Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Snapshot;<異人論>についての注記

2010-04-17 09:17:28 | 日記


☆ 昨日買って昨夜と今朝にかけて引用した赤坂憲雄『異人論序説』について、いくつかのコメントをしておきたい。

☆ まずこの本は赤坂氏の“最初の著書”であり、1985年に砂子屋書房より刊行されたものが、1992年に‘ちくま学術文庫“として再刊されたものである。

☆ ゆえに、“ニッポンの思想”に詳しい方は、もうとっくに赤坂氏自体の存在を知っており、しかも赤坂氏自身も述べているように、網野善彦、山口昌男、栗本慎一郎、今村仁司らの“影響”を見出すだろう、吉本隆明や柄谷行人からの影響も感じられる。
 
☆ ぼく自身が、この赤坂憲雄氏を知らなかったのは、“うかつ”であった。そしてぼくより若い赤坂氏が、上記のような人々から“影響を受けて”、柳田国男の“研究者”としてスタートしたことも興味深い。

☆ しかし、“この本”で述べられていることを、<古い>と感じる“最先端愛好者”もいるだろう。
つまりなぜぼくが、<いま>この本に惹かれるのか。

☆ つまりもし、網野善彦、山口昌男、栗本慎一郎、今村仁司、吉本隆明、柄谷行人らが“古く”、忘れられるなら、それでよいのであろうか。
ぼく自身、上記の名前の人々で、現在リアルに関心をもっているのは柄谷行人のみであっても。
もちろん上記の人々の“影響を受けて”現在進行中である赤坂憲雄氏に注目するのだが。

☆ つまりなぜぼくが、<いま>この本に惹かれるのか。
ぼくは最近のブログで、《人間には2種類しかない、保守的なひとと保守的でないひとがいるだけだ》という“極論”を書いた。
もちろん、人間は、そんなに簡単に“割り切れる”ものではない。
もし<共同体>や<秩序>を、“批判”するにしても、その“自分自身”は、どっぷりと<共同体や秩序に>従って生きているのだ、“それ”なくしては生きられない。

☆ しかし(笑)、現在ぼくたちを取り囲む<閉塞感>は、あるリミットを越えつつある。
この<閉塞感>をもたらしているものを、ぼくは<保守性>と呼んだ。
それは、あらゆるものの“平準化”・“規格化”・“規範化”・“凡庸化”である。
マスメディアに代表される<言説>は、あらゆる手段を用いてこれらの<言説>による“洗脳”を図っているだけだ。
それは“良きもの=善きもの”の“規格化”である、たとえば“善きファミリー”。
いったい“このぼく”にそのようなものの“良さ=善さ”がワカラナイのであろうか!
しかし“このおとしどころ”こそ、<危機>である。
ぼくは先に、《夫婦+子供数人の家族>を当然の前提とする、天声人語的言説の虚偽を批判した。
そのことは、たんに“ファミリーの小さな幸せ”を<批判>することではない。
<言説>の規格化、平準化、画一化を批判している。
また<言説>を批判することは、たんに“ことばの上のこと”を批判しているのでは、ない。

☆ 形式的に“謙遜”するわけではないが、何度も言っているように、ぼく自身がなんの“専門家”でもないし、歳のわりに幼稚ないいかげんな男にすぎない。
むしろ、このような“自分の人生”にたいする後悔が、現在のぼくにこのブログを、“書かせている”のだ。
ぼくの“意見”や、ぼくが“引用しているもの”が、<主観的>でないことなど、まったくない。
けれども、ぼくと同じようである必用はないが、ぼくがここで述べた<現在の危機>だけは、ぼくには絶対的真実と思える。
<課題>は、この平準化=規格化=画一化を突破する端緒を、どう見出すか、だ。
それは、死ぬほど何度も言っているように、<人間の関係>を少しでも変えることだ。
ぼくが<哲学>や<観念論>に関心を持ち、“引用”しているのも、その問題意識からだ。
なぜなら<人間>は、<カネ>によって動くだけではなく、<カンネン>によっても動くからだ。

☆ もちろん<哲学>だけが重要ではない。
<社会学>も<歴史>も<自然科学>も重要である。
しかし<学>とその“ジャンル”が重要ではない。
あるいは、<学>や<知>や<教養主義>を侮蔑し、<お笑い>や<シャレ>を垂れ流しているのが、ナウイのでは、ない、それが“ナイーヴ”だったり、“カワイ”かったり、“正直”だったり、“自然”であるわけでは、ない。

☆ “無理をすること”も自然であり、“自分に難解であるもの”を知る(読む)ことも、自然である。

☆ 甘いものばかり食べているといくら歯をみがいても、歯はボロボロになる。
<脳>もおなじである。
最新流行しか追わないものも、最新流行を頭から拒否するものも、ともに愚かだ。
人間が考えることのリアルは、そんなにヤワじゃない。




漂泊と定住

2010-04-17 08:13:34 | 日記


★ <異人>はわたしたちにとって、遠/近の両義的なありかたをしめす人々、いわば<漂泊>/<定住>のはざまに生きる人々である。しかし、<漂泊>と<定住>という対概念を、たんなる物理空間的な関係の位相からのみとらえてはならない。それはむしろ、共同体の内/外を往還する運動の軌跡であり、そこにたえまなく生起する<交通>の物語である。

★秩序の周辺部に疎外された者、または“社会的欄外者”(M.メルロー=ポンティ『眼と精神』)をおびた者はしばしば、潜在的な遍歴者という象徴的な、ときには現実的な役割をあたえられる。秩序の周縁というマージナルな場所は、外部にたいしては内側・内部にたいしては外側を意味しており、遠/近・または<漂泊>/<定住>の両義性にひたされた空間といえる。境界的な領域に生きる人々が、往々にして潜在的な遍歴者の相貌を呈するのは、むろんそのためである。したがって、ここに<異人>の第4の種別をたてておかなければならない。
④秩序の周辺部に位置づけられたマージナル・マン
  狂人・精神病者・身体障害者・非行少年・犯罪者・変人・怠け者(労働忌避者ないし不適格者)・兵役忌避者・売春婦・性倒錯者・病人・アウトサイダー・異教信仰者・独身者・未亡人・孤児など

★ さらにわたしたちは、いわゆる帰郷者と境外の民・バルバロスとを、広義の<異人>概念のなかに含めておきたい。
⑤外なる世界からの帰郷者
  帰国する長期海外滞在者・故郷へかえる出稼ぎ者・復員兵・海外帰国子女・“帰国後のロビンソン・クルーソー”・発見された旧日本兵など
⑥境外の民としてのバルバロス
  未開人・野蛮人・エゾ・アイヌ・土蜘蛛・隼人・山人・鬼・河童など

★ <異人>とは実体概念ではなく、すぐれて関係概念である。

★ あらゆる共同体、または人間の形造るすべての社会集団は、共同体の位相からながめるならば、こうした<異人>表象=産出、そして内面化された供犠としての制度によって制御されている、とかんがえられる。たえまなしに再生・反復される共同体の深部には、ただひとつの例外もなく、社会・文化装置として<異人>という名の“排除の構造”が埋めこまれ、しかも、同時にその存在自体がたくみに秘め隠されている。

<赤坂憲雄;『異人論序説』>