Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

東北学;いくつもの日本

2010-04-15 18:52:45 | 日記


★ わたしが聞き書きした最上(もがみ)に生きる人々の多くは、柳田的な「常民」概念からは大きく逸脱する人生を語ってくれた。かれらが「常民」でないならば、最上地方ではむしろ「常民」は少数派なのである。たとえば、山里の村で田畑を耕しながら、カンジキ作りによって少なからぬ金銭収入を得ている人、開拓の村で畑仕事をしつつ、屋根葺き師として活躍してきた人、馬の種付けを職とする一方で、村の木材工場で働き、田んぼを耕してきた人など、これらの人々は紛れもなく百姓に括られるべきだろう。そして、温泉の裏方仕事だけを生涯にわたって続けてきた人も、亜炭を掘っていた坑夫も、わずかな田んぼを売り払って人形の頭を手に入れた人形芝居師も、最上川舟下りの船頭をしている人も、じつはみな、父や祖父の代には、自作か小作かの違いはあれ百姓だったのである。

★ こうした人々を「常民」概念から、不純物として排除しておいて、いったい村社会の現実が把握しうるものか。わたしたちは何よりそれを疑う。「常民」はどこにいるのか。それとも、わたしが聞き書きをしてきた、みずからを百姓と称する最上の老人たちは、例外的な存在なのか。しかし、おそらく広く東北地方では、柳田が漠然と理念型をもってイメージしていたにちがいない「常民」は、むしろ少数派であったのではないか、とわたしは想像している。稲を作る農民、それが「ふつうの百姓」であり、「常民」であるならば、東北にはそもそも純然たる「ふつうの百姓」も「常民」も存在しない、と考えたほうがいい。

★ とはいえ、これはあくまで、3年間の聞き書きを振り返ったときに浮かんできた感想の一端にすぎない。わたしがマニュアルのない、まったく自己流の野良仕事(フィールド・ワーク)のなかで学んだものは、数多くある。たとえば、小さな人生が孕んでいる凄みのようなものに遭遇したことが、幾度となくあった。生きることの励ましを受けることもあった。それが民俗の学にとって、どのような意味を持ちうるのかは知らない。しかし、「常民」の人生がそれぞれに抱えこんだ、あの物言わぬ凄みにたいする驚きや敬いの念を失った場所に、あらたな民族の学の可能性が芽生えてくるとは、少なくともわたしには、思えない。


★ 稲作以前、あるいは稲作の外部が祓い棄てられたとき、東北の歴史そのものが根底からの否定と抹殺の憂き目に遭っていたことを忘れてはならない。なぜならば、稲作以後に限定された東北は、みずからの歴史的アイデンティティの大半を奪われてしまうからだ。東北はアイヌ文化から空間的に切断されると同時に、時間的にもまた、文化的な古層に横たわる縄文以来の歴史の連なりから切り離されることになった。『雪国の春』という追憶と物語の書が、その懐かしげな表層の声や身振りとは裏腹に、きわめてラディカルな暴力性を秘めたものであったことに、注意を促しておきたいと思う。

★ くりかえすが、『雪国の春』の柳田がめざしたものは、「いくつもの日本」の屍(しかばね)を縦糸・横糸として、あらたに「ひとつの日本」というテクストを織り上げることであった。その試みはみごとな成功を収め、柳田はそれ以降、「ひとつの日本」の精神史を「民俗学」の名において体系化してゆくこととなる。瑞穂の国の民俗学はそうして誕生したのだ、と言ってよい。

★ だからこそ、東北が戦いの舞台となる。『雪国の春』という懐かしい追憶の物語を、東北の地の内側から読み破らねばならない。「ひとつの日本」の呪縛をほどき、「いくつもの日本」を剥き出しに露出させてゆくとき、日本文化像それ自体が根底からの変容を強いられることだろう。東北はやがて、ある特権的な知の戦いの現場と化してゆくにちがいない……、そんな予感はしかし、いまだわたしだけのものだ。

★ 雪国の冬景色を淡く/濃やかに(こまやかに)沈めながら、「いくつもの日本」の彼方へと解き放たれていくような「もうひとつの東北」を、許されるならば描いてみたい。「いくつかの日本」への扉が、いま、東北から開かれる。
冬の旅の途上にて――。

<赤坂憲雄;『東北学/忘れられた東北』プロローグ(講談社学術文庫2009、原著1996)>




“昭和”が終わった日

2010-04-15 14:16:12 | 日記


★ さて、1980年代末、「祖父の死」と自己への内閉化は、国家的レベルの集団意識においても起きていた。89年1月7日、敗戦と占領を経ても退位することなく63年余の長きにわたって在位した昭和天皇裕仁が、十二指腸癌のため87歳で死去した。これにより、長かった「昭和」は幕を閉じ、時代は「平成」へと移る。

★ 天皇の重体が伝えられるのはその前年、88年9月19日のことである。この日から実際に死去するまでの3ヶ月半、日本列島は「Xデー」モードに陥り、あらゆる公的な催しが自粛されていった。地方の伝統行事からテレビ番組の派手な演出やCMのフレーズまで、およそ無関係と思われるものまで「自粛」の動きは広がった。各地に設けられた記帳所では「病気平癒」を願う記帳者が跡を絶たず、その数は延べ900万人にも達したという。

★ 「昭和天皇」は、80年代末の日本人、とりわけ若い世代にとってどのような存在であったのか――。筆者ら調査チームは、89年1月7日から数日間、皇居前広場に記帳に訪れた人びとを対象にインタビュー調査を行った。筆者らが訊ねたのは、「天皇の死」についての感想や記帳に来た動機、皇室イメージとメディアの関係、家族内での天皇についての会話、「自粛」騒ぎについての感想などであったが、昭和天皇のイメージについては、いくつかのはっきりとした世代差が示された。

★ 高齢の世代の場合、「天皇と自分は、いっしょに戦ってきた」という発言が示すように、天皇への思いを本人の戦中・戦後体験と結びつける傾向が顕著であった。彼らにとって、天皇の死は、「昭和」の終わりであり、自分たちの人生がずっとそこにあった場所の喪失を意味していた。これに対して若い世代の場合、「天皇はやさしいおじいさん」という発言にみられる「天皇=祖父」イメージが支配的であった。つまり、前者にとっては天皇が同時代的存在であるのに対し、後者には家族的存在として受けとめられていた。そしてこの「天皇=祖父」は、決して家父長として君臨する「祖父」ではなく、「死んでしまって淋しい」「こんなところ(皇居)に閉じ込められちゃってかわいそう」といった発言にもあるように、家族の片隅で存在感を消しながら受け入れてもらっている祖父といった感があった。

★ このような80年代型の天皇イメージの形成において、メディアが果たした役割が決定的に大きかった。

★ したがって、「天皇の死」は、そうした家族的に想像される「祖父の死」でもあった。この家族=国民は、「祖父」を喪うことで「昭和」という国民国家的な時空間から解き放たれた。それは、それまで連続体として想像されてきた国民共同体が不安定化していくことを予感させた。「昭和」から「平成」への移行は、単なる元号の変化ではない。「昭和」の終わりは、ある国民共同体の時代の終わりであった。その後に来る「平成」は、その字義上の意味とは正反対に、それまで「天皇=祖父」によってピン止めされていた自己意識が、大きく拡散と統合の間で揺れ動き、分裂ないしは空洞化していく可能性を孕んでいた。

<吉見俊哉;『ポスト戦後社会』2009>



★ こうした過程で皇太子が果たした役割はきわめて重要である。明仁皇太子は自らの戦後的な家庭形成と生のモデルを提示し続けることにより、豊な社会の現実を実際にリードし、象徴してきたからである。戦後の天皇制ではどうしても裕仁天皇のイメージが強いが、「象徴/世襲」という憲法の二つの規定を実際に担った主体は、天皇個人というより、「天皇/皇太子」という<対>ではなかったろうか。皇太子の家庭形成を通じて、天皇自身も戦争の苛酷な記憶を和らげられ、「やさしいおじいちゃん」として家庭の像のなかにくるまれていった。戦後の天皇制では、皇太子の家庭形成を通じて、天皇という個人の存在よりも、「天皇ご一家」という家庭の表象が徐々に比重を増していくのである。

★ この家庭の表象においては、神話の媒介なしに「天皇/皇太子」がその自然な連続性を確かなものにしていく。だが、天皇の神格はこの自然なイメージの「家庭」とは別に、天皇という個人を皇祖神アマテラスの直接の「御孫」とする言説のうちにくるむことを要求する。ここにいわば「天皇の二つの絆」がある。一方は天皇の存在を温かい「家庭」のなかにくるみ、その個人性を曖昧にするが、他方は天皇の存在をはるかな神話的血縁のなかにある唯一の「個体」として析出するからである。そこで「家庭」は神話の次元を覆すことはできない。「世襲」の観念は神話の枠組から抜け出し、高度成長の動機となった「家庭」に向かうが、どこかでまた遠い神話の枠組に回帰していくからである。だが、天皇にかんする「象徴/世襲」の<歴史-空間>は、この微妙な葛藤を通じて、つまり神話と自然の曖昧な結合によるより広範な表現の回路を通じて、かえって強固なかたちに定着していったといえよう。

<内田隆三;『国土論』2002>




Snapshot;ゼロ年代の思想

2010-04-15 12:28:41 | 日記


☆ 昨年(2009/7)講談社新書で出た佐々木敦『ニッポンの思想』では、“すべては浅田彰から始まって、現在は東浩紀のひとり勝ちである”と書いてあります。
すなわち“ゼロ年代のニッポンの思想家”は東浩紀“ひとり”であると。

☆ ぼくは、“そうでない”と特に言いたいわけではありませんが、こういう本を読んだ“若い読者”が、柄谷行人のような“思想家”を“古い人(80年代のひと;笑)”として、読まなくなってしまうのなら、困ったことだと思う。

☆ すなわち柄谷の“NAM”とか“地域通貨”とかが<失敗>したから、もうダメだと、思ってほしくない。

☆ けれどもぼくは、“NAMとか地域通貨”<運動>についてよく知らないし、柄谷がそういう運動であまりかんばしくない行いをしたかしなかったかも存じません。
すなわちぼくは、“柄谷行人”であろうが、浅田彰“であろうが、”蓮実重彦“であろうが、”宮台真司“であろうが、もっと古い(笑)”吉本隆明“だろうが、”小林秀雄“だろうが、<神格化>する気は、ありません。
もちろん“フーコー、デリダ”だろうが、“マルクス、ニーチェ、フロイト”だろうが。

☆ すなわち、現在のぼくは、<アイドル>を必要とはしていません。

☆一般に、<思想>とか<文学>に関心を持つ(持てる)のには、ふたつの動機があるように思います。
① ある思想家とか文学者(作家)に“惚れこむ”。
② “思想史”に関心がある。
ぼくは①のタイプが“うらやましい”。
最近の例では第3回大江健三郎賞を取った安藤礼二のようなひと。
このひとは、“折口信夫”に惚れこんだんですね;
《この三つの領域(歌人、研究者、小説家)でそれぞれ代表作を残せた人というのは、近代日本思想史、さらには近代日本文学史を考えてみても、おそらく折口信夫ただ一人だと思います》(安藤礼二『光の曼荼羅』から引用)

☆ 上記引用を読むと、むかし、折口の『死者の書』を読みかけて放棄したぼくは、困ってしまいます(笑)
でも、逆に、なぜぼくよりはるかに若い人が“いまさら”折口にひかれるのか、という“関心”が芽生えないことも、ない。

☆ しかし、この『光の曼荼羅』という単行本ができる時に書き下ろされた“序 死者たちの五月”を読むと、“困難性”は増してきます;
《死者たちに奉げられた、虚空からの贈り物。それが文学である。/それゆえ、文学は、この現実世界に対してはなんら有効性をもたない。徹頭徹尾、無用なものとしてある。》(引用)

☆ まあ“評論家としてデビューするひと”というのは、上記引用のような、“強い言い切り”を必要としますね。
しかし、この“部分のみ”を読んだとしたら、ぼくは、“なんでこの人に大江健三郎は賞をあげたんだろう?”と<疑問>です。
すなわち大江健三郎の“小説と実存”は、《この現実世界に対してはなんら有効性をもたない。徹頭徹尾、無用なもの》では、“ない”からです。

☆ ここで“別の本”を取り上げたい。
たまたま柳田國男ですが(つまり“柳田”を“折口”に対抗させるのではありませんが)、赤坂憲雄『柳田国男の読み方』という新書‘あとがき’です。
この本を買ったとき、ぼくは当時のDoblogに紹介した記憶があるんだが、例によって放置していました。
この本を思い出したのは、現在読んでいる内田隆三『国土論』に“象徴天皇制イデオロギーを批判したひと”として名前が出てきたから。

☆ さて、この赤坂憲雄『柳田国男の読み方』あとがきでの、赤坂氏の<方法>というのが、ぼくには納得がいくものなんです。
① 赤坂氏が柳田国男と“つきあう”きっかけは、古本屋で『定本柳田国男集』を格安で買ったから
② 柳田国男を“発生的に読む”
③ 柳田国男の思想的な限界と可能性をともに問う
④ 柳田の思想を晩年からの予定調和の眼差しによってではなく、発生的に辿りつつ読む
本文にもこうあります;
★ しかし、一人の思想家の仕事を現在において生きなおす試みのなかには、そうした可能性の中心から周縁へ/周縁から中心へと、手探りしつつ巡りあるく作業が孕まれているはずだ。

☆ もちろん、これらの<方法>は、対象が“柳田国男”でなくてもよいのです。


☆すなわち、対象が、<古典>でなくてもよいのです。
死んだ人でなくても。
”大江健三郎”でも、”柄谷行人”でも、”東浩紀”(笑)でも。

☆”東浩紀”を発生的に読むなら、”デリダ”を読まないわけにはいきません(爆)





<追記>

今朝このブログを書いたあとに、Amazonに注文した赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫2009)が届いて、いまその‘プロローグ’を読んで感銘を受けた。
ぼくは自分の“家系”がどうなっているかほとんど知らないが、ぼくの祖父の代が宮城県に居住していたことは知っている。
ぼくが生まれたのは新潟県であって、“東北”ではないが、ぼくはずっと<東北>という言葉にかすかな郷愁を感じてきた(実は幼児期に短期間仙台に住んだことはある)

この赤坂氏の本から引用してここに<追記>することを考えたが、別にブログを立てる。
これからシコシコ入力して、“上に”出すよ。