To know, know, know her
Is to love, love, love her
Just to see her smile
Makes my life worthwhile
Yes, just to know, know, know her
Is to love, love, love her
And I do and I do
And I do
(昔の歌)
☆ 哲学の定義としてソクラテスの“無知の知”というのがある。
つまり自分が無知であることを知ることが、哲学することである。
しかし、自分が無知であることを知ってしまえばよいのではないだろう。
ソクラテスの対話というのは、“あなたが知っていると信じていることを、あなたは本当に知っているのか?”という執拗な問いかけなのだ。
☆ すなわちソクラテスは、その対話相手が“私は知っている”と思い込んでいることを粉砕するのだ。
☆一方、むかし日本には“教養主義”と呼ばれるものがあったらしい。
しかしこの教養主義が無力であった(役に立たなかった)ため、いつのころからか、教養はむしろ侮蔑の対象となった。
少なくとも、“教養がない”ことを、ひとは、恥じなくなった。
☆ たぶんこの教養にかわるものは、“情報”である。
たしかに、この情報をたくさん持っているか否かのグレードはあるものの、情報は持っていなくても、“検索”可能である。
☆ しかし、林達夫、渡辺一夫、大岡昇平、堀田善衛、加藤周一、大江健三郎のような人々を読んですぐわかることは、彼らの圧倒的な教養の厚みなのだ。
彼らはたくさんの情報をもっていたが、それだけではなかった。
☆ だから“情報ではない教養(というもの)を構成するものはなにか?”ということを考える必要はある。
それを“経験”とか“感性”とか“人格”というふうに言ってしまう。
しかし彼らに共通していることは、やはり知識の<量>である。
☆ “量より質”であろうか?
しかし、量がなくて、質があるひとには、なかなかお目にかかれない。
しかし“教養ある人”が、“クイズ王”であったり、“HOW TOの達人”であったためしもない。
☆ ある対象を知ること。
たとえば、“中国”について、その歴史や、風俗や、文学や、美術工芸品についてよく知っている人とそうでない人とでは、<現在の中国(人)>に対する認識が、まったく異なるだろう。
(ぼく自身、中国についてはよく知らないので、そのことが、わかる)
☆ 上記の例=中国は、まったく“任意”である。
☆ 彼女を知ることは、彼女を愛すること、である。
☆ ぼくたちは、知ることによって、彼女を愛することも憎むことも、できる。
しかし知らなければ、なにもできない。
☆ そしてこのブログは、最初のソクラテスの問いへ、戻る。