★ カントは一般性と普遍性を鋭く区別していた。(略)一般性は経験から抽象されるのに対して、普遍性は或る飛躍なしには得られない。最初に述べたように、認識が普遍的であるためには、それがア・プリオリな規則にもとづいているということではなく、われわれのそれとは違った規則体系の中にある他者の審判にさらされることを前提している。これまで私はそれを空間的に考えてきたが、むしろそれは時間的に考えられねばならない。われわれが先取りすることができないような他者とは、未来の他者である。というより、未来は他者的であるかぎりにおいて未来である。現在から想定できるような未来は、未来ではない。
★ このように見れば、普遍性を公的合意によって基礎づけることはできない。公的合意はたかだか現在の一つの共同体――それがどんなに広いものであれ――に妥当するものでしかない。だが、そのことで、公共publicという概念を放棄せねばならないということにはならない。たんにパブリックという語の意味を変えてしまえばよいのだ。そして、事実カントはそうしたのである。
★ 通常、パブリックは、私的なものに対して、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。この転回は、たんに公共的なものの優位をいったことにではなく、パブリックの意味を変えてしまったことにあるのだ。パブリックであること=世界公民的であることは、共同体の中ではむしろ、たんに個人的であることとしか見えない。そして、そこでは個人的なものは私的であると見なされる。なぜなら、それは公共的合意に反するからだ。しかし、カントの考えでは、そのように個人的であることがパブリックなのである。
★ ところで、共同体や国家は実在しても、また、ネーションを前提した「インターナショナル」な機構が実在しても、「世界公民的社会」というものは実在しない。ひとは共同体に属するのと同じような意味で、世界市民であることはできない。世界市民的であろうとする個人の意志がなければ、世界市民的社会は存在しない。世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者へ向かって、現在の公共的合意に反してでもそうすることである。
★ ここで私は混乱を避けるために言葉を定義することにしよう。まず一般性と普遍性を区別する。これらはほとんどつねに混同されている。そして、それはその反対概念に関しても同様である。たとえば、個別性や特殊性や単独性が混同されている。したがって、個別性-一般性、という対と、単独性-普遍性という対を区別しなければならない。
★ たとえば、ヘーゲルにとって、個別性が普遍性(=一般性)とつながるのは、特殊性(民族国家)においてであるのに対して、カントにとって、そのような媒介性は存在しない。それはたえざる道徳的な決断(反復)である。そして、そのような個人のあり方は単独者である。そして、単独者のみが普遍的でありうる。むろん、これはカントではなくキルケゴールの言葉であるが、根本的にカントにある考えである。
★ 個人は、たとえば、まず日本語(日本民族)のなかで個々人となる。人類(人間一般)というような普遍性はこのような特殊性を欠いたときは空疎で抽象的である。「世界市民」が彼らによって侮蔑されるのはいうまでもない。それは今も嘲笑されている。しかし、カントは「世界市民的社会」を実体的に考えたのではない。また、彼はひとが何らかの共同体に属することそれ自体を否定したのではない。ただ思考と行動において、世界市民的であるべきだといっただけである。実際上、世界市民たることは、それぞれの共同体における各自の闘争(啓蒙)をおいてありえない。
<柄谷行人;『トランスクリティーク』>