★ 18世紀に出現した美的態度にかんして最も透徹した考察を与えたのはカントである。カントは、ある対象に対するわれわれの態度を、これまでの伝統的区分にしたがって、三つに分けている。一つは、真か偽かという認識的な関心、第二に、善か悪かという道徳的な関心、もう一つは、快か不快かという趣味判断。しかし、カントの区別がそれまでの考えと違っていることの一つは、彼がこれらに優劣の順位を与えず、ただそれらの成立する領域をはっきりさせたことである。それは何を意味するか。たとえば、ある対象に対して、われわれは同時に少なくとも三つの領域で反応する。われわれはある物を認識していると同時に、それを道徳的な善悪の判断において、さらに、快・不快の対象としても受け取っている。つまり、それらの領域はつねに入り混じった、しばし相反するかたちであらわれる。このために、ある物が虚偽であり、あるいは悪であっても、快であることがあり、その逆も成立する。
★ カントが、趣味判断のための条件としてみたのは、ある物を「無関心」において見ることである。無関心とは、さしあたって、認識的・道徳的関心を括弧に入れることである。というのも、それらを廃棄することはできないからだ。しかし、このような括弧入れは、趣味判断に限定されるものではない。科学的認識においても同様であって、他の関心は括弧に入れられねばならない。たとえば、外科医が診察・手術において、患者を美的・道徳的に見ることは望ましくないであろう。また、道徳的レベル(信仰)においては、真偽や快・不快は括弧に入れられなければならない。こうした括弧入れは近代的なものである。それはまず近代の科学認識が、自然に対する宗教的な意味づけや呪術的動機を括弧に入れることによって成立したことから来ている。ただし、他の要素を括弧に入れることは、他の要素を抹殺してしまうことではない。
<柄谷行人;“美学の効用”―『ネーションと美学』(岩波・定本柄谷行人集4;2004)>
★ あらゆる領域、と私はいったが、そもそもカントが提起したのは、「領域」そのものが超越論的還元(括弧入れ)によって存在するということである。彼は一方で、芸術性が客観的な対象にあることを疑い、他方でそれが主観性(感情)にあることを疑っている。彼がもたらす主観性は、むしろこの疑いにあり、それはたえず規範化される芸術を、芸術を芸術たらしめる原初の場にもどすのだ。カントが認めないのは、美的領域が、客観的であれ主観的であれ、それ自体で存在するという考えである。
★ 近代科学は、道徳的・美的な判断を括弧に入れるところに成立する。そのとき、はじめて「対象」があらわれるのだ。しかし、それは自然科学だけではない。マキャベリが近代政治学の祖となったのは、道徳を括弧に入れることによって政治を考察したからである。重要なのは、ほかならぬ道徳に関してもそういえるということである。道徳領域はそれ自体で存在するのではない。われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るだろう。そのときにのみ、認識の「対象」が存在する。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、芸術的対象が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧に入れることを「命じられる」のだ。しかし、それになれてしまうと、括弧に入れたこと自体を忘れてしまい、あたかも科学的対象、美的対象がそれ自体存在するかのように考えてしまう。道徳的領域についても同じである。
★ 道徳は客観的に存在するかのように見える。しかし、そのような道徳はいわば共同体の道徳である。そこでは、道徳的規範は個々人に対して超越的である。もう一つの観点は、道徳を個人の幸福や利益から考える見方である。前者は合理論的で、後者は経験論的であるが、いずれも「他律的」である。カントはここでもそれらの「間」に立ち、道徳を道徳たらしめるものを超越論的に問う。いいかえれば、彼は道徳領域を、共同体の規則や個人の感情・利害を括弧に入れることによってとりだすのだ。
★ 彼にとって、道徳は善悪よりもむしろ「自由」の問題である。自由なくして、善悪はない。自由とは、自己原因的であること、自発的であること、主体的であることと同義である。しかしそのような自由がありうるだろうか。
<柄谷行人;“Transcritique”―『トランスクリティーク カントとマルクス』(岩波・定本柄谷行人集3;2004)>