Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

マイホーム

2010-02-12 22:50:28 | 日記


★ 国民皆保険や皆年金の制度が整備されるのは1961年のことだったが、健康保険や年金もマイホームの形成に必要な「生の持続」を日々要求するシステムの一環になっている。マイホームを取得し、保持することは、その経済的な基盤からすれば、事故や病の可能性(がもたらす危機)を綿密に排除して、「成長の時間」を生き続けるような主体の形式を引き受けることである。マイホームとの関連でいえば、その肉体は死んでもその主体は死なず、その肉体は病んでもその主体は健康でなければならない。個人の「生」は、保険が想定する集合的な生命の形式に融合することによってはじめて主体となる。そこでほんとうに生き続けるのは集合的な生命であり、個人の「生」はせいぜい偶有的で匿名の形式に還元されることになる。

★ 個人の「生」をこのように抽象化する奥行きをはらみつつ、マイホームとしての「家庭」は、構造的には、消費生活の主体として機能する。またその内面においては、生活の「豊かさ」を感じるように訴える言説が投与される。だが、そこで消費される膨大な商品群は、「豊かさ」というよりも、むしろ多くの家庭が中流意識の幻想を育むような生活様式の均質化を実現していく。その生活の中身やグレードが実際に不平等であるとしても、生活の様式は同じ方向に向かっているという抽象的な同一性の意識が、膨大な商品群と広告のディスクールを通じて仮構される。この抽象的な同一性の意識が階層の差異を超えて張りめぐらされるとき、かつて野坂昭如が不安のうちに感じ取った「日常」は剥がしようのない現実として定着するのである。

<内田隆三;『国土論』第2章“成長と神話”(筑摩書房2002)>