Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“終わり”と“始まり”(パート2)

2010-04-12 18:05:31 | 日記


(下のブログからのつづき)

★ しかし、80年代以降、このような中央と地方の風景の均質化や男女間での見かけ上の雇用機会の均等化に続いたのは、より構造的な不平等の拡大であった。90年代の長い不況期を通じ、日本社会は年功序列の賃金制度や労使協調を基盤にした相対的に格差が少ない社会から、社会的・経済的格差を急激に拡大させ、膨大な数の不安定な非正規雇用を抱える社会へと劇的に変化した。もちろん、70年代にあっても格差がなかったわけではないが、社会全体の「豊かさ」のパイが大きくなったことにより、幅広い中流意識が形成されていた。しかし、90年代以降、日本社会はかつて予想もつかなかったほど明白に、収入や資産、将来性の格差が目に見える社会へと変化していったのである。

★ このような社会構造の根本にかかわる変化をもたらした最大のモメントは、いうまでもなくグローバリゼーションである。70年代初頭までの戦後日本社会を突き動かしてきた最大のモメントが「高度成長経済」であったとするならば、本書のタイトルである「ポスト戦後社会」とは、グローバリゼーションの日本的な発現形態であると言っても過言ではない。

★ 世界的な政治・軍事秩序の面からするならば、グローバリゼーションは「ポスト冷戦」の体制変化によって枠づけられている。しかし、この「ポスト冷戦」は、1989年の劇的な政治変動によって突然もたらされたわけではない。それは、70年代初頭の為替の変動相場制への移行、その結果としての莫大な金融マネーの越境的な流通によって必然化していった変化であった。80年代、中南米などいくつかの国を深刻な通貨危機が襲ったが、やがて起きた社会主義崩壊とその後の混乱も、70年代からの世界の骨組の変動とのなかで起きていったいくつもの危機と結びつけて理解しなければならない。そうした意味で、グローバリゼーションはポスト冷戦に先行し、現代世界の根底を資本の基盤的構造のレベルから方向づけてきた。

★ このような世界秩序の変化に対応して、80年代の欧米や日本の国家体制は、「福祉国家」から「新自由主義」へと大きく政策体系の根本を転換させる。1979年にイギリスでサッチャー政権が、81年にアメリカでレーガン政権が誕生したのに続き、82年には日本でも中曽根政権が誕生し、新自由主義的な路線に大きく舵を切った。

★ ポスト戦後において、自民党の保守政治は、池田勇人の「所得倍増」から田中角栄の「列島改造」までの福祉国家型の利益配分政治から、中曽根康弘から小泉純一郎までの「民活」と「規制緩和」を軸にした新自由主義的なポピュリズムへと変身していく。この政策転換は、集票マシンとなることと引き換えに地方農村に利益を還元してきたシステムの破綻を意味していた。90年代、円高が急速に進行するなかで、この列島から多くの産業が転出し、後には活路を失った多くの地域や高齢化した人びとが取り残されていくことになったのである。

★ 「戦後」から「ポスト戦後」へという、本書で扱う諸々の変化に通低しているのは、何かの時代の「始まり」ではなく、むしろ「終わり」である。それは第一に、保守派と革新派のいずれを問わず前提としていた福祉国家体制の終わりであった。この体制は、戦中期の総力戦体制から連続して組織されたものであったから、ここで終わりつつあるのは、「戦後」であると同時に「戦中」でもある。第二に、「ポスト戦後」において、外的自然との関係が決定的な変化を遂げる。60年代末、「公害」が大きな社会問題となり、各地に力強い環境保護運動が生まれ、この流れはやがて地球環境問題というグローバルな課題と結びついていった。そして第三に、内的自然もまた「ポスト戦後」に大きく変容する。これまで人びとの人生の基盤をなしてきた共同体が崩壊の危機に直面していっただけでなく、自己そのもののリアリティが、すでに述べたような「虚構」のなかで失われていった。

★ こうしたなかで、いかなる新しい「始まり」が可能なのか――。新しい始まりは、そのような新しい時代を切り開く新しい歴史主体の形成と切り離せない。

★ 本書は多くの章で、社会運動の担い手たちに注目している。60年代の学生運動がどのように自己否定を重ね、孤立化していったのか。ベ平連やウーマンリブ、沖縄の反基地運動に、どんな新しい主体の可能性が垣間見えるのか。地域の歴史的景観や自然を守るローカルな運動が、新しいまちづくりにつながるいかなる主体を胚胎しているのか。拡大する格差のなかで、周縁化された労働者の新しい連帯は可能なのか。「アメリカ」という留め金に逃れ難くピン止めされながらも、空洞化する日本社会の現場を繋ぎ、アジアの人びとの思いと結びついていけるような歴史の主体は可能なのか。筆者はこれらの問いを、そうした主体の形成を困難にし続けているさまざまな条件を丹念に見据えながら考えていきたいと思っている。

<吉見俊哉;『ポスト戦後社会』(岩波新書2009)>





“終わり”と“始まり”(パート1)

2010-04-12 18:03:23 | 日記


どうもこのところ頭がすっきりしないのは、天候のせいか、ぼくだけなのかもしれないが、ここである“基礎的なこと”を考える、ひとつの手がかりを引用したい。

これが、“基礎的ベーシック”であるのは、それが岩波新書という、きわめて“正統的な”新書として刊行されたからである。
だから、すでにこの新書を読んだ人も多いだろうから、それらの方々にはこのブログは不要である。
また、現在においても、“岩波書店は偏向している”と言うひとがいるようであるが(この本についてではないが、Amazonで岩波の本についてのそういう書込みを見た)、そういうひとは、偏見をすてて(笑)読んでいただきたい。

別にぼくは岩波の本とか岩波新書が、“正しいことのみ”を言っていると言っているのではない、あくまで“ベーシックな認識”と言っている。

とにかく、だれが読まなくても、自分の頭を整理したい。
引用開始;

★ 社会的なリアリティの変容という面でいうならば、「戦後」社会から「ポスト戦後」社会への転換は、見田宗介が「理想」および「夢」の時代と名づけた段階から、「虚構」の時代と名づけた段階への転換に対応している。見田によれば、1945年から60年頃までのプレ高度成長の時代のリアリティ感覚は、「理想」(社会主義であれ、アメリカ流の物質的な豊かさであれ)を現実化することに向かっており、その後も70年代初めまで、実際に実現した物質的豊かさに違和感を覚えながらも、若者たちは現実の彼方にある「夢」を追い求め続けた。しかし、80年代以降の日本社会のリアリティ感覚は、もはやそうした「現実」とその彼方にあるべき何ものかとの緊張関係が失われた「虚構」の地平で営まれるようになる。この時代の人びとの生活を特徴づけていくのは、「リアリティの「脱臭」に向けて浮遊する<虚構>の言説であり、表現であり、また生の技法であった」(見田宗介)

★ 見田が指摘した「戦後」から「ポスト戦後」への移行のなかでのリアリティの成立平面の転換は、本書のなかの多くの事例において検証されていくことになろう。都市空間の面で「夢」の時代を象徴したのが、1958年に完成した東京タワーであったとするならば、「虚構」の時代を象徴するのは、間違いなく83年に開園した東京ディズニーランドである。

★ そして、東京タワーに集団就職で上京したての頃に上り、眼下のプリンスホテルの芝生やプールのまばゆさを脳裏に焼き付けていた少年永山則夫は、68年秋、そのプールサイドに侵入したのをガードマンに見つかったところから連続ピストル射殺事件を起こしていく。永山の犯罪は、「夢」の時代の陰画、大衆的な「夢」の実現から排除された者の「夢」破れての軌跡の結末であった。これに対し、この事件の20年後に起きた宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件では、殺人そのものが現実的な回路が失われた「虚構」の感覚のなかで実行されている。

★ このようなリアリティの存立面の対照は、若者たちによって引き起こされていった社会的事件にも認めることができる。「夢」の時代が内包する自己否定的な契機を極限まで推し進めたのが1971年から72年にかけての連合赤軍事件であったなら、90年代、「虚構」の時代のリアリティ感覚を極限まで推し進めていったところで生じたのは、オウム真理教事件であった。見田や大澤真幸の議論を受けて本書も論じるように、これらの事件の対照には、「戦後」と「ポスト戦後」の間でのリアリティの位相の転換が、集約的なかたちで示されている。

★ 70年代以降、私たちの生活の存立機制が、「虚構」としか言いようのない地平に転移したのは、重化学工業から情報サービス産業への重点シフトといった産業体制の転換に対応する出来事であった。そうした変化のなかで人びとは、「重厚長大」よりも「軽薄短小」に、つまり重くて大きいものよりも軽くて小さいものに大きな価値を置くようになっていった。

★ 70年代に起きた主だった変化を生活に近いレベルから挙げていくならば、まずは核家族化から少子高齢化へ、都市化から郊外化へといった変化が注目される。高度成長期を通じ、日本社会は農村から都市への人口集中が進み、これは過疎・過密問題として現れていた。
しかし、70年代の過渡期を経て顕著になっていくのは、都市化より郊外化、つまり巨大な大都市<郊外>に都市も農村も呑み込まれていく現象だった。郊外化が進むなかで核家族の高齢化が進み、やがて少子化がこれに追い打ちをかけながら家族の平均的なあり方を変化させる。一連の法的整備により女性の雇用は見かけ上は拡大し、70年代まで一般的だった「専業主婦」は、90年代以降はより多様な家族の性別役割へと変化した。

(上のブログにつづく)




絵を描くりえと、ウィリアム・モリス;ラディカルなデザイン(生)

2010-04-12 13:06:34 | 日記


☆ このブログのタイトルを見て、わからないひとがいると思うので説明する。
“絵を描くりえ”というのは、おとといぼくがNHK・BS2で見た宮沢りえのケニヤ滞在ドキュメントの再放送(2005年に撮られた)のことである。
ウィリアム・モリスというのは、あのアート&クラフト運動の人であり、みなさんもなんとなく知っている(だろう)人である。

☆ しかしこの両者が“○○と××”とタイトルに書かれているからには、この両者になんらかの“関係”があるのだろうか?
たとえば“現在”、宮沢りえが絵を描くことと、ウィリアム・モリスを対比して、なにかぼくが“文句を言う”のだろうか。
そういうことではないのである。
この組み合わせは<偶然>である。
ぼくが宮沢りえを見たのは、彼女が好き(好きだった)からであり、ウィリアム・モリスに関心を持ったのは、柄谷行人『隠喩としての建築』後記に出てきたからだ。

☆ その部分を引用する;
この点で、たとえば、アート&クラフト運動によってバウハウスにも大きな影響を与えたウィリアム・モリスを例にとろう。彼は、イギリスの最初のマルクス主義者の一人であった。彼がフェビアン主義(ベルンシュタイン的な社会民主主義の源泉)を否定したのは当然だが、ボルシェヴィズムを受け入れないだろうことも間違いない。今日、人はモリスにマルクス主義と異なるユートピア主義を見ているが、むしろそこに晩年のマルクスの考えに近いものを見るべきなのである。たとえば、『フランスの内乱』や『ゴーダ綱領批判』などの仕事が示すように、マルクスの考えはむしろプルードン的なアソシエーショニズムに近かった。一方、いわゆるマルクス主義(社会民主主義であれボルシェヴィズムであれ)は、マルクスの死後エンゲルスによって形成されたということができる。

☆ それで、ウィリアム・モリスについての本を持っていることを思い出した。
妻がむかし買った小野二郎『ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想』(中公文庫1992)である。
この文庫自体が1992年の刊行と“ふるい”が、この本は元々中公新書で1970年代はじめに刊行された。
著者の小野二郎氏は1982年に死去されている。
この小野二郎という名には記憶があった、ぼくが大学時代、目覚しい出版社であった(現代思潮社とともに)晶文社の設立者のひとりである。
晶文社は現在もあるが、あの当時のかがやきはない。

☆ いま“あの当時”といったが、この小野二郎氏の本を読んで、まさしく“あの時代”を喚起された。
あまり“わかりやすい文体”ではないのである(かなり“思い入れ過剰”な文体といえばよいか)
しかし、逆に言えば、“あの時代”には、“思い入れる”思い、というものがあったのだ、と思い出す。

☆ アフリカ(ケニヤ)での“りえ”は、あまり“アフリカ観光”をしないで、ひたすら絵を描き続けた。
これはある意味では、とても贅沢なことである。
なぜアフリカまで来て、延々絵を描くりえを写し続ける番組をNHKは作成したのかという苦情はこなかったのだろうか(笑)
しかし、もちろん、ぼくにとってこの番組は、まれに見る“よい番組”であった。
しかし、ただひとつ残念なのは、“りえ”に、“ウィリアム・モリスを知っていますか?”という質問を発するひとがいなかったことだ。
もちろんこの“ウィリアム・モリス”は、比喩である。
ぼくは“りえ”をよく知らないが(あたりまえだ、個人的にお付き合いがない)、彼女は最近のニッポンゲイノー界では、比較的“自然な女”に見える。
ただし、まさに残念なのは、彼女の周辺には、“ある種の人間”しかいないことだ。

☆ 小野二郎『ウィリアム・モリス』から引用する;
実は、私はモリスの思想を趣味の体系として理解することは、その本質に迫る正しい道だと信じている。「趣味」というスタティックな言葉をあえて用いるのは、モリスが人間生活の本質を「生活の質」の感覚からつかまえているからであり、その生活の質感は一先ず(ひとまず)人々のいう「趣味」と同じ感覚の場で働くからである。このいわばラディカルな趣味の体系とおのれの趣味とを交わらせようとするなら、その趣味はその人のいのちの根本にかかわるものでなければなるまい。だから浅く体系化してその上で趣味化するとは、このプロセスのちょうど正反対を行うことである。ここで大切なのは思想の趣味化ではなくして、趣味の思想化であるのだから。

☆ 上記のような文章を、ひとは、“理屈っぽい”と感じるであろうか。
“りえ”はそういうことは、言わないのである(笑)
しかし小野二郎氏も単に上記のような理屈を“述べたがっている”のではなく、かれの“本作り“の実践において考えているのだ。
当時(1960年代後半)の晶文社の本は、その“内容”だけでなく、その“デザイン(装丁)”も魅力的だったのだ、

☆ さらに小野二郎引用;
モリスは「役に立つ」(ユースフル)ということを、ほとんど宇宙の呼吸のリズムを新しくすることのようにいっているのである。

☆ ぼくは高校生の頃、ある文庫本が大好きであった。
それはSFでも大江健三郎でも(笑)なかった。
とっくになくなった“現代教養文庫”の『インダストリアル・デザイン』という本(だったと思う、数冊に分冊されていたと思う)
要するに、日常に使用する製品のデザイン(良いデザイン)を集めた本だった。
つまり、“装飾”や“芸術”ではない、“ユースフルなアート”である。

すなわち、ぼくたちの“日常”が、美しく機能的なモノで満たされること。
すなわち、ぼくらの生活が、“趣味のよい”ものになること。

しかしモリスは、“それ”を、
《宇宙の呼吸のリズムを新しくすること》のように考えたというのだ。

ぼくは、せめて、“世界の(地球の)”呼吸のリズムを新しくしたいと思う。
あるいは、“この場所=日本”の呼吸のリズムを。

《ラディカル・デザイン》

まさに《ラディカル》という言葉が、この言葉こそ、核心なのだ。

宮沢りえさん、ぼくの意見に賛同していただけますか?