Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

単独者のみが普遍的でありうる

2010-04-14 16:54:36 | 日記


★ カントは一般性と普遍性を鋭く区別していた。(略)一般性は経験から抽象されるのに対して、普遍性は或る飛躍なしには得られない。最初に述べたように、認識が普遍的であるためには、それがア・プリオリな規則にもとづいているということではなく、われわれのそれとは違った規則体系の中にある他者の審判にさらされることを前提している。これまで私はそれを空間的に考えてきたが、むしろそれは時間的に考えられねばならない。われわれが先取りすることができないような他者とは、未来の他者である。というより、未来は他者的であるかぎりにおいて未来である。現在から想定できるような未来は、未来ではない。

★ このように見れば、普遍性を公的合意によって基礎づけることはできない。公的合意はたかだか現在の一つの共同体――それがどんなに広いものであれ――に妥当するものでしかない。だが、そのことで、公共publicという概念を放棄せねばならないということにはならない。たんにパブリックという語の意味を変えてしまえばよいのだ。そして、事実カントはそうしたのである。

★ 通常、パブリックは、私的なものに対して、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。この転回は、たんに公共的なものの優位をいったことにではなく、パブリックの意味を変えてしまったことにあるのだ。パブリックであること=世界公民的であることは、共同体の中ではむしろ、たんに個人的であることとしか見えない。そして、そこでは個人的なものは私的であると見なされる。なぜなら、それは公共的合意に反するからだ。しかし、カントの考えでは、そのように個人的であることがパブリックなのである。

★ ところで、共同体や国家は実在しても、また、ネーションを前提した「インターナショナル」な機構が実在しても、「世界公民的社会」というものは実在しない。ひとは共同体に属するのと同じような意味で、世界市民であることはできない。世界市民的であろうとする個人の意志がなければ、世界市民的社会は存在しない。世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者へ向かって、現在の公共的合意に反してでもそうすることである。


★ ここで私は混乱を避けるために言葉を定義することにしよう。まず一般性と普遍性を区別する。これらはほとんどつねに混同されている。そして、それはその反対概念に関しても同様である。たとえば、個別性や特殊性や単独性が混同されている。したがって、個別性-一般性、という対と、単独性-普遍性という対を区別しなければならない。

★ たとえば、ヘーゲルにとって、個別性が普遍性(=一般性)とつながるのは、特殊性(民族国家)においてであるのに対して、カントにとって、そのような媒介性は存在しない。それはたえざる道徳的な決断(反復)である。そして、そのような個人のあり方は単独者である。そして、単独者のみが普遍的でありうる。むろん、これはカントではなくキルケゴールの言葉であるが、根本的にカントにある考えである。


★ 個人は、たとえば、まず日本語(日本民族)のなかで個々人となる。人類(人間一般)というような普遍性はこのような特殊性を欠いたときは空疎で抽象的である。「世界市民」が彼らによって侮蔑されるのはいうまでもない。それは今も嘲笑されている。しかし、カントは「世界市民的社会」を実体的に考えたのではない。また、彼はひとが何らかの共同体に属することそれ自体を否定したのではない。ただ思考と行動において、世界市民的であるべきだといっただけである。実際上、世界市民たることは、それぞれの共同体における各自の闘争(啓蒙)をおいてありえない。

<柄谷行人;『トランスクリティーク』>





“魂”をもつひと

2010-04-14 10:09:38 | 日記


三つの文章を比較する。

なぜこれを書く気になったのかは、いま天声人語で“魂”という字を見たからである;

《戦場のカメラマンは、命を危険にさらすのと引き換えに、起きたことを世界に伝える。だから撮影する「位置」はプロ魂の発露でもあるそうだ。経験豊かな石川文洋さんから、カンボジアで落命した一ノ瀬泰造について聞いたことがある▼そのころ小社にいた石川さんに、一ノ瀬は現地からフィルムを送ってきた。コマを見ると、たとえば兵士が伏せている銃撃戦を自分は立って撮っている。カメラマン魂を買いつつ、若さゆえの気負いを心配したそうだ。1970年代のことである▼先日、タイで取材中に亡くなった村本博之さん(43)はベテランだった。優しい人柄をきのうの紙面が伝えていた。流血の最前線で撮影を続けたのは、やはり「魂」ゆえだったに違いない。》(引用)


ここでは、“プロ魂”という<魂>について語られている。
ぼくはここで取り上げられているカメラマンたちに“プロ魂”がなかったかもしれないと思ったのではない。
そうではなく、この文章を書いている人には、ジャーナリストとしての<プロ魂>があるのだろうか?と感じたのだ。
少なくとも、この書き手は、《だから撮影する「位置」はプロ魂の発露でもあるそうだ》と書いている。
“……であるそうだ”というのは、“伝聞”とか“推測”である。
すなわち“自分のことではない”のである。


読売編集手帳は、この<プロ魂>とか<魂>とかとは対極的な、“魔が差した”みじめな人を取り上げている;

《勤め人にとって、意に染まぬ人事異動ほどつらいものはない。サラリーマン川柳の秀作集『サラ川傑作選』(講談社)をひもとけば、〈転勤地良い所だと皆が言う〉の不安、〈都落ち事の起こりは無礼講〉の悔恨、〈刺客だと言われ遠くへ飛ばされた〉の怨念…いずれも、実感がこもっている◆魔が差したのか、ひとの弱みにつけこんだ人がいる。部下の男性職員から100万円をだまし取った厚生労働省の室長(56)が、懲戒処分を受けて退職した◆「君は地方に異動することになった」と嘘を言い、「100万円あれば回避できる」と説明して現金を受け取ったという。不審に思った職員が幹部に相談して発覚した◆役所でも企業でも、いまどき、人事異動が付け届けや現金に左右される組織などあるはずもない。策略とも計略とも呼べない幼稚な筋立てが半ば成功しかかったところに、人事というものの不思議な魔力がほの見える◆責任のある役職から察するに、勤勉に職務をこなしてきた人だろう。常識を錆びつかせ、人生を一瞬にして錯誤の淵に沈める。「錆」も「錯」も金偏の仲間、金とは怖いものである。》(引用)


この文章の“リード部分”は、“サラリーマン川柳”である。
すなわち“サラリーマン”における《人事というものの不思議な魔力がほの見える》ということなのである。
ぼくも長く“サラリーマン”だったので、そういうことは身に沁みて知っている。
しかしこの文章の“結論”には驚く。
《常識を錆びつかせ、人生を一瞬にして錯誤の淵に沈める。「錆」も「錯」も金偏の仲間、金とは怖いものである》
この書き手は、“なにをいまさら”言っているのであろうか!

《金とは怖いものである》という“真理”を、だれに“啓蒙”しているのだろうか。
ひょっとしたらこの文章の書き手は、この“魔が差した” 厚生労働省の室長の事件で、はじめてそのことに気づいた(笑)のであろうか。
どうも“大新聞”には、おっとりしたひとが多いようである(皮肉だよ)


三つ目は、バルセロナで28年間サグラダ・ファミリア教会の彫刻をつくり続けてきたひとの本である;

★ どうしてなのかは自分でも分からない。私はその頃、はっきりと彫刻家になりたいと思っていたわけではありません。なれるとも思っていませんでした。しかし私は、子供の頃から何かを探していた。その「何か」を知りたいと思っていました。それを見つけるためのヒントが、石を彫るということの中にあるのかも知れない。そう考えるようになりました。それでヨーロッパに渡ったわけです。
ヨーロッパには石の文化があります。石畳の道、石造りの建物。そこで山奥の石でもいいから思いきり彫って、自分の肉体と精神をぶつけて、何かを見つけ出したいと思っていました。
<外尾悦郎;『ガウディの伝言』(光文社新書2006)>


ぼくは、“プロカメラマン”や“芸術家”は偉い(魂をもっている)が、“サラリーマン”はくだらないと、言いたくはない。

ぼく自身、サラリーマンでしかなかったのに、どーして、そのようなことが“言いたい”だろうか。

むしろプロカメラマンや芸術家は、“本人の努力”や“命がけの集中”があったにしろ、ある意味ではラッキーである。

ぼくたち“大部分の人々”は、<自分>を限りなく拡散させてしか生きられなかった。
“他人に合わせて”生きてきたのだ。

だがこの“ぼくたち”にも<魂>は、あるのである(笑)
《5寸の虫にも1分の魂》だっけ?

自分が<探している何か>を、放棄することは、できない。