Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

内田樹ブログ;<大人への道>(爆)

2010-04-22 23:15:04 | 日記

今日はブログを5個アップしたので、出しすぎであるが、いま見た内田樹ブログが面白い、引用する;

★ 日本社会が「子ども」ばかりになったのは資本主義の要請に従ったからである。


は、は、は、は、ガハッ!


★ 「子ども」というのは「安全ベース」「飽食ベース」の人間のことである。
危機的状況や資源の乏しい状況で「まっさきに死ぬ」個体のことである。
年齢とは関係ない。

★ 安全で豊かな社会は「子ども」ばかりでも別に支障なく機能する。
けれども、安全でも豊かでもなくなりはじめた社会においては「子ども」であり続けることは生存戦略上著しく不利になる。

★ (内田樹を取材に来た)週刊ポストも花王さんも、「ぶっちゃけた話」をすると、私に訊きに来たのは実は「こいつら、棄ててもいいですか?」ということだったからである。
いや、隠さなくてもよろしい。
口には出さなかったけれど、内心ちょっとは思っていたでしょ。
「子ども」が邪魔なんですけど・・・って。

★ 私の答えは「だめです」というものである。
「子どもが邪魔だから子どもを切り捨てる」というのは「子どもの発想」だからである。
大人はそんなふうには考えてはならない。
子どもを大人にする方法について考える。

★ 子どもを大人にする方法はひとつしかない。
それは「大人とはこういうものである」ということを実見させることである。
「子ども」たちが「子ども」であるのは、実は長い歳月のあいだ「子ども」しか見たことがなく、成熟のロールモデルを知らないからである。
申し訳ないが、親も近所のおじさんおばさんも学校の先生もバイト先の店長もテレビに出てきてしゃべる人たちも、みんな「子ども」だったのである。
「子ども」以外見たことがない人がどうして「大人」になれよう。

★(かつて内田が書いた“漱石論”を引用して)
「おとな」とは、「『おとなである』とは、これこれこう言うことである」という事実認知を行う人のことではない。実際に「子ども」を「おとな」にしてしまったことによって、事後的にその人が「おとな」であったことが分かる、という仕方で人間は「おとな」になる。
(以上引用)


面白いが、内田樹という“教育者”は、“これ”を実行(実現)してんのかね?

漱石が大人だと“事実認知”しても、そう言う本人が<大人>であるかは、不明である。


ちなみに、ぼくは、大人でない。





“僕のハートに近い”仕事

2010-04-22 22:16:00 | 日記


『パレスチナとは何か』という文庫本がある(岩波現代文庫2005)

この原著は1986年に刊行された。
この本の特徴は、サイードの文章だけでなく、“スイス人”カメラマン-ジャン・モアの<写真>があることである。

この本については、前にこのブログに書いたことがあるのだが、重複をおそれず、もう一度取り上げる。

現在、ある本に、“写真”が使われていることは、ぜんぜんめずらしくない。
むしろその本のあるページに写真があっても、ぼくたちは、さしたる関心をいだかず、その写真の上を通り過ぎる。

ぼくたちは、毎日刻々、“あらゆる映像”を見ている、動く映像も、静止した映像も。
ぼくたちの目は疲れ、あらゆる映像に鈍感になり、不感症になっている。
“パレスチナ”に関する映像もそうだ。
どんなに“現場で決死の状況に身をさらして記録された映像”も、“日常の危機の中での一瞬の安息”も、ぼくたちの眼前を瞬時にすぎる、あるいは、ぼくたちの目が、その映像にとどまることはない。

映像の過剰は、ぼくたちに、なにかを見ることを、困難にしている。


サイードは書いている;
★ 本書の眼目の一切は、この困難とまともに取り組むこと、常習的に呈示される単純どころか有害ですらあるパレスチナ人像を否定すること、そして、彼らの経験の入り組んだ実態をより正確に捉えるのにふさわしい何らかの代案を提起することにほかならない。そのスタイルと方法――文章(テクスト)と写真の相互作用、諸々のジャンル・モード・スタイルの混合――は、一貫した物語を語るわけでもなければ、ひとつの政治論を成すわけでもない。現在の私たちの存在の主要な特徴は、追い立てられ追い散らされながらも、国家を持たぬ流浪の身には似つかわしくないある種の力の保持でもあるわけだから、本質的に型破りで雑種的な断片的な表現形式こそ、私たちを表象するのに用いられて然るべきだと私は信ずる。

★ したがって、私がかなり意識的にもくろんだことは、通常、メディアや社会科学の著書や大衆小説などでお目にかかるのとは違った表現のモードなのである。それは、分散した民族共同体としてのパレスチナ人を私的に(パーソナルに)描くことだ。――働きかけ、また働きかけられ、誇り高く、優美で、悲惨で、滑稽で、不屈で、反語的で、偏執的で、防衛的で、独断的で、魅力的で、否応なしに注意を惹くものとして。

★ 本書は「客観的」な書物ではない。私たちが意図したのは、パレスチナ人の眼を通して見たパレスチナ人像を呈示することであり、しかも、パレスチナ人とは、当人たちにとってすら、どれほど異人もしくは「他者」のように感じられる存在かという実態を手加減を加えずに示すことである。

★ 多面的なヴィジョンこそ、私たちをどのように表象するにせよ、欠かせないものなのだ。

★ こうした込み入った事情の認識を通してのみ、私たちは、アイデンティティーという捉えどころのない性質に接近したり、実像の公私というものを統合したり、パレスチナ的と呼ばれる個々人や諸活動の途方もない多様性を理解したりすることができるのである。そしてジャン・モアと私、つまりスイス人とパレスチナ人が、本書の成立過程において協働したのとちょうど同じことをあなたがた――パレスチナ人やヨーロッパやアメリカやアフリカやラテン・アメリカやアジアの人々――も行ってくれることを、私たちは期待してやまない。


“カメラマン”ジャン・モアも書いている。
彼がニューヨークで、“写真界のことは何でも知っている”写真仲間に会ったときのこと。
会話の最後で、この“写真仲間”は、ジャンに質問した;「それで君は、目下、どんな仕事に掛かり合っているんだい?

★ 「展覧会だよ。ここ30年の間に取材したり公表したものをまとめて展示するんだ。……他にもうひとつ仕上げようとしているのは新しい本なんだが、そちらのほうは、僕の核心(ハート)に非常に近いものだと言えるね」。

写真仲間は聞く;「テーマは何なの?」
ジャンの答え;「パレスチナ人さ」

★ やや長めの沈黙があったが、友人は、少々悲しげにほほえみながら私を見て、とうとうこう口にした。
「そうか、いいじゃないか!でも、そのテーマは、いささか“古い”とは思わないか?いいかい、僕だってパレスチナ人の写真は撮ったことがある。特に難民キャンプのものだ……あれは本当に悲惨だ!しかし、今になって、いったい誰が、地面に落ちているものを手掴みで食べる人々に関心を持っているというんだい?それに、あのどうしようもないテロリズムがあるじゃないか……何かもっとやりがいのあることに君のエネルギーと能力を使ったほうが君のためなんじゃないかと僕は思ってしまうね!」

★ まさにこの種の能天気さに応えてやろうとして、私は本書の構想を貫き通したのである。

さらにジャン・モアは、自分がパレスチナ人に関心を抱く動機に関する“自分史”を書いている;
1925年 私はジュネーヴで生まれ、ドイツ国籍となる。両親は二人ともドイツ南部の出身である。
1936年 一家揃ってスイスに帰化することが要請される――「追放(エグザイル)」という言葉は、もはや抽象的な観念でなくなる。
1949年 国際赤十字委員会が私を使節に任命し、パレスチナ難民救援団の一員として中東に派遣される。ジュネーヴ大学を卒業して間もない私は、当地の状況についてはほとんど何も知らなかった……
1979年 イスラエルと占領地区(西岸)を1ヶ月間に亘って回遊する機会を与えられ……それは、外傷(トラウマ)的な経験である!30年を経てもなお、パレスチナ人の状況は、改善されるどころか、いっそう悪化してしまった……

★ イスラエル人だけが悪いのではない。私たちは皆、罪を負っているのである。私自身にしてもそうだ。パレスチナ人の運命など忘れてしまおうと30年間も努め続けていながら、その口実といえば、パレスチナの最も極端な急進派が行う暴挙の数々は決して正当化され得るものではない、という程度のいい加減なものだったからである。

<E.W.サイード+ジャン・モア;『パレスチナとは何か』(岩波現代文庫2005)>




テヘランでロリータを読む

2010-04-22 20:51:16 | 日記


★ どんなことがあっても、フィクションを現実の複製と見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である。

<アーザル・ナフィーシー;『テヘランでロリータを読む』(白水社2006)>





おんなのおしゃべり

2010-04-22 12:03:27 | 日記


Twitterというのは、“女のおしゃべり”ではないのか?

《明日こそはガルボチップスのホワイトチョコ&ココア味を探して買おう!ハッピーターンの250%も食べてないしなあ、最近アイスコーナーでチョコバリも見ないしなあ、しみチョココーン食べてないなあ、でも自制しないとなあ。今日もランチ後のデザートでワッフル食べたかったけど我慢しました。 約13時間前 webから》


上記は、ぼくが“たまたま見た”Twitterである。

しかもこれを書いているのは<女>ではなく<男>である(らしい)

たしかにTwitterには、“このようでない”ハードな“つぶやき”もあるらしいので、ぼくが上記を引用したのは、“フェア”でない。

しかしそもそも“ブログ”においても、とくにその“コメント欄”の会話においても、そのほとんどが“女のおしゃべり”でない、ことなど“あった”であろうか。

ブログにおいても、この“女のおしゃべり”を飽きずに延々続けているひともいれば、あっさり“消えてしまう”ひともいるわけだ。

しかも“消えてしまったきり”なら、いさぎよいが、“名を変え、ブログ名を変えて”またまた“女のおしゃべり”をする。
これでは、田舎芸者と同じではないか!(ぼくは田舎芸者とのつきあいがないが;爆)

Twitterは、このような“無責任=ズボラ”にぴったりのメディアである。
たしかに<ぼく>も匿名ではあるが、ぼくはwarmgun以外の名を名乗ったことはないし、ぼくの実名が誰であるかも、とっくに“面が割れて”おる。

だからといって、ぼくのブログが、“女のおしゃべりでない”などと居直る気はないが。

まさにここで問題になるのは、<女>である。
<女>は<人間>であるのか?(爆)

これがぼくが“考え続けている”問題である。

すなわちキリスト教においては、あきらかに女は人間ではない(アダムとイヴを見よ)
しかしぼくは、キリスト教徒では、“ない”。

また、ぼくが“<女>は<人間>であるのか?(爆)”と書いたのに、怒った人は、ちょっと待ってほしい。
<女>は、“人間以上”であるかも知れないからである。

ぼくが、<女>について考えるならば、それはぼくが“男である”という偏見をもとにしてしか考えられない。
ところが、思い出してみれば、ぼくは、<女>としか生活したことがないのである。
幼児から成人直後までは<母>と暮らし、その後は<妻>と暮らしてきた。
ぼくは、<父>や<兄弟>としての<男>と暮らした経験がない。

にもかかわらず(笑)、“女という謎”は、増大するばかりである。
たしかに、この日本戦後社会は、“男女平等”を目指し、この現在においては、“女のおしゃべり”ばかりが聞える。
“にもかかわらず”、<人類の歴史>が“男規準”であり、その太古からの歴史が、そうやすやすと“変革”されたはずがない。
政治・経済のイニシアティブが<男権的なもの>にあることは変わらない。

それだけではない。
たしかに現在日本で出版されている<小説やエッセイ>は、女性主導のように見える。
しかし彼女らの“世界観”は、“男権的なもの”から脱していない。
あるいは、彼女等が書く<男>は、まったく<男>ではない。
(もちろん何事にも“例外”はある)

これはこれまでの文学史において、男性作家が(多かったのだ)書いた<女>が、ほんとうの女だったのかという疑問につながる。

すなわち、“女-男”という“分類”も、生物学的実証にあるばかりではなく、<関係性>の問題である。

現在日本の“言論”において、表面的に“女のおしゃべり”のみが主流化しているのは、まさに、この<女-男関係>の危機である。

このテーマは今後持続的に考えたい。

ニーチェを引用しておく;

★女にはまだ友愛を結ぶ能力がない。女はいまも猫であり小鳥である。最善の場合でも牝牛である。
女にはまだ友愛を結ぶ能力がない。しかし君たち男よ。君たちのいったい誰に友愛を結ぶ能力があるか。
<ニーチェ:『ツァラトゥストラ』の“友”>





英語で見る夢

2010-04-22 10:58:00 | 日記


タイトルに掲げた<英語で見る夢>の話題の“前に”、下記ブログに関連した話題が天声人語にあるので引用する、どうも天声人語や読売編集手帳は、“ぼくのブログ”とシンクロしているよーであり(笑)ぼくが無視しようと思っているのに、(ぼくを)放っておいてくれない Left alone ! ;

▼ いっそのこと、人と動物、人と自然といった対立軸を捨ててはどうだろう。私たちは「ジグソーパズル地球」の遊び手ではなく、大きめの一片とわきまえたい。おごらない共生の視点から、人がこの星に招いた災いの出口が見えてくる。(今日天声人語)

《人と動物、人と自然といった対立軸を捨ててはどうだろう》という提言は、読者に“動物化せよ”と言っているのだ。
すなわちここにおいても、日本の<伝統的>、“自然=主義”という、おそるべき<常識>が繰り返されているだけだ。
いったい《おごらない共生の視点》というのは、どのような<視点>なのか、書いてみろ。
この書き手は、《おごらない共生の視点》を持っているのか。
まさに“ひとに”(読者に)そんなことを言う“前に”、みずからを省みるべきではないのか。
たとえば、“朝日新聞社”の存立にかかわる“環境破壊”を、である。
朝日新聞社が、《この星に招いた災いの出口》をこそ“考察すべき”である。


さて次ぎ;
コピーライターの吉竹純さんに、駅前の風景を詠んだ歌がある。〈英会話ローン牛丼ハンバーガーここはどこかのすべての駅前〉(河出書房新社、歌集『過去未来』より)◆個性なき景観を言い表す「どこかのすべての…」には多くの人がうなずくだろう。この4業種、言われてみればどこにでもある。ということは、顧客の獲得競争もそれだけ激しいわけで、名の知られた英会話学校も安閑としていられない時代である(略)◆―あたしったら近ごろ英語で夢を見るの…とは、10年以上も前にジオスがテレビで流したCMソングである。受講生が英語でうなされる悪い夢を見ることのないように、何よりも誠実な対応が欠かせない。(2010年4月22日01時19分 読売編集手帳)

この文章を読んで、ぼくが“反応”するのは、“英語で見る夢”自体ではなく(ぼくは英語で夢を見たことはないから)、《ここはどこかのすべての駅前》という言葉である。

前にも書いたが近年、ぼくは現在の仕事で、東京のいろんな<駅>に行く機会が多い。
生まれてはじめて降りる駅も多い。

にもかかわらず、どの駅も、その駅前の光景も、駅からのストリートも、《ここはどこかのすべての駅前》である。
前に来たような既視感におそわれ、目的の場所へのルートを“前に来た場所”と勘違いする。
それほど、“どこも同じ”である。

それは、そこにある“店舗”に限らない。
なによりも、“そこを歩いている人”が同じなのである(笑)

この<風景>の均一化・画一化をもたらしたのも、“経済的要因(カネ)”ではあろう。
しかしぼくはそこに、<テレビ>を感じる。

この数十年、この列島の隅々まで、“風景の均一化・画一化”をもたらしたのは、<テレビ>である。
何度も言っているように、このネット=WEBに“うつっているもの”(ブログだろとツイッターだろうと検索情報だろうと)、すべて<テレビ>にすぎない。

日本人の<脳>が、<テレビ>である。

この国における“戦後60数年の成果”というのは、“日本国民の脳”を完全に<テレビ>にしたことである。
すなわち、これこそ、<洗脳>である。

英語で夢を見なくても、<テレビ>と同じ夢を見ている。

ぼくはDoblogのときから、変わらぬ“スローガン”を掲げる;

テレビを消して、本を読もう!

しかし、最近思うのは、“読んでもしょうがない本ばかり読むひとがいる”ということである。





Snapshot;哲学とはなにか

2010-04-22 09:07:47 | 日記


☆ 最近出た“文庫クセジュ”『哲学』の書き出しはこうなっている;
《哲学とはなにか。この問いがすでに哲学的であり、少なくともそうなりうる》

☆ ということは、“哲学とは何か?”と“考える”ことが哲学なのである。

☆ すなわち、“哲学とは何か?”と“考えない”ひとがおり、そうゆー人は、“哲学的でない”。(笑)

☆ しかも、ふつう、“哲学”といっているのは、“西洋哲学”のことであるので、“西洋人でない”われわれアジア人にとっては、<哲学>以前に<西洋>というのが、問題である(問題であった)

☆ そうであるからかドーか知らないが、この“ジャパン”には、哲学入門書とか解説書とかマップとかがやたらと出ているのである。

☆ “哲学とは何か?”という本から、それぞれの“哲学者”の解説本やら、それぞれの“哲学書”の入門書やらで、最近は“また”カントとヘーゲルが“流行り”らしい。

☆ けれども、問題は、<哲学>に関心があるひとと、“まったく”ないひとが存在することである(笑)

☆ つまり“哲学にまったく関心を持たなくても”、ひとは生きていけるらしいのである!

☆ その場合、“哲学なしの人生”とは、いかなる“モノ”であろうか?

☆ カネとオンナであろうか!

☆ あるいは“効率的な人生設計=3歳で自分の人生を決断!”であろうか。

☆ しかし人間の自然というものは、“カネとオンナ”もしくは“カネとオトコ”ではないのだろうか。

☆ そうすると、“哲学”というのは、“反自然”である。

☆ たぶん東浩紀のような“最先端”のひとが言っている、<動物化>ということも、この“人間の自然性”を言っているのだ。

☆ すなわち、“自然なニンゲン=動物”である。

☆ 奇妙なのは、<西洋>というのは、“キリスト教”によって(背後に“ギリシア”があり“オリエント”もあるのだが)、この動物を否定したらしいのである。

☆ つまり、ニンゲンはドウブツでない。

☆ ところが、いつまでたってもニンゲンはドウブツに“なる”のであった!

☆ だから<悩み>は深い。

☆ いや悩む人と、悩まないひとが、“いる”のであった。

☆ その場合、なんでニンゲンがドウブツから脱しられないかを、実証的に研究するのがサイエンスである、つまり、ニンゲンの“ありのまま”を認識するのである。

☆ つまり、ニンゲンは細胞の集まった“機械”であり、その運命はDNAによって決定されており、脳というのも電気的な信号が駆け巡っている“ダケ”である。

☆ とってもクール!!

☆ たとえばアメリカ合衆国というような国に住む人々のマクロな“メンタリティ”をみると、奇妙なことに気づく。

☆ それは、合理的なもの(実利的なもの)の徹底性なのだが、それが可能なのは、“キリスト教”という神秘主義がベースにあるからである。
(“アメリカ人”の相当数が、現在でも“進化論”を受け入れない)

☆ すなわち“合理性”を“神秘主義”が支えているのだ。
オカルト~カルトがなければ、合理主義はありえない。

☆ “哲学”だって、この“キリスト教の歴史”に無縁どころではない。

☆ なによりも不思議なのは、この“無信仰の国”において、哲学することである。

☆ “だから”、この国においては、“哲学に無縁であること”こそ、<自然>である。

☆ このくにの<常識>は、すべて“哲学の反対”である。

☆ だから、下手に哲学に手を(頭を)出すと、“脳がねじくれる”ような生理的恐怖を感じるであろう。

☆ ロートレアモンというひとは、自分の長編詩(マルドロールの歌)の書き出しに、“読者よ、君がヤワならば、この本を読まずに引き返せ”と書いた。

☆ つまり、詩も哲学もおなじである。

☆ ただ自分の人生を、“カネとオンナ”ですごしたいなら、そこで<幸福>を得たいなら、ひたすら“あたしにゃ、カンケーないのよ”とすべきものがあるのである。

☆ すなわち、詩とテツガクである。





*ぼくは勝新の座頭市は好きである。
 ばかげたコメディアンの座頭市は、身体障害者のヒーローへの冒涜であった。