Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

砂、あるいはマルクスを読む

2010-04-29 14:55:30 | 日記


★ 梅雨明けはまだだろうから、今は梅雨の中休みなんだろう。そういえば、湿気のせいなのか、雨が降っていた日には、今日みたいに激しく砂が舞い上がることはなかった。それでさっきは、あれが特に気になったのかもしれない。あの、どれが誰のだか分からない砂の中の何粒かは、確かに僕のものだった。そのために、長いエスカレーターの途中では、見知らぬ誰かが、秘そかに涙を流していたのかもしれない。あるいはただ、ほんの一瞬宙を舞っただけで、何ということもなく、その辺に散らばっているんだろうか。――

★ 僕がこんなことを気にするようになったのは、要するに、僕も到頭、その歳になってしまったからだった。つい3ヶ月ほど前のこと、仕事から帰って、自宅のパソコンで友達にメールを書いていた僕は、出しっぱなしにしていた風呂の湯を見に行こうと席を立った拍子に、ふと、自分の座っていた椅子の上に、白っぽい粉のようなものが落ちているのを見つけたのだった。

★ その瞬間、僕はまったく奇妙だった。僕だって、もうそれなりの歳なんだから、何時そんなふうに砂が落ち始めたとしてもおかしくはなかったはずなのに、それを目にした時には、咄嗟に、食べもしないお菓子の粉か何かのように思ったのだった。もちろん、半分は、その時にもう気がついてはいたのだろうと思うけれど。そして、身を屈めて、慎重に指先で確かめてみて、初めてはっきりと、何が起こったのかを認める気になったのだった。

<平野敬一郎;『あなたが、いなかった、あなた』(新潮文庫2009)>



★ 男子の普通選挙が実現した共和制下のフランスで、ルイ・ナポレオンのクーデタが成功し、しかも、この独裁権力が国民投票で圧倒的な支持を得たのはなぜか?
この問いをめぐるマルクスの自由で饒舌な語り口は、つねにレヴィ=ストロースやE.サイードのような思想家たちのインスピレーションの源泉でもあった。
<マルクス;『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(初版)』(平凡社ライブラリー2008)カヴァー裏コピー>

★ 本書は、1852年5月にニューヨークのドイツ語雑誌『革命』に発表されたマルクスの論文「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の翻訳である。底本として、この1852年の初版に基づくMEGA版を用いた。
<マルクス;『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(初版)』“刊行に寄せて”=訳者植村邦彦>

★ 男子の普通選挙を実現した共和制の下でルイ・ナポレオンのクーデタが可能となり、しかもこの独裁権力が国民投票で圧倒的な支持を獲得できたのはなぜなのか。この困難な問いを前にして、自己批判と試行錯誤の跡が生々しく、それにもかかわらず(あるいはそれゆえに)風刺的で皮肉に満ちた饒舌と明るい展望に満たされたテクスト。暗いよどんだ状況の中で生み出された躍動的なテクスト。おそらくこの独特の魅力のためだろう。マルクスの数多い著作の中でも、これまでにこれほどさまざまな読まれ方をしてきたものはない。
<マルクス;『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(初版)』“平凡社ライブラリー版へのあとがき”=訳者植村邦彦>

★ ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。
★ 人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が、悪夢のように生きている者の思考にのしかかっている。
<マルクス;『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(初版)』本文>



<注記>

マルクスの本を、”マルクス主義者”じゃないひとが読んでも、かまわないのよ。




牧歌

2010-04-29 11:34:06 | 日記


★ 村にきて
わたしたち恋をするため裸になる
(・・・・・・)
わたしたち裸のまま
火事と同時に消えるもの
大勢の街の人々が煙を見にくる

<吉岡実:“牧歌”>



*下記ブログ及び下記ブログ掲載画像と<比較>せよ

わかんない?(笑)

あるいは、今日の読売編集手帳と比較せよ;

きみの部屋にオバケはいないかい? その歌は問いかける。オバケは名前を「ムカシ」という。都はるみさんの『ムカシ』(詞・阿久悠、曲・宇崎竜童)である◆〈こいつにうっかり住みつかれたら/きみも駄目になってしまうぞ/何故(なぜ)ってそいつはムカシ話で/いい気持ちにさせるオバケなんだ…〉。現実から目をそむけて、遠い日の感傷に逃避するなかれ、という教えだろう◆作詞した阿久さんはかつて本紙の連載『時代の証言者』で、「いい時代があったとすれば昭和30年代に入ったころでしょう」と語っている。ムカシとはその頃を指すのかも知れない◆まだ多くの人が貧しかったが、今日よりも明日は暖かく、明日よりもあさっては明るいと、信じることができたのは確かである。親類の小学生に将来、何になりたいかを聞いたら、「正社員」と答えた――今年1月、本紙の『気流』欄に載った読者の投稿にそうあった。いまの世に欠けているものを一つだけ挙げるとすれば「希望」であろう◆阿久さんに叱(しか)られるのは覚悟のうえで、昭和のムカシと差しつ差されつ、世の行く末を語らってみたい夜もある。
(2010年4月29日01時19分 読売新聞)



わかんない?


ぼくは”保守的なひと”がきらいなんです。

だから、”ぼくより若いひと”に言っている;

君は生きろ、何かを変えるまで。





あなたはどうして“この現実”を現実と感じられるのか?

2010-04-29 11:21:49 | 日記


このタイトル<あなたはどうして“現実”を現実と感じられるのか?>という“テーマ”について説明する必用があるだろうか?

たとえば、あなたが見ているテレビ・ニュースが、“やらせ”である可能性。
“9.11”も“イラク戦争”も“北朝鮮”も “小泉改革”も“オバマ”も“政権交代”も、ぜんぶ“やらせ”である(笑)
というような“可能性”である。

この問題は、もはや“新しく”ない、ぜんぜん。
SFやミステリやホラーの世界では古臭いテーマである。

一般に“新しくない”というのは、それが“あたりまえ”になったから。
つまり、ぼくたちが暮らしている<現在>において、それが“どこにでもある”から。

すなわち、(これもよくいわれているけど)、“現在のぼくたち”にとっては、なにが‘やらせ’でなにが‘やらせ’でないかが、もはや識別できない。

“識別できない”こと自体は、最近の問題ではない。
そうでなければ、なんで<哲学>などというものが、古代からあるのか。

そうではなくて、現在の問題というのは、“識別しようという意欲”自体がなくなったことだ。

逆に言えば、“誰もが”、自分及び自分を取り巻く世界が、“本当の現実”であることを確信して“いないのに”、だれもが自分及び自分を取り巻く世界が、“本当の現実”であることを“信じている”のである。


ぼくがこういうことを思ったきっかけは、昨夜テレビで見た“古い”映画「カプリコン1」(1977)である。
ぼくはこの映画を見ていなかった、たいした映画ではない(笑)

いちおう筋を説明するため、Wik.から引用する;
《人類初の有人火星探査宇宙船カプリコン1号が打ち上げられる事になった。しかし、その打ち上げ数分前、乗組員のブルーベーカー、ウイリス、ウォーカーは突如として船内から連れ出され、砂漠の真ん中にある無人となった古い基地へと連れて行かれた。
3人はそこで、本計画の責任者であるケロウェイ博士から、カプリコン・1の生命維持システムが故障したため有人飛行が不可能になった事を告げられ、政治的な問題で計画が中止出来ないので、火星に行ったという事実の捏造を行う事を命じられた。人々と科学を裏切る結果になる事を嫌った飛行士達は最初は拒否したが、家族の安全を人質に取られ、やむなく承服した。こうして、火星往復の間や火星探査の様子などを、この基地で収録するという大芝居が始まった。
大芝居は成功するが、地球への再突入の際に宇宙船の熱遮蔽板が破壊されたという報告が入った。その報告を聞き、自分達は存在してはならない人間になった事を察した飛行士達は、ここに居ると殺されると直感し、砂漠の基地から脱出を図る・・・・・・》
(以上引用)


すなわち《人類初の有人火星探査宇宙船》の成功の“やらせ”がアメリカという国家ぐるみで演出されるという話。
そもそもアポロによる“人類初の月面への一歩”が、“やらせ”だったのではないかとの推測もあった。

しかし“このようなやらせ”は、ある意味では単純である。
つまり1970年代にこういう映画で“あばかれた”ことは、この2010年のテクノロジーでは完璧に可能である。

一国家(とくに“アメリカ”さ)、あるいは複数国家の“協力”によれば、どんな<事実>も<テレビ>や<NET(WEB)>を通して、<現実>になる。

“視聴者”は、完全に騙される。

この映画で、“国家的陰謀”を暴くのは、この陰謀にイヤイヤ加担したあげく命まで狙われる宇宙飛行士と、取材していて“たまたま”この陰謀を察知して“追及”するジャーナリストである。

すなわち、“ジャーナリスト”の個人的な能力に、“まだ”希望が託されている。

これが、古い(笑)

アメリカ的に“古い”のである。
もちろんこの“古いアメリカ”の後を追うことしかできない<国>は、もっと古い。

この“やらせ問題”は、上記のような単純なケースのみではない。

ぼくが“テレビを見るな”と言っているのには、“そういう意味”もある。

再度問う;

あなたはどうして“この現実”を現実と感じられるのか?

あなたが、<現実>だと思っているものは、現実なのか?
あなたが、<現実>だと思っているものは、“どうして”、現実なのか?