Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

よいにおいのする果実のような本

2010-04-24 10:18:11 | 日記


ぼくの読書については、自分でも奇妙な癖がある;
① ある本を買って、‘まえがき’、‘あとがき’、‘書き出し’を読んで、気に入っても、しばらくその本を放置する。
② 1冊の本を、なかなか継続的に“読めない”、ゆえに、1冊の本を読み終えることができない。

ただちにわかるように、これは良い癖では、ない(笑)
自分でも改めようと思っている。

“読みかけで読み終えてない本”が、100冊以上になってくると(笑)、自分でも嫌気が差してくる(その“本たち”へではなく、自分に)

つまりぼくは根本的に“持続できない”(忍耐強くない)ニンゲンなのである。
この“性癖”が、“読書だけ”であるはずがない。

なぜぼくの“結婚”は、40年近く続いているのであろうか!(爆)
これはたぶん、“ぼく”のせいではなく、“配偶者”である<女>の力である。

さて、以上は“前置き”である。
つまり、ぼくは放置してあった『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著、白水社2006)を、読み続けようとしている。

この本を“買った時に”、ぼくはすでにブログを書いている。
この本を買った動機は、当時は読んでいた朝日新聞の“読書”ページの書評-紹介であった(その書評を読んで、しばらくたって買ったのだった)

書評を読んだとき、“良い予感”がした。
買って、最初を読んだとき、その予感がただしいことがわかった。

ぼくはことさら、この本の著者が“イラン出身”であり、この本に書かれているのが、イランでの女子生徒との“読書会”であることに惹かれたのではなかった。
(前のブログに書いたと思うが、<読書会>というのが、ぼくには関心あるテーマだとしても)

すなわち<イラン>に惹かれたのではない。
しかし、この著者および彼女の“教え子”が、みな<女>であることには惹かれた。

率直に言って(率直“すぎる”言い方だろうが)、ぼくは、現在において、知性的である(知性的であろうとする)<女性>に惹かれるのである。

なにが“知性的である”かは、“大問題”であろうが(ひとにより百人百様であろうが)、ぼくの<知性的>(この言葉は適切でないのだが)という規準では、現在、“知性的な女性”には、この国では、なかなかお眼にかかれない。

さっき、“<イラン>に惹かれたのではない”と書いたばかりだが、ただちに反対のことも言える;
① イラン女性は美しい(これはルックスのことである)
② “困難(危険)な状況”に逆らって、読書するのは、美しい。

しかし、この本が、そのようなことを報告(レポート)するだけなら、惹きつけられことはない。
この本を読み始めるだけで、この著者の感受性は、その文体(スタイル)に表れる。
それをぼくは、“女の感受性”と感じる。

たぶんこれからの読書で、“その引用”は可能だろう。

ここではこの本の最初に掲げられた“引用”と“著者ことわりがき”を、引用しよう;

★ この世で起きたことをだれに話そう
だれのためにぼくらは至るところに巨大な鏡を置くのだろう
鏡のなかがいっぱいになり、その状態が
つづくのを期待して
<チェスワフ・ミウォシュ「アンナレーナ」>

★ この話に登場する人物と出来事には、主として個人を守るために変更を加えてある。検閲官の目から彼らを守るだけでなく、モデルはだれで、だれがだれに何をしたのか穿鑿して楽しみ、他人の秘密によってみずからの空虚を満たそうとする人々からも守るためである。語られた事実は、記憶に誤りがないかぎり真実だが、友人と学生たちを守るために最大限の努力をした。……

そして本文に入って、先日引用した言葉に撃たれた;

★ どんなことがあっても、フィクションを現実の複製と見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である。




ぼろぼろ

2010-04-24 08:14:35 | 日記


いまこの国で“政治”の話をするのはとても気が滅入ることである(笑);

◆それにしても、である。政権党は政策の迷走に次ぐ迷走で野党第1党を助け、野党第1党は実力者の離脱に次ぐ離脱で政権党を助ける。麗しい互助精神に気が滅入る(今日読売編集手帳)

▼ ふらつく民主、立ち枯れる自民。2大政党のダメ比べほど国民に不幸なことはない。雨後のタケノコのような新党の多くも、さまよう失望票の受け皿にはなれまい。政権交代から7カ月を経てなお続く政治の冬。しゃんとするまでの過渡期、ならいいのだが(天声人語)


上記“引用”が、“なんの話”であるかは、ぼくより“みなさん”の方が詳しいであろう。

なんせ、ぼくはとっくに“ニッポンのセイジ”とやらに関心を失っているからである。

“マスゾエ”  ゲッ。
“イシハラ シンタロー”  オエッ。

ならばわが日本国のサンギョーはいかに?

日本ケイザイ新聞というシンブンが、今日の<社説>に掲げているのは、“3Dテレビの世界競争で負けぬために”である。

<3D>???

そんなスンバラシー“テクノロジー”があったんですか?!

“デジタル”だけじゃダメなんね。

ぼくが「アバター」を3Dで見損なったのは、“象徴的”であった。

ああ、セイジもギョウカイも、この程度なのね。

そもそも、なにをしようと、それをしているひとが、“そのテード”なら、“そのテード”の社会しかないワケである。

この場合、“それをしているひと”を“日本国民”と呼ぶ。
すなわちオロカなのは、セイジカやカンリョーやメディアやガッコのセンセイだけではないのである。

ワルイヤツは、ホンシツテキにオロカでも、ちゃんと“トクすることはしている”のであった。

オロカなモノ(ジョーホーを含む)を買うために、<奴隷労働>(疎外された労働ともいう)を続けるひとや、奴隷労働をしているひとのカネで養ってもらっているヒト、というのは、もっとオロカではないのだろうか!

昨日仕事のミーティングの関係で昼休みが1時間ずれて、1時過ぎに大衆食堂でランチとなったら、なんと、<そこのテレビ>に、田村 淳というひとが写っていた。
番組は<NHK>の模様であった。

ぼくはこの<有名人>の名は知っていたが、“見たことがなかった”のである。
それで“きわめて関心を持って見た”のである。
なんせ、“食堂”なんで、音声がよくきこえない。
が、このひとの顔(表情)は“大画面”なので、よく“鑑賞”できた。
まったく<知性>がないではないか!
なんか、気が弱そうな(自分がオトコであることに確信がなさそな)表情なのである。

“ああ、カワイソー”とでも、感じるべきか?

このひとも、還暦をすぎるまで、タケシやタモリやサンマやミノモンタのヨーに、ばか笑いのために、身を削り、からっぽのニンゲンになって、くたばるのだローか。

ゆるせないのは、この番組で、この田村 淳とかいうオトコが、小学生にナンタラコウタラと“講義”しているシーンである。
こんなバカに教育されたら、またバカが増えるだけである。

以上ぼくは、“田村 淳”の個人コーゲキをしているのでは、ない。

これは、現在の<メディア国家=日本>のありのままの姿なのである。

すなわち、バカがバカを産む、無限連鎖である。

このぼくが、“多少バカ”でも、許されてしまうのである。

やれデジタルだアイパッドだ3Dだと、テクノロジーをいくら売りつけても、いくらそれを買いまくっても、バカは死ぬまでなおらない。

問題は、テクノロジー=メディアではなく、<中身>だからである。


さて、きょうの<ぼく>は、『テヘランでロリータを読む』を読む。

あと2冊。
柄谷行人『トランスクリティーク』は、217Pから。
内田隆三『国土論』は、278Pから。