Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

グロテスク

2011-06-02 19:55:09 | 日記


今日の午後中テレビで、“不信任案否決”を行う、奇怪な国会中継をずっと見ていた。

もう見たくもない顔がぞろぞろ出ていた。

彼らは、野次を飛ばし、居眠りをし、わけもなくニヤケ、壇上で賛成とか反対とかの“演説”が行われているのを無視して次々と不信任案に賛成するひとりの議員を“説得”するため、抱きつかんばかりであった(議場入場の際には、実際に抱きついてその議員を拉致した;笑)

演説するひとも、まったく心にもない“被災地の人々のために”を選挙演説の習慣から“連呼”するばかりである。
“反対”演説の民主党若手議員は、議場の他の議員に“反対投票をお願いします”と土下座せんばかりであった(笑)

国会とは、論議する場であって、“連呼”とか“土下座”などをする場ではないはずであった。
戦後60年、まったく進歩しないグロテスクな“田舎芝居”を見せつけられた。

ぼくは、もう二度とこういう人たちの顔を見たくない。
つまりこの人たちの存在は、“グロテスクな顔”(あるいはスーツに隠されたボテ腹)であって、彼らの“言葉”ではない。

この中継を経てテレビスタジオでは、また別の“したり顔”した人々のご大層な“解説”が展開された。
またもや、言葉は、徹底的に愚弄された。

自分の利権と保身にしか関心のないテレビ・タレントども。

彼らにとって言葉とは、いかに自分に有利になるかを獲得するためのトリック=手段でしかないのだ。

ぼくは“政治家”のみに言っていない。

原発事故の今後の行方も恐怖だが、この“日本語の壊滅”こそ、最大の危機である。

疲れてかすむぼくの視界には、“大津波と原発爆発”で粉々に壊滅する国会とテレビ局が見えた。








リアリズム

2011-06-02 12:30:21 | 日記


★ けれども、私は真に効果的な小説を完成する希望を捨ててはいません。それは(略)読者大衆の真実尊重の傾向――つまり心理分析とか明確な例証という支配的な流れにつながる傾向にではなく、その感情面に訴えるものなのです。

★ そこには、踏査すべき巨大な処女空間があり、凍結したままの広大な地域が著者と読者の間にひろがっていると思われます。この踏査は、ユーモアから素朴さに至るあらゆる種類の共感をとおして行われるべきであり、体系的精確さをもって行われるべきではありません。

★ 朗読する人と聴く人の間では、ある特定の瞬間において、話を信ずる気持がはっきりとし、形を取ってきます。(略)文章が何かちょっとした逸話めいたもの、家庭的なものを通じて働きかける瞬間。一枚の風景画とか、大衆新聞の大長編連載物語や映画のストーリーを前にしたときのように、どんな女の子でも思わず「まあ」と溜息をつき、そうすることによって、それまで行間にあった空虚を充たすはずの、そんな瞬間です。

★ 私に言わせれば、書くこと、伝達することは、相手が誰であれ、事柄が何であれ、信じこませることができるということに他なりません。絶え間なく厚かましさを貫くことによって、はじめて、読者大衆の無関心という防壁を揺るがすことが可能なのです。

★ 『調書』には、軍隊から出てきたのか、それとも精神病院からなのかよくわかっていなかった男の話が語られます。(略)リアリズムなどまるで気にしませんでした(現実などは存在しないという感じが私にはだんだん強くなって行くのです)。

★ 私が訂正したあとにもまだ文中に残っているかもしれない、ぴったりしない表現や誤植についても、同じくあらかじめお詫びしておきます(私は自分で原稿をタイプせねばなりませんでしたし、しかも両手の指一本ずつしか使えなかったのです)。

★ 最後に申し上げさせて頂きたいのですが、私は、ある若い娘の死の翌日に起こることをできる限り単純に語る、もう一つのはるかに長い物語を書きはじめております。

<ル・クレジオ『調書』(新潮社2008、原著1963)>






古舘伊知郎は菅直人よりエライのか?

2011-06-02 10:27:24 | 日記


現在、6月2日の午前中、“不信任案”が通るかどうかわからない。

昨夜、“報道ステーション”を見たら古館伊知郎というひとが、この“権力ゲーム”について怒ってみせた。

今日の“天声人語”でも、“B級コメディー”という表現がとられた。

この“日本の政治=B級コメディー・権力ゲーム”は、《制作費の大半が血税》であり、この“ゲーム”は、空前の災害で被災地で苦しむ人々の前で演じられている。

しかし古舘 伊知郎や天声人語や朝日新聞に、それを“批判する資格”があるのだろうか。

ない。

“ない”どころではない。

“彼ら”は、その《B級コメディー・権力ゲーム》によって稼いでいるのだ。

今日の天声人語を引用する;

ざっと見て、いまの日本には「戦場」が三つある。津波で多くの命と財産を失い、10万人が避難所で暮らす東北の被災地。内外に放射能と不安を広げる事故原発。そして、これらに一丸であたるべき者たちが争う国会だ▼谷垣自民党総裁は、菅首相との討論で「だからお辞めなさい」と迫り、内閣不信任案のカードを切った。震災という共通の敵が暴れている時に、陣内で斬り合ってどうする▼菅おろしの勢力は「震災で政権延命を図るな」と批判するけれど、国難の政治利用ならお互い様だ。「被災者のため」と言い張る野党に、民主党の「党内野党」が呼応する。これが政策にかこつけた政局でなくて何だろう▼領土問題などでの「甘さ」に我慢ならない保守論壇も、震災対応の不手際をここぞと攻め立てる。曰(いわ)く、この首相では国が滅ぶ。では空前の大災害を、誰がいかに収めるというのか▼経済学者の浜矩子さんが、「絶句につぐ絶句……仕事しろ」と政治状況を嘆いておられた。情けないのは右往左往する与党議員だ。とうに政党の体をなさぬ民主党ながら、党に残ったまま不信任に賛成するのはずるい。造反といえば格好いいが、信念より打算が見え見えである▼ベトナム戦争の最前線を命がけで取材した開高健は、戦場を「ウソのないたった一つの場所」と書いた。作家の定義に従えば、永田町は戦場の名に値しない。しかもこのB級コメディー、制作費の大半が血税だから泣くしかない。せめて短編で終わりますように。(引用)


なぜ、今日、“大メディア”は、しがない(権力のない)おばさんのように、
《せめて短編で終わりますように》(引用)などと“言える”のだろうか。

この文章(言説、言葉)の責任の<主体>は、いったいどこにあるのか。

なんどでも言う。
天声人語は、“しがない”おばさん、ではない。
天声人語や古館伊知郎は、強大な<権力>によって保護され、高給を稼いでいる。

彼らは、そのギャラに見合った、言葉を発しているのか?
その自分の言葉に、いかなる責任を負っているのか?

この世のあらゆる悲惨に、怒ってみせたり、なげいてみせたり、《……でありますように》などとまったく無益な願望を、幼児のように、痴呆のように、垂れ流しているだけだ。

まさにこの<演技>こそ、《B級コメディー》である。

しかもそれは、《権力ゲーム》からカネをもらっている。

テレビや新聞が、東京電力から、いかに“カネをもらってきたか”も、この原発事故であきらかになった事態である。

もちろん、問題は、“朝日新聞社”とか“東京電力”とかの個別企業だけの問題であるはずがない。
まさにそれは、“日本国”、“日本社会”、“日本人”のシステム=関係性の問題であると同時に、日本という場所に生まれ、<この世界>との関係の中で、生きていく<私>の問題である。

それは、<戦場>である。

開高健が、《戦場を「ウソのないたった一つの場所」》と書いたのは、そういう<意味>である。

開高が“体験した”ベトナムの戦場は、どこにでもある。

どの戦場のさなかでも、うまく立ち回って得するやつらは、いるのである。

しかし、《ウソのないたった一つの場所》を求める人々もいるのである。



ぼくと同じように、“ギャラなしで”文章を書き続けている不破利晴の最新ブログの最後の段落を引用する;

「被災地で自ら命を絶つ人々」は、そんな国土全体を覆うような浅薄さに決着をつけるために自死を選択するように思われてならない。当然、そこにはTVでの仮想現実と真の現実との大きな乖離があることは言うまでもない。そん中、我々は何を考え何をすべきなのか。基本的姿勢はどうあるべきなのか。実は哲学的問題以上に大問題なのだが、悲劇的なのは実際に我々も同じような当事者にならなければ永遠に分からないであろうことだ。
 亡くなった方々の冥福を祈る。