ぼくの読書については、自分でも奇妙な癖がある;
① ある本を買って、‘まえがき’、‘あとがき’、‘書き出し’を読んで、気に入っても、しばらくその本を放置する。
② 1冊の本を、なかなか継続的に“読めない”、ゆえに、1冊の本を読み終えることができない。
ただちにわかるように、これは良い癖では、ない(笑)
自分でも改めようと思っている。
“読みかけで読み終えてない本”が、100冊以上になってくると(笑)、自分でも嫌気が差してくる(その“本たち”へではなく、自分に)
つまりぼくは根本的に“持続できない”(忍耐強くない)ニンゲンなのである。
この“性癖”が、“読書だけ”であるはずがない。
なぜぼくの“結婚”は、40年近く続いているのであろうか!(爆)
これはたぶん、“ぼく”のせいではなく、“配偶者”である<女>の力である。
さて、以上は“前置き”である。
つまり、ぼくは放置してあった『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著、白水社2006)を、読み続けようとしている。
この本を“買った時に”、ぼくはすでにブログを書いている。
この本を買った動機は、当時は読んでいた朝日新聞の“読書”ページの書評-紹介であった(その書評を読んで、しばらくたって買ったのだった)
書評を読んだとき、“良い予感”がした。
買って、最初を読んだとき、その予感がただしいことがわかった。
ぼくはことさら、この本の著者が“イラン出身”であり、この本に書かれているのが、イランでの女子生徒との“読書会”であることに惹かれたのではなかった。
(前のブログに書いたと思うが、<読書会>というのが、ぼくには関心あるテーマだとしても)
すなわち<イラン>に惹かれたのではない。
しかし、この著者および彼女の“教え子”が、みな<女>であることには惹かれた。
率直に言って(率直“すぎる”言い方だろうが)、ぼくは、現在において、知性的である(知性的であろうとする)<女性>に惹かれるのである。
なにが“知性的である”かは、“大問題”であろうが(ひとにより百人百様であろうが)、ぼくの<知性的>(この言葉は適切でないのだが)という規準では、現在、“知性的な女性”には、この国では、なかなかお眼にかかれない。
さっき、“<イラン>に惹かれたのではない”と書いたばかりだが、ただちに反対のことも言える;
① イラン女性は美しい(これはルックスのことである)
② “困難(危険)な状況”に逆らって、読書するのは、美しい。
しかし、この本が、そのようなことを報告(レポート)するだけなら、惹きつけられことはない。
この本を読み始めるだけで、この著者の感受性は、その文体(スタイル)に表れる。
それをぼくは、“女の感受性”と感じる。
たぶんこれからの読書で、“その引用”は可能だろう。
ここではこの本の最初に掲げられた“引用”と“著者ことわりがき”を、引用しよう;
★ この世で起きたことをだれに話そう
だれのためにぼくらは至るところに巨大な鏡を置くのだろう
鏡のなかがいっぱいになり、その状態が
つづくのを期待して
<チェスワフ・ミウォシュ「アンナレーナ」>
★ この話に登場する人物と出来事には、主として個人を守るために変更を加えてある。検閲官の目から彼らを守るだけでなく、モデルはだれで、だれがだれに何をしたのか穿鑿して楽しみ、他人の秘密によってみずからの空虚を満たそうとする人々からも守るためである。語られた事実は、記憶に誤りがないかぎり真実だが、友人と学生たちを守るために最大限の努力をした。……
そして本文に入って、先日引用した言葉に撃たれた;
★ どんなことがあっても、フィクションを現実の複製と見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である。