Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

原発事故3カ月

2011-06-12 14:51:21 | 日記


“毎日jp”で<原発事故3カ月>という記事を見た。

この事故の事実関係が錯綜し、“わずか3ヶ月”であっても、ぼくの頭も混乱している。

比較的よくまとまっていると思われるので、貼り付ける;


<収束見えず(1)「レベル7」まで1カ月>

 東京電力福島第1原発の事故からまもなく3カ月。収束に向けた懸命の復旧作業は、大量の高濃度放射性汚染水や、爆発で飛散した放射性のがれきに阻まれ難航している。複数の原子炉が世界最悪の「レベル7」の深刻な状態に陥るという前代未聞の事態に政府や東電はどう対応したのか。混乱の3カ月を振り返る。
 ◇過小評価、すべてが後手
 「チェルノブイリ事故に匹敵する、あるいは超えるかもしれない事故になったことを重く受け止めている」
 震災から1カ月以上たった4月12日午前、東京・内幸町の東京電力本店。松本純一原子力・立地本部長代理は会見で述べた。この日政府は1~3号機の事故を、原子力施設事故の深刻度を示す国際評価尺度(INES)で最も深刻なレベル7(暫定)に相当すると発表。レベル7は、史上最悪と言われた86年のチェルノブイリ原発事故(旧ソ連)しか前例がない。
 日本ではそれまで、JCO臨界事故(99年、作業員2人が死亡)が「レベル4=施設外への大きなリスクを伴わない事故」で最悪だった。福島第1の事故で外界に放出された放射性物質は同日現在で37万~63万テラベクレル(ベクレルは放射線を出す能力の単位、テラは1兆)と推定され、「数万テラベクレル相当の放出がある場合」と定義されるレベル7の要件を満たしていた(その後63万~77万テラベクレルに上方修正)。
 1カ月後の決定に「遅すぎる」と批判の声が上がった。世界の核関連活動を監視する米シンクタンク、科学・国際安全保障研究所(ISIS)は、地震直後から立て続けに起きた水素爆発を受け、3月15日の時点で「状況は相当悪化した」として、「レベル7に達する可能性もある」と指摘していた。福島県内の原乳やホウレンソウ、東京都の水道水から規制値を超える放射性物質が検出され、放射能汚染への不安が列島に広がった。
 一方、3月12日時点の政府の認識はレベル4。18日にレベル5に引き上げたが、レベル7の判断までさらに3週間を要した。内閣府原子力安全委員会の委員は「放射性物質の拡散予測結果がまとまった3月23日の時点で、レベル7に該当する可能性が高いと分かっていた」と発言。だがその認識を外部に伝えず、政府内の連携不足も露呈した。
 事態を過小評価したために、有効な対策が打てず時間を浪費し、深刻化を招いた--。海外メディアの追及に枝野幸男官房長官は「政府は大量放出を前提に対応してきた」と弁明した。
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 □レベル7
 国際原子力機関(IAEA)が定めた世界共通の事故尺度「国際評価尺度」は0~7の8段階で、レベル7は最も深刻な事故であることを示す。「極めて少量」の放射性物質放出を伴う事故はレベル3、従業員の致死量の被ばくを伴う事故はレベル4(JCO臨界事故はレベル4)。米スリーマイル島原発事故はレベル5。レベル7は福島第1の今回の事故と、チェルノブイリ原発事故だけ。


<収束見えず(2)「炉心溶融」まで2カ月>

 地震から2カ月あまり経過した5月15日。東電は、1号機の核燃料の大半がどろどろに溶けて原子炉圧力容器の底にたまる「メルトダウン(炉心溶融)」状態にあるとの見方を初めて明らかにした。2、3号機についても24日、同様の状態と認めた。
 地震発生初期の運転操作記録などを基に、1~3号機の炉心の状態を事故解析プログラムで推定した。津波で冷却機能を失った結果、1号機は3月11日午後7時ごろ▽2号機は14日午後8時ごろ▽3号機は13日午前9時ごろ--に燃料棒の損傷が始まった、という。
 それまで東電は、燃料の一部損傷は認めていたが、大半は健全との想定で対策を講じていた。その代表例が、格納容器を水で満たす「冠水」(水棺)だ。
 非常用の炉心冷却システムが機能不全に陥った1~3号機では、外部から注水して燃料を冷やす方法が続けられた。だが蒸発分を差し引いても、圧力容器の水位が思うように上昇しない。冠水は、燃料棒が水の上に露出し続ける事態を防ぐため、圧力容器ごと水に沈めて冷やす窮余の策だった。
 しかし現実には、燃料はもはや棒の形状を保っておらず、容器の底にたまっていた。冠水は不要どころか、注いだ水が格納容器から漏れ出し、大量の放射性汚染水になった。東電は5月17日になって冠水断念を表明した。
 3月下旬には米国の専門家らが「原子炉が冷却機能を失って3時間半後には大半の燃料が溶融した」とのシミュレーション結果を国際原子力機関(IAEA)に提出している。国内の専門家もメルトダウンの可能性を繰り返し指摘していた。
 事故直後に起きていた現象を確認するまで2カ月。松本本部長代理は「当初は注水作業に全力を挙げていたので(余裕がなかった)」と弁明。「解析に必要なデータがそろったのは5月に入ってからだった」とも説明した。初期対応のまずさは、後々まで響いた。
 奈良林直・北海道大教授(原子炉工学)は「結果論だが、11日の夜が勝負だった」と指摘する。津波などで原発内が混乱し、原子炉を冷やす作業が結果的に遅れた。
 「今回、事故の教訓を一番引き出せるのは、3月11日になぜ(作業の)空白ができたのか、さらに12、13日までの3日間をしっかり調べて明らかにすることだ」

 □メルトダウン
 原子炉内の冷却水が減って燃料棒が露出した結果、過熱により溶けて破損する状態を「炉心溶融」と呼ぶ。炉心すべてが溶け、原子炉圧力容器の底にたまる状態をメルトダウンと呼ぶが、専門家による明確な定義はない。圧力容器の底が破れて格納容器内に落ちると、より深刻な水蒸気爆発を起こす恐れがある。


<収束見えず(3)「冠水」徒労で大量汚染水>

 事故収束に向けた大きな障害の一つが、放射性物質に汚染された大量の水だ。原子炉建屋とタービン建屋の地下や建屋外のトンネルに滞留している汚染水は、5月末現在で10万5100立方メートル(1~4号機と集中廃棄物処理施設)。標準的な50メートルプール(長さ50メートル、幅20メートル、深さ1・5メートル)約70個分に及ぶ。なぜこのような事態に陥ったのか。
 福島第1原発のような沸騰水型軽水炉では、原子炉内で核分裂反応を起こして水を沸騰させ、約280度の蒸気でタービンを回転させ、発電する。蒸気は復水器で冷やされて水に戻った後、再び原子炉へ送られる。トラブルで原子炉内の水がなくなれば、熱を発し続ける燃料棒は過熱し、溶け始める。大半の燃料が溶けて「棒」の形を維持できず圧力容器の底にたまる現象が、いわゆる「メルトダウン(炉心溶融)」だ。
 これを防ぐために、原子炉には非常時でも水を供給して燃料棒を冷やす仕組み(緊急炉心冷却装置=ECCS)が備えられている。ところが今回、津波で電源が失われ、ECCSが作動しなかった。そこで、強制的に外部から大量の水を注ぎ込み、原子炉を冷やすことになった。
 だが、空だきを続けるやかんに手探りで水をかけるような作業は容易ではない。さらに、圧力容器の底や格納容器に開いているとみられる穴から水がもれ、汚染水は増え続ける一方だ。1日の注水量は計500立方メートル。熱による蒸発もあるため全部が汚染水になるわけではないが、浄化処理が必要な汚染水は年末までに約25万立方メートルに達すると東電は予測する。
 4月には、高濃度汚染水の貯蔵場所を確保するため、比較的低レベルの汚染水1万400立方メートルを海へ放出した。この際、事前の説明がなかったことから、漁業関係者や周辺自治体から批判を浴びる事態になった。
 原子炉を安定させるには、少なくとも、300度近い原子炉内の温度を100度未満まで下げる必要がある。東電は当初、格納容器を水で満たす「冠水」(水棺)という方法を選んだが、その後、格納容器に穴があることが分かり、5月中旬、断念に追い込まれた。
 汚染水を増やさず冷却する方法として編み出されたのが「循環注水冷却システム」だ。汚染水をくみ上げ、放射性物質を除去した後、原子炉内に戻して冷やす。これなら、格納容器から水が漏れ出しても、再びくみ上げて再利用できる。
 この浄化作業は、6月中旬にもスタートする。各号機の汚染水をいったん、集中廃棄物処理施設へ移送。米キュリオン社製のセシウム吸着装置と、仏アレバ社製の攪拌(かくはん)・沈殿装置で浄化し、再び原子炉へ戻す計画だ。
 懸念は、浄化システムが予定通り稼働できなかった場合だ。汚染水が増え続けて行き場を失い、梅雨の降雨も加わって外にあふれ出す恐れがある。
 東電が6月2日、保安院に提出した汚染水の保管・処理計画には、最悪の場合6月中旬にも、汚染水が漏れ出す恐れがあるとの予測が盛り込まれた。4月には2号機、5月には3号機から高濃度の汚染水計770立方メートルが期せずして海中に流出しており、同じ失敗は許されない。また、浄化作業で生まれる大量の放射性物質をどう処理するかも今後の課題だ。
 最終的に、格納容器の穴をふさぐ必要もある。東電は漏れている場所を把握し密閉できる工法を模索している。だが、仮に漏えい箇所が特定できても、周辺は高い放射線量と考えられ、作業員による修復には困難が予想される。


<収束見えず(4)不信呼ぶ情報公開>

 ◇「実は注水を中断していなかった」
 猫の目のように変わる事実関係、発表者によって食い違う説明、データの公表遅れ--。事故後3カ月間の情報公開は「悪い見本」のオンパレードだった。
 事実関係が二転三転し、責任をめぐって国会を巻き込む騒動になった1号機への「海水注入問題」が決着を見たきっかけは、吉田昌郎(まさお)・福島第1原発所長の「実は注水を中断していなかった」という一言だった。この事実は本店さえ知らされておらず、東電内部のガバナンス(統治)の未熟さを浮き彫りにした。
 吉田所長は、事実を明かした理由について「新聞や国会等で議論になって話題になっているので、もう一回よく考えてみた。IAEAの調査団も来ているし、事故の評価・解析は正しい事実に基づいて行われるべきだ」と本店に対して話したという。しかし、5月20日に本店が「海水注入が55分間中断した」と発表してから、真実が明らかになる26日までの約1週間、多くの時間が空費された。統合対策室事務局長の細野豪志・首相補佐官は同日の会見で「正確に国民に情報を伝えられず大変残念だ」と苦り切った。
 ◇「通常と異なる過程で建屋の上方が開放された。言葉として爆発だった」
 現場、東電本店、政府、首相官邸。連携不足は国民にとって、公開される情報そのものへの不信にもつながっている。
 1号機で水素爆発が起きた3月12日。原子炉建屋上部が吹き飛ぶ様子を民放テレビが繰り返し放映する中、官邸が事実を把握したのは発生の2時間10分後。当の東電は「通常と異なる過程で原子炉建屋の上方が開放された。言葉として爆発だった」と、要領を得ない説明を繰り返した。
 事故の深刻さを裏付けるデータの公表をめぐっても、計算間違いや勘違いによる訂正がたびたび発生。避難指示に直結する、放射性物質の拡散予測システム「SPEEDI」の結果公表に時間がかかったのをはじめ、原発周辺の大気中の放射線量など重要な未公表データが2カ月以上たって公表される例も相次ぐ。
 政府は4月25日、原発事故に関する情報公開の新しい試みとして「統合会見」を始めた。それまで▽官邸▽経済産業省原子力安全・保安院▽東電本店▽内閣府原子力安全委員会が個別に行っていた情報発信を「政治主導」でまとめる狙いがあった。
 開催は原則として平日夕方。10種類以上の資料が提供され、最長で5時間を超えた日もある。初日、「原則としてすべての情報を公開する。私を信じてほしい」「テーマごとに一元化した情報を発信し、正確性を期したい」と胸を張った細野補佐官自身が「管轄外なので」と言葉を濁す場面も多く、菅内閣への不信任案が採決された6月2日は中止になるなど政局にも左右される。準備に多くの時間を費やす保安院などからは「かえって非効率になった気がする」と不満の声も漏れる。
 菅直人首相は5月26日、仏ドービルで開かれたG8サミット(主要国首脳会議)で「最大限の透明性をもってすべての情報を国際社会に提供する」と約束した。だが、情報そのものの正確さに疑問符がつく現状は、第三者機関「事故調査・検証委員会」(畑村洋太郎委員長)の真相解明に影響しかねない。
 田島泰彦・上智大教授(メディア法)は「国民の安全のために知らせるべきことを知らせる、そのことに責任を負うという考え方や組織的枠組みが共有されていない。都合の悪い情報は流さないメカニズムが二重三重に働いているのではないか」と批判する。統合会見についても「(関係者間で発言が食い違うなど)ほころびを隠す管理のための発想。事態が深刻化する可能性を念頭に、ありのままの情報を提供すべきだ」と話す。
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 □原子力安全規制
 原子力施設の設置計画や運転を安全の視点からチェックする機関は、経済産業省原子力安全・保安院と内閣府の原子力安全委員会(常勤委員5人)。両者が「原子力安全の番人」としてダブルチェック機能を担うが、保安院は原子力政策を推進する経産省の一部局で、その独立性が問題視されている。安全委員会は政府から依頼された案件に助言する「諮問機関」のため、活動に限界がある。


<収束見えず(5)復旧長期化、作業環境の改善難航>

 東京電力は4月17日、収束に向けた工程表を公表した。7月中旬をゴールとする「ステップ1」は、6月上旬でちょうど中間地点となる。原子炉の冷却を目指し、放射線量を着実に減少させるという目標はどの程度達成されているのか。
 原子炉を最小限の注水で冷やすという目標は、高濃度の放射性汚染水をこれ以上増やさないため。1、2号機の注水量が毎時5立方メートル、3号機は11・5立方メートル。わずかずつだが減少傾向にある。
 5月17日の見直しで盛り込まれた「作業環境の改善」は難航している。1号機では6月4日、原子炉建屋内で事故後最高値の4000ミリシーベルトという高い線量が測定された。2号機は原子炉建屋の損傷が少なかった分、空気がこもって高温多湿となり、人による作業の見通しが立たない。一方、地震直後に3、4号機の中央制御室で働いていた社員2人の累積被ばく量が600ミリシーベルト以上の可能性が浮上。事故対応のため緊急に引き上げた年間上限(250ミリシーベルト)を初めて超えた。作業の長期化が避けられない中、被ばく管理のずさんさが影響しそうだ。
 水素爆発を防ぐための窒素注入は、1号機では続行中だが、2、3号機は建屋内での作業が難しく注入準備ができない状況。汚染水の再利用も、今月中旬に予定する浄化処理システム稼働を待って1号機で始まる見通しだが、2、3号機は未定だ。
 使用済み核燃料プールの冷却は比較的順調だ。「熱交換器を備えた循環冷却装置の設置」がステップ2から前倒しされ、2号機では5月31日に稼働。水温が2日間で約30度下がった。1、3、4号機でも設置工事中で、6月下旬から7月にかけて完成を目指す。
 復旧作業の妨げとなっているがれき撤去は、無人重機などを使って進む。これまでコンテナ300個分を回収した。
 工程表はステップ1終了後、ステップ2に移行。遅くとも来年1月までに、放射線量を大幅に抑え、原子炉を冷温停止状態に持ち込むことが目標だ。東電、政府とも「ゴールの時期は守る」と強調しているが、発表から1カ月で1~3号機の炉心溶融が判明、冠水作業を断念するなど不測の事態も起きており、今後も予断を許さない状況が続く。
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 ◆各号機の汚染水の推定量◆
1号機        1万6200立方メートル
2号機        2万4600立方メートル
3号機        2万8100立方メートル
4号機        2万2900立方メートル
集中廃棄物処理施設  1万3300立方メートル
計         10万5100立方メートル
 (5月末現在、東電集計)
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 □冷温停止
 健全な原子炉では、原子炉内の水温が100度未満を維持し、燃料が安定して冷やされている制御可能な状態。福島第1の事故では東電が「9カ月後の冷温停止を目指す」としているが、燃料が本来の形状を維持していないなど異常事態になっており、政府が事故時の定義を検討している。


<収束見えず(6)東電は社内議論怠った>

 ◇元福島第1原発所長(日本原子力産業協会理事長)服部拓也氏(66)
 事故収束には、政府、東電、現地対策本部の3者が一体となって取り組まなければならないが、当初から懸念されているコミュニケーション不足や信頼関係の欠如が解決されたとは言いがたい。政府内も官邸、経済産業省、内閣府原子力安全委員会などがバラバラ。政府は「原子力との戦争」に臨んでいるとの自覚を持ち、一体となって取り組めるよう努めるべきだ。
 コミュニケーション不足が最も顕著に表れたのが、1号機への海水注入をめぐる問題だ。当初は「55分間海水注入が中断された」と発表され、結果的に現場の所長が注入を継続していたことを明らかにした。3者の間で「伝言ゲーム」が繰り広げられたことが混乱につながったのではないか。所長の判断は当然であり、もし私が所長でも同じ判断をしただろう。
 もちろん、東電に大きな責任があることは変わらない。全電源喪失がどれほどの異常事態なのかという認識が社内で共有されていれば、水素爆発を回避できた可能性もある。東電幹部に「原子力の問題は社内の専門家に任せておけばいい」との安直な雰囲気があったのではないか。日常の作業に追われ、安全の根本について社内で議論することも怠っていた。情報公開の姿勢も極めてずさんだった。
 国や電力会社、メーカーなどのいわゆる「原子力ムラ」の体質が事故の一因になった面もある。ムラは長年固定メンバーで構成され、津波などのリスクを警告する外部の意見を黙殺してきたことは否定できない。
 工程表では、来年1月までに冷温停止を目指すとの目標を示したが、実現のために循環注水冷却システムの確立を急がなければならない。長期的には炉心や使用済み核燃料プールの燃料を取り出して保管する必要もあり、10年単位の視野で取り組む覚悟も必要になるだろう。
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 ■人物略歴
 70年、東大大学院修了。同年東京電力入社。原子力計画部長などを経て00~02年、福島第1原発所長。副社長などを歴任し、07年から現職


<収束見えず(7止)収束待たず被災者補償を>

 ◇福島県大熊町長・渡辺利綱氏(63)
 3月11日を境に、町は180度変わった。全町民が避難を求められる日が来るとは想像もしなかった。
 事故直後、国からは「念のための一時避難」という説明を受けた。5日もたてば家に帰れるだろうと、多くの人が着の身着のまま逃げた。それから3カ月。原発の安全性を過信していたと痛感している。
 多くの地方自治体が財政難や過疎化に悩む中、大熊町は恵まれてきた。原発立地による経済的な恩恵を町民に還元することを政策の柱とし、町民からも「住みやすい町」と評価されていた。約1万1500人の人口に占める14歳以下の割合は県内で最も高く、世代のバランスが良い町だった。
 それが今は福島県会津若松市に4200人、同県いわき市に1000人が避難。ほかにも4700人が北海道から沖縄まで、全国各地(の避難先)でお世話になっている。今後はどれだけの人が町に戻って来てくれるのかが、大きな課題だ。
 原発の「安全神話」は崩れた。1~4号機の廃炉も決まった。大熊町は原発立地町としてマイナスのイメージを強く持たれてしまったが、それを払拭(ふっしょく)するために、原子力の蓄積を復興に生かすことができないか考えている。将来的には、核技術を使った産業や放射線医学、新エネルギーに関する企業や研究所などを誘致したい。
 私自身、今回の震災で生活も考え方も変わった。避難生活を体験し、人の情を知った。負けてはいられない。この逆境をバネに復興するのが、支援を下さった方々への恩返しだと思っている。
 東電や政府には、とにかく一刻も早く事故を収束していただくよう望んでいる。被災者への補償も、事故収束を待たず、スピード感を持ってきめ細かく対応してもらいたい。
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 ■人物略歴
 宮城県農業短大を卒業後、家業の農家を継ぐ。91年11月、町議選で初当選。07年9月から町長(1期目)