Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

応用問題

2010-04-26 18:05:14 | 日記


まず柄谷行人『トランスクリティーク』に引用されている、マルクスの文章を引用し、それを使って村上春樹『1Q84』を“批判”してみよう。
もちろんぼくは、村上春樹にうらみがあるのではなく(多少あるが;笑)、現在ニッポンの“表現者”(=本とか書いたり、テレビに出てる人、ようするに“タレント”)を批判したい、内田樹でもよい(笑)

★ マルクス『ドイツ・イデオロギー』(マルクスが生きていた当時のドイツの“イデオロギー”よ<注>)から引用;
日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるかということとを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思いえがいた言葉どおりに信じこんでいるのである。


展開;

☆ 日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるかということとを区別することぐらいはできるのに、わが春樹『1Q84』 ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる現在日本の現実(つまりありふれた日本人の生き方)を、その時代が自分自身について語り、思いえがいた言葉どおりに信じこんでいるのである。



<注>
すなわちマルクスは、当時の”右翼”を批判したのではなく、”左翼”を批判したのである。







君は生きろ、何かを変えるまで。




お小遣いの稼ぎ方

2010-04-26 16:12:36 | 日記


世の中にはスマートな(頭の良い)人がいるもんだ!


<「2千万円稼ぐ方法教えます」 情報料商法トラブル急増>アサヒコム2010年4月26日13時50分

 年2千万円稼ぐ方法を教えます――インターネット上の広告で誘い、その情報料をクレジットカードや現金振り込みで支払わせる商法でトラブルが急増している。全国の消費生活相談窓口への相談数は2009年度は2月末現在718件で、前年同期に比べ2.5倍強だ。情報の内容は「肩すかし」も多く、返金に応じない例も目立つ。国民生活センターは安易に契約しないよう注意を呼びかけている。

 兵庫県の20代女性はメールマガジンの中に「年間2千万円稼ぐ方法」という広告を見つけた。「3カ月実行しても100万円以上の収入がなければ全額返金」とあったことから、「情報」をクレジットカード決済で5万円で購入した。

 だが、入手した情報は「人材派遣会社を開業し、紹介手数料を稼ぐ」というもの。役所への登録や開業資金で500万円以上必要なことが分かった。業者に返金を求めたが拒否され、連絡がつかなくなったという。

 別のケースの奈良県の40代男性もメールマガジンに、「○○するだけで毎日1万円稼げる方法」の広告を見つけた。○○の中身は伏せられて分からなかったが、「業務の提供がなかったら90日間は無条件で代金返却」とあり、カード決済で3万円を払って、情報のPDFファイルをダウンロードした。

 業務とは、指示された企業のサイトの誤字脱字などを見つける作業。指示通りに指摘したら、「すでに他の人が指摘した個所なので手当は出せない」と業者に言われ、報酬はもらえなかったという。

 情報をパソコンでダウンロードし、閲覧できる手軽さから被害が拡大。相談は06年度の37件から年々増え、この4年で1300件を超えた。平均契約額は約5万2千円で30、40代が6割を占める。

 同センターによると、「仕事を提供する」といって勧誘し、情報料を払わせる行為はクーリングオフの対象になるとして、「被害救済ができる場合もあるので、購入時の取引データなどを残し、最寄りの消費生活センターに相談してほしい」と話している。(小林未来)





ヒント=メモ=走り書き

2010-04-26 14:04:21 | 日記


☆ もし現実を認識する、根底が、経済にあるのなら、
資本主義と資本主義“でないもの”の認識が必要だ。
単純には、資本主義“以前の”人類の“全経済活動”との比較が必要だ。

☆ さらに、この“経済活動=経済関係”自体が、どのように人間の本質であるかを、考える。

☆ これは“社会科学的な”アプローチのみを意味しない。

☆ 音楽における、<エスニックなもの>(無償なもの)と<コマーシャルなもの>の対立。

☆ あらゆる“表現=表出”における、<つくりだすもの>とそれを<受け取るもの>との差異。

☆ あらゆる<つくりだすもの>にとっての、<引用>の意味と方法。

☆ いかにして、この私の感覚=主観性と、法とか公共性とか呼ばれるものを、自己疎外としてでなく、同時に実現させ得るか。

☆ いかにして、<楽しみ>を、愚鈍でないものに変更しうるか。

☆ いかにして、時間の直進性、進歩とか、古い新しいという単純な価値観を変更しうるか。

☆ いかにして、自分の唯一の体験を、孤立の虚無でなく、“共有”しうるのか。

☆ いかにして、この生を、たんに“気が利いた幸福(無事にまっとうされる生)”におとしこまず、それ以上であることの確信を得、それを閉じたものではなく、“共感”としうるか。

☆ 私の唯一性を、自己満足ではなく、また他者に対する寛容でもなく、ただ唯一の体験として、生きて死ぬことは、いかに可能か。

☆ 私の欲望、それが性であり、カネであり、地位-権力-支配であるという単純な事実に、ベイスから向き合うことの、そういう“生き方”。

☆しかも、この欲望(私)を、殺すのではなく。




“基地問題”は、“問題”なのか?

2010-04-26 12:34:27 | 日記


世間に‘うとい’、ひきこもり初老であるぼくにとって、現在の政治-経済-社会的問題とゆーのは、ますます“疎遠”(アッシには係わりのないことでゴザンス)と思われるのだが、新聞を取らず、TVニュースも見ず、ネット・ニュースをぱぱぱっと見るだけでも、<フテンマキチ”というワードが目に入ってくるのである。

フテンマキチ?
キチ?

ああいやだ、アッシは、そーゆーことには、かかわりたくないなぁー。
残り少ない人生、どーせ<客観状勢>は変わらんのだから、自分の<観念>の世界で生きたいぜ。
すなわち、“ドイツ・カンネン論”とか、“ゲージュツ”とか、“ブンガク”とかにかかわりたい。
せめてよい夢をみながら死にたいね。

けれども(笑)、きょうたまたま(見なけりゃいいのに)田中早苗さんという弁護士が“あらたにす・新聞案内人”に書いている、<普天間問題の疑問にメディアは答えているか>というのを見てしまった。

そもそも、このタイトルはヘンではないか?

“普天間問題の疑問にメディアは答えて”いないことは、明瞭(考えるまでもない)ではないか。
まあ、この“作文”は、そんなに悪くもないが(つまり可もなく不可もなく)

それでぼくも“論点”を整理してみた。
どう考えても(つまりぼくの“脳”では)以下のことしか思いつかない。

基地とは?

① こっちから攻撃したいか、攻撃されたら防衛するためにある
② 日本国に基地が必用なら、攻撃したいひとがいるか、攻撃してくるひとが必要である
③ 現在の“議論”では、もっぱら“攻撃したい人”は話題にならず、“攻撃してくるにちがいない”仮想敵国がなんとなーく前提されている
④ たしかに日本も、<国>をやっている以上、攻めてくる国が“ない”とは、いえない。
⑤ しかし北朝鮮とか中国が“攻めてくる”という根拠は、いかなるものか?
⑥ 北朝鮮も中国も日本国を攻めたり、滅ぼして、なんの得があるのだろうか
⑦ そーいうことがわからない“気狂い”が、北朝鮮国や中国には多いということだろうか
⑧ たしかにそういう“可能性が”ないわけではないが、いままでそういう国も日本を攻めて来ていないし、某国の独裁者はたしかにそうとう“狂っている”模様だが、そういうひとに支配されていてさえ、北朝鮮だって“国際外交でかけひき”しているのである
⑨ さらに、どっか攻めてくる国があると仮定しても、“基地”があると、どーして“防衛”できるのであろうか、ほとんど役に立たないと思う
⑩ もちろん“日本国の米軍基地”というのは、日本国のためにあるのではなく、米国の世界軍事戦略の一環としてしかないのだが、“米国の世界軍事戦略”というのは、米国の問題であって、その意図など、“こっち”にはまったくわからない
⑪ むしろ現在の“大きな暴力”的危機は、<テロ攻撃>にあり、それに対して現在の<基地>が有効な防衛手段になりえないことも明瞭である
⑫ もちろんこういう“軍事レベル”ではない“小さな暴力”(の増加・激発・集積)こそ恐怖である
⑬ ぼくが考える“小さな暴力”は、他国の軍事基地に頼りきるような“精神の頽廃”からやってくる
⑭ “他国(米国)の軍事力に頼らないために、自国の軍事力を強化するという、シンプル(無思考)発想にも組しない
⑮ これでは、なんのために<政治>や<外交>や<文化>や<理性>があるかが、不明である
⑯ ぼくはDoblogの時すでに、はっきり自分の<立場>を言明している;
A:日本国は(この国家形態であるのなら)、日本国憲法にもとづき、あらゆる“武力の行使を放棄する”
B:このことを、宣言し、実行し、“国際社会”にたいして、あらゆる機会をとらえて“言明する”
これにより、日本国の、<世界>におけるグレードと独自性は、決定的となるだろう。
ぼくは“愛国的”でもないが、“愛国者”はこれにより、日本国の独自性(唯一性)を世界に示せるだろう。
きわめて、ベーシックである(笑)




君は生きろ、何かを変えるまで。






Snapshot;昼間でも点いてるモノ

2010-04-26 10:40:57 | 日記


今朝の“ネット巡回”で、あるひとの“ツイッター”を見た;

《という私も失業中はずっとテレビを見ていたんだったわw 今も家にいると点いてるし 約9時間前 webから》


ぼくは実はあまりひとの悪口を言うのが好きでない(笑)のだが、暗いとき電灯を点けないわけにはいかないが、時をえらばず、あるモノを“点けている”のは、電気代のムダだけではなく、資源の(有限の資源の)ムダである。

しかしこの<ムダ物質=マシーン>の有害性は、環境問題(資源問題-物質的問題)のみではないのである。

なにが<問題>であるかは、このブログで繰り返し言っておる。

すなわち<テレビ>によって、感受性のベースが狂う。

“ベースが狂う”というのは、本当に恐ろしいことなのである。
すなわち、“ベースが狂う”と、なにを見ても、なにを聴いても、なにを読んでも……

ああ俺に最期まで言わせないでくれ!

もし、“昼間から(夜まで)無駄なモノを点けている人”が、このツイッターを書いた人ダケなら、ぼくもわざわざこんなブログを書かない。

ぼく自身が、“テレビ創世記”からテレビと付き合ってきたのである。

昨日『テヘランでロリータを読む』を読んでいて奇妙な体験をした。

実はぼくは、小説にせよ映画にせよ、あまり“巻き込まれる”方ではないのである。
“冷静”というのとは、ちがうのだけれど。

けれども『テヘランでロリータを読む』を読んでいて、“この日常”にもどると、この日常がとても奇怪なものに見えた。

それは、この本の<力>でもあろうが、なによりも、“テヘラン”と“この東京”との<差異>である。

“本を読む”というのは、その読んでいる<状況>に“かかわりなく”、その<テクスト>に没入すればよい。

しかし、“その本を読んでいる状況”というものの重要性が、たしかにあるのだ。

単純に言えば、『テヘランでロリータを読む』の状況では、テヘランと“ぼくの暮らしている”東京は、対極にある。

対極にある。
たとえば、テヘランでの“女としての条件”と“東京での”女としての条件は対極にある。

しかしそうか?

このことは少なくとも“二重”である。
テヘランには自由がなく、東京には自由がある。

しかし、自由なきテヘランでの“読書会”では自由が模索-追及されているのに対し、東京では、自由は“すでにある”と“了解”されているため、誰も自由を模索-追及していない。

ゆえに、
ほんとうに<自由>なのは、どっちだ?

自由を希求すること。
自由がなんであるかを考えること。
すべてのひとが自由であることを望むこと。

そのような<行為-関係>がなければ、自由などどこにもない。

“自由主義”だから、“新自由主義”だから自由だ、などとテレビを見ながら夢想している人々には、たんに“自由がない”だけではなく、そういう人々には、<自由>というセンスがそもそも欠落している。


毎日歩く道が同じでも、足の踏み場がちがえば、違った風景がみえる(“スカイ・クロラ”)

“昼間でも夜でも点いているもの”以外を見なくては、“自由”はない。




君は生きろ、何かを変えるまで。