Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

テヘランでロリータを読む

2010-02-06 20:40:51 | 日記

★ 2年近くのあいだ、ほぼ毎週、木曜日の朝になると、雨の日も晴れの日も、彼女たちは私の家にやってきた。毎回、着用を義務づけられたヴェールとコートを脱ぎ捨て、色彩がはじけるさまを見るたびに、私はショックを抑えられなかった。あの部屋に入って、学生たちが脱ぎ捨てるのは、スカーフとコートだけではなかった。しだいにひとりひとりの輪郭がはっきりしてきて、だれにもまねできないその人自身になる。窓から私の愛するアルボルズ山脈が見えるあの居間の、私たちの世界は、私たちが逃げこむ安らぎの場となり、自足した宇宙となり、そこでは黒いスカーフ姿のおどおどした顔があふれる、下の町の現実を嘲笑うことができた。(引用)


この引用文は、いかなる本の、いかなる状況を述べているか?
すでに、このブログのタイトルに示されている。

これは毎週木曜日に開かれた<読書会>の記録である。
いったい、現在日本国に住むだれが、<読書会の記録>を読みたいだろうか。
いやいったい現在日本国に暮らすだれが、<読書会>を行いたいと望むのだろうか?

ぼくは、ずっとそれを望んでいる。
少人数ではあるが、昨年、ささやかな読書会をもった。
その読書会も中断しているが、また再開の可能性もある。

☆ この本は、イラン出身の女性英文学者アーザル・ナフィーシーによって書かれた。
☆ テヘランの大学で英文学を講じていたナフィーシーは、1995年、抑圧的な大学当局に嫌気がさして辞職し、みずから選んだ女子学生7人とともに、ひそかに自宅の居間で西洋文学を読む読書会をはじめた。
☆ とりあげた小説は主として、ナボコフ、フロベール、ジェイムズ、オースティン、ベロウなど、イランでは禁じられた西洋文学だった。
☆ イスラーム革命後の一種の全体主義社会のなかでの秘密の読書会は、圧政下で生きる女たちにとって、ささやかながら、かけがえのない自由の場となり、ナフィーシーがアメリカに移住する1997年までつづいた。
☆ この本は著者がアメリカ移住後、英語で書かれた回想録であり、2003年に出版された(翻訳は白水社2006)
<以上訳者あとがきから要旨引用>


ぼくはこの本をこれから読む。
ぼくはイランの“歴史”もイランの“現状”も、ほとんど知らない。

ただこの本をぼくに引きつけたのは、<読書会>という実践であった。
もちろん、この読書会に参加した女性教師でさえ“ショックを抑えられなかった”女子学生たちの“色彩がはじけるさま”に無関心であるはずがない。

なによりも思う(予感する)、
イランとは、“この国”とは、“逆さまの世界”ではないか?

“わが国”の女学生どもは、まったく野放しの自由を満喫しているよーである。
しかし、彼女たちのファッションは<自由>であり(たとえ“制服”があろうと)、彼女らのケバい化粧が<フリーに炸裂>しようと、そこに見られるのは、なんともいえない<閉塞感=空虚=空白>である。

<テヘランでロリータを読む>

ぼくは、この本を、“ほらイスラム原理主義は全体主義である、ザマーみろ”という気持で読むのではないのである。

ぼくは<あらゆる全体主義に抗して行われる“読書会”>を支持する。

また、この読書会において『ロリータ』が取り上げられていなかったら、ぼくがこの本を読もうと思ったかどうかは、わからない。

★ いま私がナボコフについて書くとすれば、それはあれほどの困難にもかかわらず、私たちがテヘランでナボコフを読んだことを称えるためにほかならない。ナボコフのすべての小説の中で、私は最後に教えた作品を、たくさんの思い出と結びついたこの小説を選ぶ。そう、書きたいのは『ロリータ』のことだ。しかし、いまこの作品について書こうとすれば、テヘランについても書かないわけにはいかない。だからこれは、テヘランにおける『ロリータ』の物語、『ロリータ』によってテヘランがいかに別の顔を見せ、テヘランがいかにナボコフの小説の見直しを促し、あの作品をこの『ロリータ』に、私たちの『ロリータ』にしたかという物語なのである。(引用)


さて、<東京でロリータを読む>読書会を実施する希望者がいるなら、ぼくは参加する。

あるいは、“ほかの都市”で、“ほかの場所”でも、<私たちの『ロリータ』>が実現することを、夢想する。




田村隆一;nadjaさんに

2010-02-06 11:24:46 | 日記


目がわるくなって、ブログ更新が間遠うになっているnadjaさんが“本は読めないものだから心配するな”というブログを書いている。

そのなかに田村隆一の名があって、その引用とおもわれる詩の一節があったが、ぼくは“それ”を読んだことがなかった。

ぼくは田村隆一の詩集集成である河出書房新社版の『詩集1946~1976』と『詩集1977~1986』の2冊を持っているが、ぼくがDoblog以来(死ぬほど)引用してきたのは、『1946~1976詩集』の「四千の日と夜」、「言葉のない世界」、「新年の手紙」からであった。
『詩集1977~1986』はざっと読んだだけであり、田村隆一は1998年に亡くなっているから1987年以降の詩も存在するだろう。

これからこの『詩集1977~1986』を、ちょぼちょぼ読んでみようかと思う。

いまこの詩集を本棚から出して、ここにおさめられた最後の詩を読んでみた、タイトルは<まだ眼が見えるうちに>である;

星の光
野の花
さかまく水平線
倒立する地平線
帽子の下に顔があり
ドアをあければ人がいる
雪にきざまれた
鳥の羽
小動物の足跡
秋の夕陽の落下速度
春のおぼろ月

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくは書いたことがあったっけ
その過ぎて行く人を何人も見た
ぼくも
やがては過ぎて行くだろう

眼が見える
いったい
その眼は何を見た

「時」を見ただけ

(以上引用)


もうひとつこの詩集から引用しようと思った、“港のマリー”である。
ぼくはDoblogの時にこの詩を引用したはずだが、これから仕事に出るので、その入力文をさがすヒマも、再入力するヒマもない。

なので、“港のマリー”の最後のメッセージのみを引用する;

《いまはどこにも住んでいないの》





Snapshot;共通の話題

2010-02-06 08:52:21 | 日記

ブログを書いていて時々思うのは、“共通の話題”ということである。

もちろん“ブログ”にかぎらない。
家から世間に一歩出て、“見知らぬ方々”とお話ししなければならない状況では、“共通の話題”をさがすことになる。

もちろん、“お仕事の場”でなら、お仕事に関連した話だけをしてれば間がもつ。
しかし“お仕事の場”であっても、お仕事の話だけをしていればよいわけでもない。

“世間話し”をしなければならぬ。
こういうとき、“むかし”は、煙草をすって誤魔化したものである(笑)
近年、そうゆーわけにもいかなくなった、困る。

さて、ここ数日の“共通の話題”は朝青龍である。
今日の天声人語、読売編集手帳、読売は社説まで朝青龍である。

ぼくは相撲というものを、ここ何十年も見たことがない。
ぼくが思い出す相撲は、小学校の頃の“栃若”時代である。
そのころは、面白かった。(注;”見た”のではない、ラジオの実況中継で聞いたのである;笑)

ぼくが子どもだったから面白かったのか、当時の栃錦と若乃花がすぐれた力士であり、その二人がライバルでありえたから緊張感があったのか、わからない。

ぼくはあらゆる“見るスポーツ”については、夢中になった<時期>があり、その時期でなければ何の関心もない。
“プロ野球というもの”とか“サッカーというもの”が面白いわけではない。

やっぱり思うに、その競技が面白いのは、傑出した“選手(競技者)”がいたときのみである。
まさに“F1”などというカネばかりかかって、単調な“レース”が面白かったのは、アイルトン・セナと優れたライバルがいた時代(のみ)だった。
そうでなければ、あんなものは、カネをかけたモノが勝つだけの、テクノロジー競争にすぎない(つまり“エンジニア”しかいない)

“相撲”ですか―ただの格闘技にすぎない。

大メディアもブログとかでも、いったい朝青龍についての、無駄な言葉が、昨日今日だけでも、いったいどれだけ飛び交っているのだろうか。
“インターネットWEB”は、こんな言葉を繁殖させるために、“存在している”のであろうか!(溜息)

もっと“言いたいこと”とか、“言うべきこと”はないのであろうか?

もっと“別様な”共通の話題は、ないのだろうか?
小沢や鳩山がどうこうしたという“話題”も、もう食傷である。

なぜぼくらは、メディアが“提供し”、“あやつる”話題に食いつき、<それ>ばかりを、飽きもせず、ドーたら、コーたら、言っている<のみ>であろうか。

この“状況”で、飯が食えるのはメディアとそれに寄生する“どっかのガッコの先生”的人種のみである。

もっと<別の話題>を、<共通の話題>とする、<世の中>を切望する。

そうでなければ、“ニッポンのおしまい”であるだけでなく、<人間のおしまい>なのである。




*写真は、このブログに全然関係ないジル・ドゥルーズという”自殺した哲学者”の写真である。

この<哲学者>については、今後書くことがあるだろう。



もちろん<ドゥルーズ>とか<フーコー>とか<ベンヤミン>とか<アガンベン>という名をもったひとの思考の軌跡が、この国で<共通の話題>になり得ると、ぼくが楽観しているわけではない。

けれども、<共通の話題になりえないこと>を話題にすることの“優越感”のために、これらの人びとを読み、ブログに書いているのではまったくない。

もしあなたが、上記にあげたような人びと(だけではなく)を、少しでも、“本当に読む”ならば、ぼくが“なにを言っているか”も、<わかる>はずである。

また、上記にあげたような人びと(だけではなく)が、”正しいことを言ったか否か”も不明である。<注>

つまり、なにを読んでも“誤読する”ひとは、誤読するのである。




<注>

あなたが好きな小説、まんが、音楽、映画などについて、あなたは“それが正しいことを言っているか否か”を問うだろうか?

あるいは、あなたが恋に落ちたとき、その“対象”が、“正しいことを言っているか否か”を問うだろうか?