ぼくは『ゴヤ』を読みはじめて、堀田善衛というひとが好きになった。
もちろん“堀田善衛”という名は知っていたが、彼の小説をちゃんと読んだ記憶がない。
『ゴヤ』はとっくに死んだ母が愛読していたが、当時ぼくは関心がなかった。
それで堀田善衛の本をAmazonで調べていて、スペイン滞在記を見つけた。
『スペイン430日-オリーブの樹の蔭に』(ちくま文庫1989)
もう品切れの本なので、マーケット・プレイスで200円+送料で買った、いま届く。
見ると、この文庫をぼくは昔持っていたような気がする(持っていたが読み通さず処分したのだ)
‘あとがき’を読む;
★ 1977年の早春に、拙作『ゴヤ』4部作を完成したとき、私は身に非常な疲れと、自分自身の生全体がひどく希薄になったと感じていた。
けれども当時私はまだ60歳未満くらいであり、このあとどのくらい生きるのか見当がつかず、すぐ目の前に死の崖ップチがあるような気がしたリ、まだまだ時間があるようにも思え、人生の設計図が描けないで閉口していた。
(……)
それでいろいろに思いあぐねたあげく、居を移すことにした。どこへ行くか?すぐ死の方へ行くわけにも行かぬとすれば、これまで何度も通って、勝手知ったる他人の家のような気のしているスペイン国へ、と思いさだめたのであった。(引用)
堀田善衛のような有名なひとと、自分を比べるのはナンですが(笑)、しかもぼくは60歳を過ぎたワケですが、ぼくも、《身に非常な疲れと、自分自身の生全体がひどく希薄になったと感じ》ないわけでは、ないのである。
つまりこの“非常な疲れ”というのは、“自分自身の生全体がひどく希薄になった”ということと“同じ”であると感じるのだ。
ぼくはこれまでも“人生の設計図”など描けたことはないが、《すぐ目の前に死の崖ップチがあるような気がしたリ、まだまだ時間があるようにも思え》というのは、わかる。
だが、考えて見ると、ぼくの“これまでの生”が、希薄でなかったわけではない。
とくにその大部分だった、“学生時代”と“サラリーマン時代”の、<学校>と<会社(職場)>での自分というのが、どうにも思いだせないほど<希薄>なのだ。
“この間”、希薄でなかったこと(思い出せること)があるとすれば、それは、プライベートなことや、聴いた音楽や、見た映画や、読んだ本や、旅行のことだけである。
さて『スペイン430日』は、日記体である。
書き出し;
★ 1977年7月17日(日曜日)
朝から素晴しい天気である。
今日、小生60歳の誕生日である。
その予定にして来たこととはいえ、思えば妙なところで誕生日を迎えたものである。ここは北スペイン、カンタブリア海に面したアストゥリアス地方のアンドリンという村である。
(……)
この村に到着して、現在のこの家を借りて住みはじめて今日で1週間であるが、家内は毎日一度は、
「なんだかヘンなところですねえ」
と言う。(引用)
日記を読むのが好きである。
もうとっくに亡くなった人の、“1977年”の日記。
いいなあ、と思う。
この“いいなあ”にも、いろんな感想がある。
まず、どこの誰であろうと、そのひとの“日常が”(日常への感性が)がクリアに表出されているのを読むのは気持ちよい。
(しかし“ブログ”は、どーしてこのようで“ない”のだろう!)
もちろん、スペインで暮らせるのも、“うらやましい”。
日本から脱出不可能なぼくは、せめて、本で読む(笑)