Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

驚く人;驚くことができる人

2010-04-10 14:10:43 | 日記


★ たとえば、モンテーニュのような思想家は反体系的な思想家の代表のようにみえる。われわれは、モンテーニュのいうことをまとめてしまうことはできない。そこには、エピキュリアンもいれば、ストア派もおり、パスカル的なキリスト教徒もいる。だが、それはけっして混乱した印象を与えない。注意深く読むならば、『エセー』のなかにはなにか原理的なものが、あるいは原理的にみようとする精神の動きがある。『エセー』がたえず新鮮なのは、それが非体系的で矛盾にみちているからでなく、どんな矛盾をもみようとする新たな眼が底にあるからだ。そして、彼の思考の断片形式は、むしろテクストをこえてあるような意味、透明な意味に対するたえまないプロテストと同じことなのである。

★彼はこういっている。
わたしは低い輝きのない生活をお目にかける。かまうことはない。結局それは同じことになる。道徳哲学は、平民の私の生活の中からも、それよりずっと高貴な生活の中からも、全く同じように引き出される。人間はそれぞれ人間の本性を完全に身にそなえているのだ。世の著作家たちは、何か特別な外的な特徴によって自分を人々に伝えている。わたしこそ初めて、わたしの全体によって、つまり文法家とか詩人とか法律家としてではなく、ミシェル・ド・モンテーニュとして、自分を伝えるのである。もし世の人たちが、わたしがあまり自分について語るといって嘆くならば、わたしは彼らが自分をさえ考えないことをうらみとする。

★ これは逆説であって、実は、モンテーニュはいわゆる自分のことなど書いてもいなければ考えてもいない。むしろ、世の人たちはあまりに自分のことばかり考えていると彼はいっているのである。私こそ初めて、とモンテーニュがいうとき、彼は「自分」というものが主題となりうることを初めて見出した確信を語っているのだ。これまでの著者に対して、モンテーニュはいいえただろう。君たちは哲学者とか詩人として、人間について精神について語ったかもしれないが、まだ何も語っていないにひとしい。どんな説明も規定も解釈もうんざりだ。私は「自分」というありふれた、しかも奇怪なものについて語る。それに対してはどんな予断も躊躇も遠慮もしない、と。

★ モンテーニュが描き出したのは、「人間」に関する従来のさまざまな観念ではなく、いわばその内的な構造なのである。「人間」に関するどんな観念もモンテーニュの前でこわれてしまう。しかし彼がそのことにすこしもおびえなかったのは、宗教や哲学がみいだす「人間」は「意味されるもの」にすぎず、その底には「自分」という奇怪な「意味するもの」がありそれがすべてだと考えていたからである。いいかえれば、主体でも自己意識でもなく、逆にそれらがそこから派生してくるような「自分」がある。それはいわゆる自分ではなく、彼が引用するテクストそのものである。

★ マルクスは『資本論』につぎのように書いている。
商品は、一見したところでは自明で平凡な物のようにみえる。が、分析してみると、それは、形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとにみちた、きわめて奇怪なものであることがわかる。

★ 『資本論』という作品が卓越しているのは、それが資本制生産の秘密を暴露しているからではなく、このありふれた商品の“きわめて奇怪な”性質に対するマルクスの驚きにある。商品は一見すれば、生産物でありさまざまな使用価値であるが、よくみるならば、それは人間の意志をこえて動きだし人間を拘束する一つの観念形態である。ここにすべてがふくまれている。既成の経済学体系は、ありふれた商品を奇怪なものとしてみる眼によって破られた。マルクスは、初めて商品あるいは価値形態を見出したのだ。

<柄谷行人;『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫1990)>