコメッティの芸術は、したがって、物たちの間に、ある社会的絆――人間とその分泌物――を樹立するような社会的芸術ではない。それはむしろ、高等な浮浪者たちの芸術、彼らを結びつけうるものが、すべての人、すべての物の孤独の承認であるほどに純粋な、浮浪者たちの芸術であるだろう。「私は独りだ」と物は言っているかにみえる、「したがって、あなたにはどうすることもできないある必然に捕らわれている。私は私がそうであるところのものでしかないのだから、私は破壊されえない。私がそうであるところのものである、保留なしにそうであるがゆえに、私の孤独はあなたの孤独を知るのである」。

<ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(現代企画室1999)>






★ 彼女は最終列車に乗りそこねて駅の待合室で夜明かしすることがよくあるらしいが、そういう時ともすれば浮浪者然とした男が寄って来て「ねえさん、独りな?」と声をかけるそうである。「きっと精薄か何かに見えるのね」と彼女は嘆いてみせるが、彼女にはそういう独自なパーソナリティがある。

<渡辺京二“石牟礼道子の世界”―石牟礼道子『苦海浄土』解説(講談社文庫2004)>






ぜんぜんかんちがいしている人

2011-06-06 11:22:08 | 日記


しつこいが、昨日とりあげた茂木健一郎のツィートを再検討する。

なぜなら現在、こういう“柔軟な(やわらかい)”言い方が、多くの共感を得そうだから;


kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(7)国がだらしないとか、政治家がダメだとか、そういう言説を信用しない。「しっかりと保護してくれるはずだ」というパターナリズムに対する期待の裏返しに過ぎないからである。国だって政治家だって、しょせんは人間。あなたや私と同じように、不完全なのだ。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(8)子どもは、最初は親に頼るが、そのうち大きくなって、自分で生きるようになる。それから、親の面倒を見るようになる。日本人はいい加減に、パターナリズムの幻想から覚めて、自分の足で立つようになったらどうだろう。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(9)親が小さく見えた時、人はきっと大きく成長している。国が小さな、頼りなく、情けない存在に見えた時初めて、私たちは精神的に一人立ちできるんじゃないかな。国なんて、所詮そんなもんだよ。だって、不完全で弱い人間が集まってできている幻想に過ぎないんだから。
6月4日



いったいここで、何が言われているのか?

<国>と<わたしたち>の関係である。

このツィートの“結論”=《日本人は自分の足で立つべきだ》に、ぼくは賛成である。

しかしそのとき問われるのは、《国とわたしたちの関係》である。

つまり、ここで茂木健一郎が言っている《国》の定義は正しいか?

茂木氏はこう言っている;

A:国だって政治家だって、しょせんは人間。あなたや私と同じように、不完全なのだ。
B:国なんて、所詮そんなもんだよ。だって、不完全で弱い人間が集まってできている幻想に過ぎないんだから。


この“定義”は、ただしいか?

茂木氏は、国家は《幻想だ》と言う。

しかし同時に、国家は《不完全で弱い人間が集まってできている》と言う。


《不完全で弱い人間》というのは、幻想ではない。

それとも茂木氏にとっては、《不完全で弱い人間》というのも《幻想》なのか?

ここが重要なんです。

決定的に重要だ。

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の妻>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の子供>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の母>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の父>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の友人>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の同僚(同級生)>なのか?

ようするに、《不完全で弱い人間》は、<具体的な個人>なのか?

ぼくにとって、《不完全で弱い人間》は、“ぜったいに”、<具体的な個人>である。

《幻想》ではない。


ならば、その具体的な個人としての《弱い人間》が、《集まっているできている国家》は、幻想ではない。

だから、国家が《幻想》であるならば、国家というものが、《不完全で弱い人間の集まりではない》という論理的帰結がもたらされる。


ぼくは(ぼくも)、国家は幻想である、という立場である。

しかしその論拠は、上記のように、茂木健一郎とは、まったく逆である。

(国家は、《不完全で弱い人間の集まり》という具体的個人の集まりで“ない”から幻想である)

すなわち、ぼくが正しければ、茂木健一郎はまちがっている。

以上は、茂木氏が専門の“論理的思考にのって”展開した。

しかしいまぼくが目指しているのは、こういう“論理(脳科学的思考!)ゲーム”を超える<思考>である。