Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Snapshot;20世紀の本、あるいは“ドン・キホーテ”

2010-04-03 14:47:03 | 日記


☆ 《20世紀の日本とはわれわれの思考の揺らめきを誘う何かである。それはすでに終わったものだが、なお歴史の重い地層として残っている。それはいまや過去のある集団的な夢のようであるが、それを夢とする現在にたいして、その現在性の意味や証しをつねに問いかけてくるものである》

☆上記は内田隆三『国土論』(筑摩書房2002)‘あとがき’からの引用である。
こういう文章を読んで、そのレトリックに感心していてはならない(笑)
いまこの引用を読んだ‘あなた’にとって、<20世紀の日本>は《思考の揺らめきを誘う何か》であるだろうか?

☆ たしかに‘それ“は、あなたが”20世紀の日本“にどれだけ生きたかに係わっている。
しかし今あなたが、20歳だとして、自分の人生の半分しか20世紀の日本に係わっていないにしても、あなたの両親や祖父母は、20世紀の日本に係わっている。

☆ ぼく自身は、‘半世紀も“係わった(笑)

☆さてそこで、“20世紀の日本”が、いつからであったかをあなたは、即答できるか?
ぼくはできなかったので、年表で調べた(手近にあった岩波新書・シリーズ日本近代史③の巻末略年表で;
西暦1901年とは、明治34年である。
この年表の記述を引用する;
2月 愛国婦人会創立、福沢諭吉没
5月 社会民主党結成(2日後禁止)
6月 第1次桂太郎内閣
12月 田中正造、足尾鉱毒事件で天皇に直訴

☆ しかし、ぼくが読みたいのは“年表”ではない。

☆ぼくが読みたいのは、<20世紀の本>である。
ここに、あまり有名でない出版社から刊行された鷲田清一+野家啓一編『20世紀を震撼させた100冊』(出窓社1998)がある。
この本には20世紀の“直前”から1988年までに刊行された、<100冊>がある。
ちなみに“最初の本”は、1857年刊行のボードレール『悪の華』である。
“最後の本”は、1988年刊行のラシュディ『悪魔の詩』である。

☆ この“最初と最後”の本に、<悪>という字があるのは、編纂者の意図ではなく、偶然であろう(笑)

☆ しかし、“20世紀”が、<悪>という字(ことば、がいねん)をめぐって展開されなかったかどうかは、考えるべきことである。

☆ この『20世紀を震撼させた100冊』の鷲田清一氏による‘はじめに“のなかに興味深い引用がある、太平洋戦争に向かう時代に東北大学に在籍した思想史家カール・レーヴィットの言葉;
《日本の西洋化が始まった時期は、ヨーロッパがヨーロッパ自身を解決しようのない一個の問題と感じたのと、不幸にも同じ時期であった》

☆ しかし、ぼくの考えでは、もし“ヨーロッパ”に可能性があるなら(それは“非ヨーロッパ”による相対化を必用とするが)、それは、ヨーロッパの<自己批判能力>である。
ぼくが信頼する“ヨーロッパの言説”はすべて、みずからを<批判>する言説であった。

☆ そしてもちろん<問題>は、ヨーロッパと日本の<関係>である。
もし“ヨーロッパが古い”と考えている人がいるなら、彼らは、“アメリカUSA”がヨーロッパからの移民(とアフリカやアジアや中南米からの移民)で形成されていることに、無知なだけだ。

☆ しかし、まず“20世紀の本”を読もうではないか!

☆ この『20世紀を震撼させた100冊』にリストアップされた<100冊の本>のうち、ぼくが読了しえた本は、ほとんどない!

☆ほとんどない、のである(笑)
これは、ぼくの“個人的な恥”をさらすことだろうか?
いや、これは、そういう“個人的な問題”ではない、ぜったいに!

☆ この『20世紀を震撼させた100冊』に選ばれた100冊が、“絶対の規準”であるなどと、ぼくは言いたいわけではない。
しかし、このリストを見て、“呆然とする”感覚は必要である。

☆ 私は何を読んできたのか? 私は何を知っているのか?

☆ しかも<本>というのは、“20世紀に刊行された”ものだけではないのである(爆)

☆ たとえば、“20世紀を震撼させた本”のなかでも代表的な本、フーコー『言葉と物』を読めば、ヴェラスケスやセルバンテスが“気にかかかる”わけである。

☆ ゆえに、読書は、<遡行>する(“さかのぼる”)

☆ ここに『20世紀を震撼させた100冊』のリストを掲載したかったが、疲れた(笑)
この本が現在も書店で売っているとは思えないので、興味あるひとは、古本で購入を勧めます。

☆ ぼくとしては、この<目もくらむ本>の集積のなかから、内田隆三『国土論』(現在208pまで読んだ)を読み続けます。







★ 名は思い出したくないが、ラ・マンチャのさる村に、さほど前のことでもない、槍かけに槍、古びた楯、痩せ馬に、早足の猟犬をそなえた、型のごとき一人の郷士が住んでいた。昼は羊肉より牛肉を余分につかった煮込み、たいがいの晩は昼の残り肉に玉ねぎを刻みこんだからしあえ、土曜には塩豚の卵あえ、金曜日には扁豆(ランテーハ)、日曜日になると小鳩の一皿ぐらいは添えて、これで収入の4分の3が費えた。そののこりは、厚羅紗の服、祭日用のびろうどのズボン、同じ布の靴覆いに使い、ふだんの日は黒っぽいベリョリ織で体面をととのえた。家には40歳に近い家政婦と、まだ二十歳にならぬ姪と、それに痩せ馬に鞍もつければ、剪定用の鉈もふるう、畑仕事や市場への買物に行く若者がいた。われらが郷士の齢(よわい)はまさに50歳になんなんとしていた。

★ ところでご存じねがいたいことは、上に述べたこの郷士が、いつも暇さえあれば(もっとも1年うちの大部分が暇な時間であったが)、たいへんな熱中ぶりでむさぼるごとく騎士道物語を読みふけったあまり、狩猟の楽しみも、はては畑仕事のさしずさえことごとく忘れ去ってしまった。しまいにはその道の好奇心と気違い沙汰がこうじて、読みたい騎士道物語を買うために幾アネーガという畑地を売り払ってしまった。こうやって、手に入るかぎりのそういう書物をことごとく己が家に持ち込んできたのであるが、あらゆるこの種の本の中で、あの名高いフェリシヤーノ・デ・シルバの作ったものほど彼の嗜好に投じた作品は一つもなかった。なぜならその文章の明快な点と、あの独特のこんがらがった叙述が、彼にはまるで珠玉とも思われたからであって、中でもどこを開いても『わがことわりに報い給う、ことわりなきことわりにわがことわりの力も絶えて、君が美しさをなげきかこつもまたことわりなり』などと書いてある、ああいう恋の口説や決闘状を読むに及んでいっそうその感を深くしたからである。

★ こういうたいへんな叙述のおかげで、哀れにもこの騎士は正気を失って、これを理解し、その意味を底の底までつきつめようと夜の目も寝ずにつとめたのであるが、こればかりはよしんばアリストテレスがそのためばかりによみがえってきたところで、しょせん意味を引き出すことも理解することもできなかったにちがいない。

<セルバンテス;『ドン・キホーテ 前編』(ちくま文庫1987)>




認知症

2010-04-03 11:38:23 | 日記


◆何がどう悪いかを説く気力もうせる不祥事で、緊張感の欠如ここに極まれり、である。学校を舞台にしたコントを演じているわけではなし、閣内ばらばらで「学級崩壊」と形容される鳩山政権に、野党第1党が「代返」のお付き合いをしてどうする◆パトリシア・コーンウェルの推理小説『警告』(講談社)で、主人公がニーチェを引用して語った言葉を思い出す。〈敵を選ぶときは気をつけねばならない、なぜならこちらも敵に似てくるから〉。与野党そろっての学校ごっこは救いがない。(読売編集手帳)

▼ ボタンを押すという採決には、どこか「軽さ」がある。140年ほど前、発明王エジソンは「電気投票記録機」なるものを作って議会に売り込んだそうだ。だが議会は買わなかった。簡単に採決できる機械によって、本来大事な討論が軽んじられるのを案じたからだと聞いたことがある▼若林氏は回顧録用の「武勇伝」にでもするつもりだったのだろうか。理由はともあれ、採決を軽んじる人に討論を重んじる精神があるとは思えない。不届きの背後に政治全体の劣化が横たわっていないか、心配になる。(天声人語)


さて、今日も二大新聞コラムは、“同じ話題”をとりあげて、なにか憤っている(いきどおっている)。

ぼくは近年、テレビでニュースさえ見ないが、昨夜たまたま手がすべってNHKニュースを見たら、この問題の議員がうつっていた。
みただけで、ただのボケ老人である。

つまりボケ老人が、ボケた行為をするのは、あたりまえであって、ニュースにならない。
ならばなにが問題なのか?

教養ある(昨日のぼくのブログ参照)大新聞コラムの“言説を参照しよう。
読売は、なんとニーチェさんの引用である;
《敵を選ぶときは気をつけねばならない、なぜならこちらも敵に似てくるから》(爆)

爆!爆!爆!
まさに“爆笑問題”である。

つまりまさに《敵に似てくる》のは、読売新聞自体である。

さて天声人語さんはなにを言うのか!;
《理由はともあれ、採決を軽んじる人に討論を重んじる精神があるとは思えない。不届きの背後に政治全体の劣化が横たわっていないか、心配になる。》(爆)

爆!爆!爆!
まさに“爆笑問題”である。

つまり、天声人語は、《心配になる》のである。

ぼくが“心配になる”のは、朝日新聞自体である(笑)

心配している場合ではないのである。
日本国において、《政治全体の劣化が横たわっていない》などということは、ないのである。

もちろん《政治全体の劣化》のみがあるわけでは、ない。
<日本>という社会全体の劣化が、おどろくほどの勢いで進行している。

すなわち、<日本>という場所に住む人々の関係の、おそるべき劣化である。
ぼくは、“滅びる”とか“終末”とかいうことを、これまでの人生でリアルに感じたことはなかったが、最近、感じる。<注;追記>

ある国全体が、痴呆化するということが、“ありえる”のである。

ぼくには、もちろん、それを押し止めることは、できない。
だが、その<可能性>(滅びることを押し止める可能性)がありうるなら、それはただ言葉によってであることを信じる。

いまこそ、ぼくらは、自分が使用する<言葉>について、意識的になるべきである。
そのためには、聴くべき<他者の言葉>について、命がけの選択をすべきである。

そして、聴き(読み)、みずからの言葉を発すべきである。

《希望なきひとびとのためにのみ、希望はぼくらにあたえられている》(ベンヤミン)




<注;追記>

この“滅びる”とか“世界が終わる”ということは、ぼくにとっては、たとえば“日本という国”がなくなるとか、人類がすべて死滅するということを、意味しない。

たとえば“日本という国”が存在しつづけ、“経済的に繁栄”しさえしていても、“滅びる”ことはあるという意味である。

この“世界”のなかで、“日本”が真っ先に滅びるのか、それが“世界とともに”ほろびるのかも、わからない。

しかし、やはりぼくが“日本人”である以上、日本が滅びるなら(日本“国”がではない)、それは世界が滅びることになる。

つまり、”日本が滅びるとき、他の国に脱出する”というような発想をぼくは拒否する。

もちろん”現実的(経済的)に”そういうことが、不可能である、ということのみではない。