★ わたしが聞き書きした最上(もがみ)に生きる人々の多くは、柳田的な「常民」概念からは大きく逸脱する人生を語ってくれた。かれらが「常民」でないならば、最上地方ではむしろ「常民」は少数派なのである。たとえば、山里の村で田畑を耕しながら、カンジキ作りによって少なからぬ金銭収入を得ている人、開拓の村で畑仕事をしつつ、屋根葺き師として活躍してきた人、馬の種付けを職とする一方で、村の木材工場で働き、田んぼを耕してきた人など、これらの人々は紛れもなく百姓に括られるべきだろう。そして、温泉の裏方仕事だけを生涯にわたって続けてきた人も、亜炭を掘っていた坑夫も、わずかな田んぼを売り払って人形の頭を手に入れた人形芝居師も、最上川舟下りの船頭をしている人も、じつはみな、父や祖父の代には、自作か小作かの違いはあれ百姓だったのである。
★ こうした人々を「常民」概念から、不純物として排除しておいて、いったい村社会の現実が把握しうるものか。わたしたちは何よりそれを疑う。「常民」はどこにいるのか。それとも、わたしが聞き書きをしてきた、みずからを百姓と称する最上の老人たちは、例外的な存在なのか。しかし、おそらく広く東北地方では、柳田が漠然と理念型をもってイメージしていたにちがいない「常民」は、むしろ少数派であったのではないか、とわたしは想像している。稲を作る農民、それが「ふつうの百姓」であり、「常民」であるならば、東北にはそもそも純然たる「ふつうの百姓」も「常民」も存在しない、と考えたほうがいい。
★ とはいえ、これはあくまで、3年間の聞き書きを振り返ったときに浮かんできた感想の一端にすぎない。わたしがマニュアルのない、まったく自己流の野良仕事(フィールド・ワーク)のなかで学んだものは、数多くある。たとえば、小さな人生が孕んでいる凄みのようなものに遭遇したことが、幾度となくあった。生きることの励ましを受けることもあった。それが民俗の学にとって、どのような意味を持ちうるのかは知らない。しかし、「常民」の人生がそれぞれに抱えこんだ、あの物言わぬ凄みにたいする驚きや敬いの念を失った場所に、あらたな民族の学の可能性が芽生えてくるとは、少なくともわたしには、思えない。
★ 稲作以前、あるいは稲作の外部が祓い棄てられたとき、東北の歴史そのものが根底からの否定と抹殺の憂き目に遭っていたことを忘れてはならない。なぜならば、稲作以後に限定された東北は、みずからの歴史的アイデンティティの大半を奪われてしまうからだ。東北はアイヌ文化から空間的に切断されると同時に、時間的にもまた、文化的な古層に横たわる縄文以来の歴史の連なりから切り離されることになった。『雪国の春』という追憶と物語の書が、その懐かしげな表層の声や身振りとは裏腹に、きわめてラディカルな暴力性を秘めたものであったことに、注意を促しておきたいと思う。
★ くりかえすが、『雪国の春』の柳田がめざしたものは、「いくつもの日本」の屍(しかばね)を縦糸・横糸として、あらたに「ひとつの日本」というテクストを織り上げることであった。その試みはみごとな成功を収め、柳田はそれ以降、「ひとつの日本」の精神史を「民俗学」の名において体系化してゆくこととなる。瑞穂の国の民俗学はそうして誕生したのだ、と言ってよい。
★ だからこそ、東北が戦いの舞台となる。『雪国の春』という懐かしい追憶の物語を、東北の地の内側から読み破らねばならない。「ひとつの日本」の呪縛をほどき、「いくつもの日本」を剥き出しに露出させてゆくとき、日本文化像それ自体が根底からの変容を強いられることだろう。東北はやがて、ある特権的な知の戦いの現場と化してゆくにちがいない……、そんな予感はしかし、いまだわたしだけのものだ。
★ 雪国の冬景色を淡く/濃やかに(こまやかに)沈めながら、「いくつもの日本」の彼方へと解き放たれていくような「もうひとつの東北」を、許されるならば描いてみたい。「いくつかの日本」への扉が、いま、東北から開かれる。
冬の旅の途上にて――。
<赤坂憲雄;『東北学/忘れられた東北』プロローグ(講談社学術文庫2009、原著1996)>