★ これは多くの人が誤解をしていることだと思うので、あえて書いておきたいのだが、若者にむかって若者であることの気持を尋ねたり、老人に老人の道を問うたりすることは、はたして妥当なことなのだろうか。というのも多くの若者はいまだに若者であること以外の状態を知らないわけだし、老人は生まれてはじめて老人になったばかりであって、とりたててその道に熟練しているとはかぎらないからである。
★ 誰もが(よほどの不運に見舞われないかぎり)若者から中年へ、そして老人へと年齢の階段を自然に登ってゆく。とはいえ、最初から自分が次に向かうであろう状態を知悉している者はおらず、新しい階段を登ってみて初めて眼の前に展がる光景に感嘆したり失望したりするばかりなのだ。もっと率直にいうならば、この世のなかにはプロの若者もいなければ、プロの老人もいない。誰もが到達したばかりのその場所において初心者であり、いうなればアマチュアなのではないか。
★ 人生における若さを考えるようになったとき、誰もがもはや自分が若くないという認識に捕らわれているのであって、結局のところ人は失ったもののことしか、思考の対象として内面化できないのだ。同じことが幸福と不幸についてもいえる。幸福のさなかにある者は、自分が幸福であるなどとはいささかも考えないものだ。幸福を思い願うのは、かならず不幸の淵に立たされてしまったときなのである。
二十歳がもっとも美しい季節だなんて、わたしは誰にもいわせないぞ。(ニザン『アデン・アラビア』冒頭)
<四方田犬彦『人、中年に到る』(白水社2010)>
幸せの初心者である。
そして、常に初心者である。
昨日は仕事の日で、疲れてはやく寝ようと思ったのに、NHKのウインブルドン2回戦、伊達とV.ウィリアムスの試合を3時過ぎまで見ていました。
伊達は40歳、一度引退したとても“初心者”とはいえない“プロ中のプロ”かもしれませんが、ぼくはこの日挑戦する彼女(にも)、初心のようなものを見ました。
《幸せの初心者》という言葉は、とてもいいですね。
ぼくは昨日の昼休み、喫茶店で、ビートルズの“フール・オン・ザ・ヒル”がかかったのを聴きました。
そして、ぼくもまた、“丘の上のバカ”として、“スピニング・ワールド”(回転する、振動するこの世界)を見てきたし、これからも死ぬまで、見ていきたい(行きたい、生きたい)と思った。
私も年を取るほどに生きてきてよかったと思えるようになりました。
どうかご健闘を・・・。
漂流し、ある島に流れ付き、歩き回っていた。
そして、未知の世界を進むことになった。
(全ての事象は未知の世界ですが)
過去の道筋を示しつつ、強いることなく、
そこにいてくださるという感覚。
不思議です。