Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

映画とは?ゴダール、BB、軽蔑

2011-06-18 10:14:45 | 日記


★ 映画の歴史とは、内気で感じが悪く、セックスに取り憑かれた男たちが、胸の張り裂けるほど美しい女性たちに取り囲まれようとする陰謀の歴史であるということは、万人に認められた真実である。


★ バルドーが裸でベッドにいる冒頭の長いシーンがなかったら、『軽蔑』の美しさと感動がずっと少なくなっただろうことは、ほとんど疑いないからだ。身体の各部位を繰り返し名指すことと、非常に強い原色フィルターの使用の両方において、きわめて様式化されているこのシーンは、レヴィンが望んでいたような、ポルノ的興奮も、心理的説明ももたらすことがない。しかし、このシーンは、ヨーロッパで最も多く写真に撮られた女性の、おそらく最も美しい肖像と、映画が進むにつれて破局へと転じる結婚生活のほのかな歓喜を、確かに提供しているのである。

<コリン・マッケイブ『ゴダール伝』(みすず書房2007)>







映画の原作本

2011-06-16 13:01:31 | 日記


この“映画の原作本”というタイトルは、色気のないタイトルである。

こういう風に書くときも、ぼくは“色気”という言葉が、読む人にとって、どう“ちがって”受け取られるのだろう?とあやしむ。

2冊の本について書こうと思うが、まずこの“2冊の本”は、2冊ではなく、片方が文庫で“上、下”巻で出ているので、3冊である(ああ、こういう説明が、書く方も読む方もめんどくさい)

A: M.オンダーチェ『イギリス人の患者』(新潮文庫1999)→オリジナル1992
B: C.フレイジャー『コールドマウンテン上、下』(新潮文庫2004)→オリジナル1997

この2冊の(2種の)本にはいくつかの共通点がある;

① いずれも新潮文庫であり、現在“中古品”である(すなわち書店では買えないが、“古本屋”で買える)
② どちらも“本国で”、それなりの“賞”を取っている(賞が好きな人のために!)
③ 翻訳者が土屋政雄というひと
④ 映画化された
⑤ どっちも、ぼくは好きだ(笑)


実は『コールドマウンテン』は、上巻も読み終わっていない、映画は両方とも見た(『イングリッシュ・ペーシェント』はテレビでだが、3~4回ぐらい見た)

ここでは、映画と原作とのちがいを論じたいのではない(笑)

“ここ”からこのブログを書き始めればよかったかもしれないが、最近、ついに本が読めなくなった。

それで、“読める本”を、(必死で;笑)考えて、ここ10年位で、いちばん無理せず読めた本はなにか?と考えたら、『イギリス人の患者』が浮かんだ。

最初とっつきにくくて、途中から夢中になれたのは、中上健次の『熊野集』、『紀州』だった。

そのほか、“理性的に”よかった本は他にもあるが(笑)、いますぐ思い浮かぶ本(ここ10年で)は、この4冊(4種)である。

『熊野集』、『紀州』のことは、さんざん引用したし、書いてきたので、ここでは書かない。

なぜ『イギリス人の患者』が好きで、読みかけの『コールドマウンテン』が、“読める”のかを考えている。

『イギリス人の患者』と『コールドマウンテン』が、映画の原作となったのは、そこに明瞭な“スジ”があるからである。

しかもソレ(筋)は、男女関係に依拠している。
すなわち、“通俗”かつ“ロマンチック”なのである(けれどもどっちも、“ミステリーでもSFでも”ない)

すなわち、“カフカ”でも、“ベケット”でも、”ブランショ“でも、”ボルヘス“でもないのである。

ぼくは、どうやら、コレを言いたかっただけである。

ああ、いま思いついたが、この2冊は、“戦争”に(暴力に)関与している。

それと前に『イギリス人の患者』の翻訳(土屋政雄)について書いたことがあったと思うが、ぼくはこのひとの(翻訳の)日本語の文が好きである。

それで、このひとが訳した『コンゴ・ジャーニー』を買った。
また、土屋政雄はカズオイシグロの“翻訳者”であり、『アンジェラの灰』の翻訳者でもあるが、いずれもぼくは未読である。



『コールドマウンテン』の最初の章の最後を引用する;

★ 窓際にすわり、一日が終わっていくのをながめた。夕日に心が騒いだ。平らな地平線に灰色の雲が低く密集し、その雲を貫いて、太い一筋の光がまっすぐ上に伸びていた。それはヒッコリー炭が熱く熾ったときの色をしていて、一本の管のように伸び、縁には銃身を思わせる硬さがあった。空に向かって五分間も直立をつづけ、突然消えた。自然は自分の一部に人間の注意を引きつけ、解釈を迫ることがある。これは何のしるしだろう、と思った。いくら考えても、苦難と危険と悲しみを暗示しているとしか思えない。だが、そんなことは、あらためて思い出させてもらう必要もない。自然も壮大な無駄をするものだ、と思った。ベッドに入り、カバーを引っ張り上げた。町を歩きまわった疲れから、わずかな時間読んだだけで、灰色の夕闇の中ですぐ眠りに落ちた。

★ 深い夜中に目を覚ました。部屋は黒く、聞こえるものは、患者の息遣いと鼾(いびき)。ベッドで寝返りを打つ音。窓からごくかすかな光が射し、明るい木星が西の地平線に傾いていた。風が吹き込み、テーブルにある死んだベイリスの紙束に当たった。数枚のページがめくれて立ち上がり、窓からの微光を受けて、小さな幽霊のように光った。

★ インマンは起き上がり、新しい服に着替えた。丸めたバートラムを背嚢に押し込み、それを背負うと、開いた大きな窓に歩み寄り、外をのぞいた。新月の暗闇があった。頭上の空は晴れていたが、地上にはいく筋かの霧が低く這っていた。インマンは窓枠に足をのせ、窓をくぐって外に出た。




なんども引用した『イギリス人の患者』からも、もう一度;

★ だが、あらゆる部族の名前がある。砂一色の砂漠を歩き、そこに光と信仰と色を見た信心深い遊牧民がいる。拾われた石や金属や骨片が拾い主に愛され、祈りの中で永遠となるように、女はいまこの国の大いなる栄光に溶け込み、その一部となる。私たちは、恋人と部族の豊かさを内に含んで死ぬ。味わいを口に残して死ぬ。あの人の肉体は、私が飛び込んで泳いだ知恵の流れる川。この人の人格は、私がよじ登った木。あの恐怖は、私が隠れ潜んだ洞窟。私たちはそれを内にともなって死ぬ。私が死ぬときも、この体にすべての痕跡があってほしい。それは自然が描く地図。そういう地図作りがある、と私は信じる。中に自分のラベルを貼り込んだ地図など、金持ちが自分の名前を刻み込んだビルと変わらない。私たちは共有の歴史であり、共有の本だ。どの個人にも所有されない。好みや経験は、一夫一婦にしばられない。人工の地図のない世界を、私は歩きたかった。

★ 砂漠は風に舞う布。誰のものでもなく、誰も所有できない。石でつなぎとめることもできない。砂漠は古い。カンタベリーが生まれたとき、西洋と東洋が戦争と条約で結ばれたとき、砂漠はすでに何百という名前をもっていた。砂漠のキャラバンは、不思議な文化だ。連夜の饗宴のあとに何も残さない。火の燃え残りすらない。私たちはみな、国という衣を脱ぎ捨てたいと思うようになった。遠いヨーロッパに家や子どもをもつ者もいたが、その人々も例外ではない。砂漠は信仰の場。人はオアシスの港を出て、火と砂の風景に消える。オアシスは水が立ち寄る場所……アイン、ビウル、ワジ、フォッガラ、ホッタラ、シャードゥーフ。じつに美しい。その美しい響きの横に、醜い人名をさらすのは恥ずかしい。人の名前を消せ。国名を消せ。私は砂漠からそれを教えられた。

★ 二人が過ごした数時間のあいだに、部屋は急速に暗くなった。いま、川面と砂漠からの光だけが残る。めずらしく雨音が聞こえはじめた。二人は窓際に歩み寄り、両腕を突き出す。思い切り外へ乗り出し、体じゅうに雨を受け止めようとする。どの通りからも、夕立への歓声が上がる。

★ いま、砂漠にだけは、神が存在すると認めたかった。外には通商と権力、金と戦争しかない。金力と武力の亡者がこの世界を形作っている。だが、砂漠にだけは神がいると信じたかった。
男は砕かれた国にいた。やがて砂から岩の領域へ。女を心から締め出し、さらに歩く。中世の城のような丘が現れる。男は影をひきずって歩きつづけ、丘の影に入り込む。そこには、オジギソウとコロシントウリの藪。男は岩肌に向かって女の名前を叫ぶ。こだまこそ、虚空にみずからを励ます声の魂なれば…・・・

★ カイロの夕暮れは長い。海のような夜空に、タカが列をなして飛ぶ。だが、黄昏の地平線に近づくと、いっせいに散る。散って、砂漠の最後の残照に弧を描く。畑に一つかみの種がまかれたように見える。








* 画像は上記4冊の本ではありません。
高橋睦郎『十二夜』の宇野亜喜良の画です。







<追記:好きな本>

“ここ10年位で”とかにこだわらないなら、好きな本はもっとある(なぜか”いま”、忘れている本も)

* 開高健の『オーパ!』などの釣り紀行
* 村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』(笑)
* F.ハーバート『デューン砂の惑星』
* 矢作俊彦『夏のエンジン』
* ビュトール『時間割』
* S.キング『IT』(笑)
* ラピエール&コリンズ『おおエルサレム!』
* アーサー・ランサム『ツバメ号とアマゾン号』

とにかく“哲学書”とか“社会科学書”とか”古典文学”ではない、のであった。