Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

無知と貧困

2011-06-29 08:31:23 | 日記


今朝の天声人語は言う;

《▼この国を舞台に映画を撮ったイラン人監督のマフマルバフ氏が言っていた。「米軍が爆弾でなく、本を落としていたら」。識字率は男性で50%、女性は18%しかない。無知と貧困こそ、暴力とテロの温床になる》


ぼくたちは(優しい日本人は)、こういう言葉を、永遠に聞き、そうすることによって、《無知と貧困》、《暴力とテロ》を永久に放置・許容する。

すなち、この、識字率が高い日本国において、《無知と貧困》は、増大している。

毎日、天声人語を読んでも《暴力とテロ》は減少しない。

たとえば“太平洋戦争”(アメリカと日本の戦争である;念のため)において、アメリカ(合衆国、我執国?)は、爆弾の雨を降らせた(原爆は黒い雨を降らせた)だけではなかった。

チョコレートやガムや野球などなどという雨も降らせたのである。

まさに“英語”という言葉の雨を降らせた(つまり“英語の本”が降ってきた)

アメリカンな“カルチャー”と“ライフスタイル”であった。

それは、生活と文化の洗脳である、これを“啓蒙”とか“生活のクオリティの向上”とも呼ぶ。

ぼくも少年時より、このカルチャーにどっぷり侵食され、デズニー映画を見、プロ野球を観戦し、ジーンズ狂となり、ロックンロールにしびれた。

なによりも“テレビ”であった。
テレビが始まったとき、ぼくより熱心にテレビを“観賞して”いたひとは、いるのだろうか?

その“愛”によるのではなかったが、ぼくの職業の多くの部分も、テレビに関与していた。

結局、ぼく(ぼくら)は、テレビが売るものを買ってきたのだ。

それは、電気洗濯機!電気釜!エアコン!のみではなく、カルチャーという“テイスト(味覚)”であった。

“違いがわかる”基準は、このテイストであった。

そのカルチャーの“極めつけ”は、このパソコンである。

おうち(お家)でも仕事場でも、ぼくはこの画面ばかり見て、ポコポコ不器用に“入力”するだけである。

いったい、この灰色に輝く画面は、解放へつながるフィールドなのか、ただ彷徨うだけの閉塞の荒野なのか。

実感としては、もう答えは出てしまった。

だから、実感を裏切ることが必要である。

実感を裏切る(くつがえす)言葉を、さがす。

たとえば、

★ 大事なのは自分は存在していると感じるということなんだ、われわれは一日のうちの大半はこの真実を忘れてすごしているものだが、それも、家々とか赤信号をながめているときに突然、この真実がうかびあがってくる。―ゴダール







<結論>

天声人語ではなく、ゴダールを読め、ジュネを読め、デュラスを読め、ル・クレジオを読め、中上健次を(笑)読め!


識字率が上る、ことは必要である。

なぜなら、言葉が(本が)“読める”。

だが、なにを、どのように読むのか?

あるいは、読む対象を選ぶとき、すでに、ぼくらは、自分に必要なものがわかっている。

もし、読んで、失望しても、実は、そのことが必要だった。

むしろ、あらかじめ“納得されてしまう”言葉こそ、無用なのだ。

多くの人々が、うなずきあう言葉こそ、言葉の危機だ。

私は、字が読めているのか?

私は、他人のおしゃべりを聞けているのか?

自分にこの疑問を突きつけることが、必要である。

そして、電撃のように言葉に出会う。

それは、私が、これまでに知らなかった言葉である。






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