まず柄谷行人『トランスクリティーク』に引用されている、マルクスの文章を引用し、それを使って村上春樹『1Q84』を“批判”してみよう。
もちろんぼくは、村上春樹にうらみがあるのではなく(多少あるが;笑)、現在ニッポンの“表現者”(=本とか書いたり、テレビに出てる人、ようするに“タレント”)を批判したい、内田樹でもよい(笑)
★ マルクス『ドイツ・イデオロギー』(マルクスが生きていた当時のドイツの“イデオロギー”よ<注>)から引用;
日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるかということとを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思いえがいた言葉どおりに信じこんでいるのである。
展開;
☆ 日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるかということとを区別することぐらいはできるのに、わが春樹『1Q84』 ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる現在日本の現実(つまりありふれた日本人の生き方)を、その時代が自分自身について語り、思いえがいた言葉どおりに信じこんでいるのである。
<注>
すなわちマルクスは、当時の”右翼”を批判したのではなく、”左翼”を批判したのである。
君は生きろ、何かを変えるまで。