今日の午後中テレビで、“不信任案否決”を行う、奇怪な国会中継をずっと見ていた。
もう見たくもない顔がぞろぞろ出ていた。
彼らは、野次を飛ばし、居眠りをし、わけもなくニヤケ、壇上で賛成とか反対とかの“演説”が行われているのを無視して次々と不信任案に賛成するひとりの議員を“説得”するため、抱きつかんばかりであった(議場入場の際には、実際に抱きついてその議員を拉致した;笑)
演説するひとも、まったく心にもない“被災地の人々のために”を選挙演説の習慣から“連呼”するばかりである。
“反対”演説の民主党若手議員は、議場の他の議員に“反対投票をお願いします”と土下座せんばかりであった(笑)
国会とは、論議する場であって、“連呼”とか“土下座”などをする場ではないはずであった。
戦後60年、まったく進歩しないグロテスクな“田舎芝居”を見せつけられた。
ぼくは、もう二度とこういう人たちの顔を見たくない。
つまりこの人たちの存在は、“グロテスクな顔”(あるいはスーツに隠されたボテ腹)であって、彼らの“言葉”ではない。
この中継を経てテレビスタジオでは、また別の“したり顔”した人々のご大層な“解説”が展開された。
またもや、言葉は、徹底的に愚弄された。
自分の利権と保身にしか関心のないテレビ・タレントども。
彼らにとって言葉とは、いかに自分に有利になるかを獲得するためのトリック=手段でしかないのだ。
ぼくは“政治家”のみに言っていない。
原発事故の今後の行方も恐怖だが、この“日本語の壊滅”こそ、最大の危機である。
疲れてかすむぼくの視界には、“大津波と原発爆発”で粉々に壊滅する国会とテレビ局が見えた。