Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

三つの領域(判断)

2010-04-11 16:49:30 | 日記


★ 18世紀に出現した美的態度にかんして最も透徹した考察を与えたのはカントである。カントは、ある対象に対するわれわれの態度を、これまでの伝統的区分にしたがって、三つに分けている。一つは、真か偽かという認識的な関心、第二に、善か悪かという道徳的な関心、もう一つは、快か不快かという趣味判断。しかし、カントの区別がそれまでの考えと違っていることの一つは、彼がこれらに優劣の順位を与えず、ただそれらの成立する領域をはっきりさせたことである。それは何を意味するか。たとえば、ある対象に対して、われわれは同時に少なくとも三つの領域で反応する。われわれはある物を認識していると同時に、それを道徳的な善悪の判断において、さらに、快・不快の対象としても受け取っている。つまり、それらの領域はつねに入り混じった、しばし相反するかたちであらわれる。このために、ある物が虚偽であり、あるいは悪であっても、快であることがあり、その逆も成立する。

★ カントが、趣味判断のための条件としてみたのは、ある物を「無関心」において見ることである。無関心とは、さしあたって、認識的・道徳的関心を括弧に入れることである。というのも、それらを廃棄することはできないからだ。しかし、このような括弧入れは、趣味判断に限定されるものではない。科学的認識においても同様であって、他の関心は括弧に入れられねばならない。たとえば、外科医が診察・手術において、患者を美的・道徳的に見ることは望ましくないであろう。また、道徳的レベル(信仰)においては、真偽や快・不快は括弧に入れられなければならない。こうした括弧入れは近代的なものである。それはまず近代の科学認識が、自然に対する宗教的な意味づけや呪術的動機を括弧に入れることによって成立したことから来ている。ただし、他の要素を括弧に入れることは、他の要素を抹殺してしまうことではない。

<柄谷行人;“美学の効用”―『ネーションと美学』(岩波・定本柄谷行人集4;2004)>


★ あらゆる領域、と私はいったが、そもそもカントが提起したのは、「領域」そのものが超越論的還元(括弧入れ)によって存在するということである。彼は一方で、芸術性が客観的な対象にあることを疑い、他方でそれが主観性(感情)にあることを疑っている。彼がもたらす主観性は、むしろこの疑いにあり、それはたえず規範化される芸術を、芸術を芸術たらしめる原初の場にもどすのだ。カントが認めないのは、美的領域が、客観的であれ主観的であれ、それ自体で存在するという考えである。

★ 近代科学は、道徳的・美的な判断を括弧に入れるところに成立する。そのとき、はじめて「対象」があらわれるのだ。しかし、それは自然科学だけではない。マキャベリが近代政治学の祖となったのは、道徳を括弧に入れることによって政治を考察したからである。重要なのは、ほかならぬ道徳に関してもそういえるということである。道徳領域はそれ自体で存在するのではない。われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るだろう。そのときにのみ、認識の「対象」が存在する。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、芸術的対象が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧に入れることを「命じられる」のだ。しかし、それになれてしまうと、括弧に入れたこと自体を忘れてしまい、あたかも科学的対象、美的対象がそれ自体存在するかのように考えてしまう。道徳的領域についても同じである。

★ 道徳は客観的に存在するかのように見える。しかし、そのような道徳はいわば共同体の道徳である。そこでは、道徳的規範は個々人に対して超越的である。もう一つの観点は、道徳を個人の幸福や利益から考える見方である。前者は合理論的で、後者は経験論的であるが、いずれも「他律的」である。カントはここでもそれらの「間」に立ち、道徳を道徳たらしめるものを超越論的に問う。いいかえれば、彼は道徳領域を、共同体の規則や個人の感情・利害を括弧に入れることによってとりだすのだ。

★ 彼にとって、道徳は善悪よりもむしろ「自由」の問題である。自由なくして、善悪はない。自由とは、自己原因的であること、自発的であること、主体的であることと同義である。しかしそのような自由がありうるだろうか。

<柄谷行人;“Transcritique”―『トランスクリティーク カントとマルクス』(岩波・定本柄谷行人集3;2004)>





Sanpshot;日曜日に新聞を読む

2010-04-11 13:41:41 | 日記


☆ 朝日新聞の購読をやめたのは2008年いっぱいだったので、すでに1年3ヶ月以上が経過した。
きょう朝食に食べるものが切れたので、セブンイレブンのまずいサンドイッチをひさしぶりに買いに行って、“新聞”が売っていることに気づいた(笑)
今日は日曜なので、“読書ページ”があるはずである、新聞購読をやめて不便なのは、この“読書”と本の広告が見れないことだ。
新聞というものが、いくらするのかも知らなかった、120円であった、ちょうど‘おつり’が200円あったので買った。

☆ 文春文庫の4月新刊広告でいちばん大きく印刷してある本は以下の通り;
* 狂気にみちた愛のもとでは、善と悪の境もない
* 二人の女が隠そうとした真実を明かしたのは往復書簡だった
(以上コピー引用)
はてさて、上記のような“内容”の本をだれが読むのだろうか?
ぼくの偏見かもしれないが、こういう本の読者は<女性>だね(笑)
たぶん現在の出版界(の採算)というのは女性にささえられている。

☆ “幻冬社文庫”の全面カラー広告があるが、見事にぼくに関心がある本がない。
そもそも幻冬社文庫を、ぼくはほとんど買ったことがないのではないか(笑)

☆ 岩波書店広告で、いちばん大きく印刷してあるのも“女性の本”である。
俵万智『ちいさな言葉』。
この本もぼくには“無縁”な気がしたが、“キャッチ”を読むとこうあった;
《いまシングルマザーとして、幼い息子の興味深い表現や発言を受けとめながら、言葉のキャッチボールを堪能している。……》
なるほど、“シングルマザー”なら、ぼくは好きである(爆)、読んでみてもよい。
ベンヤミンについての『死のミメーシス』という本があるが、\4,410もするのである、ベンヤミン自体を読もう!(笑)

☆ “ワールド文学カップ”という企画を新宿紀伊国屋書店でやっているとの記事。
ぼくは新宿紀伊国屋書店に週に2回ぐらい行っている(笑)
たしかに先日行った時、2階で、このフェアの準備が行われていたのだ。
こんど見てみよう、“反響は上々”というのはメデタイが、“エロスの大国フランスは『O嬢の物語』”というのは、“いかがなものか”。
“O嬢”なんてどうでも、いいよ(爆)、(O嬢の)本も映画もエロビデオも飽きた。
ル・クレジオやデュラスがなかったら、怒るよ!

☆ 《シオたち若い女性は時代に合わせて大きく変化し、社会に貢献していこうとしている。ところが男性は、紙川のようにまったく旧態依然としたままだ。否、就職氷河期という現実を前にして、今まで以上に会社という狭い中に閉じこもろうとしている。この小説でそのことに強く気づかされ、愕然としてしまった》
この引用は、江川剛(知らないね)という作家が、山崎ナオコーラ(またしても女性!)の新刊を取り上げた文章である。
《男性は旧態依然としたままだ》というのには、大賛成である(笑)
しかしこのひと(男性)は、なぜそのことに“愕然としてしまった”などと、いまさらいっているのだろうか!
ぼくは、とっくに、愕然としている。
しかし《若い女性は時代に合わせて大きく変化し、社会に貢献していこうとしている》などということは、“最近の動向”ではないのである。
《時代に合わせて大きく変化》するというのは、元々の女性的特質(条件)である。
つまり、男が滅びても、ゴキブリのように“生き残れる”。

☆ “旧態依然としていない男”とはどのような<男>か?(爆)
角川歴彦というひとが、“クール革命”とか言っているらしい。
このひとはあのくだらない“角川映画”の仕掛け人だったのでないか。
こんどこの人が仕掛けるのは、<電子書籍>とかいうモノらしい。
ああ。
ぼくは<紙の本>で、よい。

☆ “ゼロ年代の50冊”とかいうのがある。
ああ!
またしても『海辺のカフカ』である。
《生きる意味のわからなさ 考えながら生きること》(だってさ!)
《自分の内側の未知の場所を探索できた》(著者の言葉、だってさ!)
そういうことなら、<ぼく>も、このブログで毎日書いている(笑)
なのに、春樹は売れまくり、“ぼくのブログ”のアクセス数は、さっぱり伸びない!
こりゃいかに?

☆ “ポプラ文庫”(広告)というのもある。
なにさコレ?
渡部淳一 !!!  五木寛之 !!!  秋元康 !!!!!
現在は、21世紀か?

☆ 週刊誌の広告も見てみよう;
* 舛添要一“与野党ぶち抜き”「50人新党」の青写真
* ツイッターを疑え;「やっぱりウェブはバカと暇人と中毒者のもの」、「米ネット帝国主義の下僕と成り果てる?」
* 『龍馬伝』おりょう・真木よう子の入浴シーンは2度ある
* ポスト鳩山 見えてきた5月退陣
* 大研究 宗教にハマる人たち 人はなぜ信じたいのか、なぜ宗教団体はあんなに儲かるのか
etc.

☆ はてさて、これだけ情報がゲットできたのだから、やっぱし、“新聞は安い(120円!)”であろうか!

☆けれども、“今日の収穫”は、上記のようなことではない。
 唯一の収穫を、最後に書く。

☆ “読書ページ”の書評=『治りませんように』(斉藤道雄、みすず書房)
この書評(平松洋子)から引用する;
《その中心にいるのは「治さない医者」を標榜する精神科医、川村先生である。とはいえ、むろん治さないのではない。医師が主導権を握らず、管理せず、選択のおおくを患者に委ねる。それは、医師と患者どちらも「他人の価値を生きない」ための決意であり、苦渋や葛藤をも引き受ける果敢な治療に思われる。》(引用)

ぼくはこの本を読んでないし、この本で取材された“ベテルの家”のこともなにも知らない。
だからこの本を読めば、ぼくに“批判”がうまれる可能性もある。
しかし上記引用のこの部分には、まちがいなく“共感”できる;

《それは、医師と患者どちらも「他人の価値を生きない」ための決意であり、苦渋や葛藤をも引き受ける果敢な治療に思われる》

ぼくが、ここから取り出す<命題>は、<普遍的>である。
すなわち、<病気>のはなしだけがあるのではない。
精神の病気と身体の病気の区別があるわけでもない。
医師と患者の区別があるわけでもない。
病人と看護人の区別もない。
健常者と病者の区別もない。

しかし、だからこそ、もし医師(病院、“医学”、“薬”、“手術”など)に管理されないなら、いかにして<患者>は、みずからの価値を生きるのか?

《「他人の価値を生きない」ための決意と、苦渋や葛藤をも引き受ける果敢な》思考と行為が、必要なのだ。







<追悼>

この“朝刊”には載っていないが、井上ひさし氏が死去された。

ぼくは井上ひさし氏の良き読者ではない。
しかし、彼が、宮沢賢治をあつかった戯曲には、感銘を受けた。

75歳。
思ったより、若い。
ぼくは、75歳まであと10年ちょっとしかない。

やはり、煙草を“減らす”べきである(笑)

しかし、ぼくのやるべきことは、他にもある、はずである。