Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

人生のアマチュア;幸福について

2011-06-21 12:43:17 | 日記


★ これは多くの人が誤解をしていることだと思うので、あえて書いておきたいのだが、若者にむかって若者であることの気持を尋ねたり、老人に老人の道を問うたりすることは、はたして妥当なことなのだろうか。というのも多くの若者はいまだに若者であること以外の状態を知らないわけだし、老人は生まれてはじめて老人になったばかりであって、とりたててその道に熟練しているとはかぎらないからである。

★ 誰もが(よほどの不運に見舞われないかぎり)若者から中年へ、そして老人へと年齢の階段を自然に登ってゆく。とはいえ、最初から自分が次に向かうであろう状態を知悉している者はおらず、新しい階段を登ってみて初めて眼の前に展がる光景に感嘆したり失望したりするばかりなのだ。もっと率直にいうならば、この世のなかにはプロの若者もいなければ、プロの老人もいない。誰もが到達したばかりのその場所において初心者であり、いうなればアマチュアなのではないか。

★ 人生における若さを考えるようになったとき、誰もがもはや自分が若くないという認識に捕らわれているのであって、結局のところ人は失ったもののことしか、思考の対象として内面化できないのだ。同じことが幸福と不幸についてもいえる。幸福のさなかにある者は、自分が幸福であるなどとはいささかも考えないものだ。幸福を思い願うのは、かならず不幸の淵に立たされてしまったときなのである。

  二十歳がもっとも美しい季節だなんて、わたしは誰にもいわせないぞ。(ニザン『アデン・アラビア』冒頭)

<四方田犬彦『人、中年に到る』(白水社2010)>







考えることの歴史

2011-06-21 11:51:11 | 日記


ぼくたちは、目先の問題に追われている。

それで、手いっぱい、である。

目先の問題も、そのひとによって、ちがう。

たぶん、おカネの問題や健康の(病気の―肉体の、心の)問題がある。

自分の問題があり、自分の子供とか、自分の家族の問題があり、ときには自分の友人や同僚の問題もあるだろう。

あるいは、今の、原発をどうするか?とか、日本を復興させるには?とか、日本の政治や官僚~公務員体制や会社や大学やメディアは機能しているのか?(それともそれは、完全に機能不全におちいったか?)という問いもあるだろう。

“デモ”とか、“国民投票”とか、“革命”と言うひともいるだろう。

ぼくには、なにが正しいのか、わからない。
“正しい”ということには、論理的(ロジカルな)側面と、倫理的(モラリスティックな)側面があるらしい。
こういう自分の状態は、“はなはだ遺憾である”。

しかし、ぼくはいったいだれに、“はなはだ遺憾である”と謝罪して、済ませることができるのか。

いったいある行為や、発言を、事後に、“はなはだ遺憾である”と謝罪して済ませることが“できる”社会とか人間関係とかは、いかなることなのであろうか。

ぼくたちは、どんな行為もどんな発言も、謝罪されれば、“許す”ほど、寛容であるのだろうか。

自分を捨てて他者のために生きるというような生き方は、そんなに推奨される生き方であろうか?

なぜ、“被災地の人々のために”、ぼくたちは、突然、生きるのだろうか。
それなら、“被災地の人々”の外に、“ぼく”はいるのである。

あまりにも長く、自分の“エゴ”だけで生きてきたひとびとが、突然、エゴを放棄する生き方を推奨し始めている。

けっきょく、これらは、宗教とかファシズム(全体主義)へ向かうだろう。

それが、“ソフト”であるか、“ハード”であるかは、“わからない”が。

だからといって、このぼくは、それらを“予言”したり、ましてや、“断罪”するわけにもいかない。

なにしろ、ぼくは、“感じている”が、理性的に“判断”しているのでは、まったくない。

ぼくとしては、この自分の限界のなかで、まさに、その限界の範囲“から”、考えるほかない。

ひとつには、“考えることの歴史”にアプローチするという、まったく“遠回りな”道があるように思える。

ぼくがここで“考える”<考えることの歴史>とは、“哲学史”でも“社会思想史”でも、“文学史”でも“自然科学史”でもないということだ。

それらの、“すべて”である。

そういうことを実現した“1冊の本”があるわけではない。
しかし、ぼくにそういうイメージを与えた本はある。

* スチュアート・ヒューズ『意識と社会 ヨーロッパ社会思想史1890-1930』
* 同    『ふさがれた道 失意の時代のフランス社会思想史1930-1960』
* 同    『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』
(以上みすず書房)
* 加藤周一『日本文学史序説 上、下』(ちくま学芸文庫)
* 木田元『反哲学入門』(新潮文庫)と『反哲学史』(講談社学術文庫)


上記の本は、それぞれ“社会思想史”、“文学史”、“(反)哲学史”と命名されているが、その“範囲”は、そういうジャンル分けより“広い”。

ただし、木田元の“(反)哲学史”は、彼がハイデガーやメルロ=ポンティの専門家であるにもかかわらず、“現代”についての記述が弱いと感じた。
それは、木田氏の『現代の哲学』を読めばいい、ということではない。
それは木田氏の“せい”でなく、“現代(反)哲学”とわれわれの<距離>の問題だ。
(木田元のいちばん良い本は、『メルロ=ポンティの思想』=岩波書店だと思える)

加藤周一の『日本文学序説』が、“弱い”のは、(当然)、“戦後文学”である。

ぼくにとって、いちばん“包括的かつ具体的”であったのは、ヒューズ3部作である(しかしぼくはこの3冊を全部通読してはいない)
しかし、この本も、(当然)時代(時期)が限られている(そのあつかった“時期”が人類史上最重要の転換期であったにしても)


以上、これらの“思想史”の欠点をまず述べたが、これらの本は、とても重要な“ベーシックな”本であると考える。

ぼくのように“無駄な”概説書や入門書に足を取られるなら、まず上記の本を手に取ることを薦めたい。

前にも引用したが、ヒューズ『意識と社会』の第1章“いくつかの予備的考察”から引用したい;

★ この研究は、思想史(知性の歴史)についてのひとつの試論である。けれども、思想史を書くといったところで、この思想史という用語の意味を明確にしないかぎり、実際にはなにもいっていないにひとしい。思想史が人間の思想および感情――理性的な議論および激情(パッション)の爆発――をともに取扱うものであることは、あらためていうまでもない。書くこと、話すこと、現実の行為、伝統、などにあらわれる人間の表現の全範囲が、思想史の領域内にある。まったくのところ、野獣の叫び声より判然たる人間の言表なら、ある意味では、そのすべてが思想史の主題になると考えられる。

★ しかしながら、さらにわたくしは、時代を通ずる一観念の推移・変化を海図のごとくに描き上げることは危険な遊戯といってよいのではないかと思う。間隙もなく不確実なところもないきっちりとしたパターンに事物を配列しようという誘惑は、いつでも抗しがたいほどのものとなる。そういう危険を防ぐためには、つねに個々の事例に言及していなければならない。そのようにしてはじめて、歴史的想像力は現実に近いなにものかにつなぎとめられるのである。結局のところ、個人こそ歴史研究の究極の単位である。観念それ自体――思想の「傾向」とか「運動」とか「潮流」とか――は、たんに人間の構成物たるにすぎない。観念はいかに充実していても、そこから個人の思想を生み出しはしない(多くの大哲学者はそのように想像したけれども)。観念は、ある具体的な個人が時間・空間上のどこかでそれを自分の心のなかから産み出すまでは、なんら現実性をももたないのである。





《思想史が人間の思想および感情――理性的な議論および激情(パッション)の爆発――をともに取扱うものであることは、あらためていうまでもない》


《そのようにしてはじめて、歴史的想像力は現実に近いなにものかにつなぎとめられるのである。結局のところ、個人こそ歴史研究の究極の単位である》


《観念は、ある具体的な個人が時間・空間上のどこかでそれを自分の心のなかから産み出すまでは、なんら現実性をももたない》