新聞コラムは、“ことわざと詩”が好きである。
これは、これらコラムを書く人々が“ことわざと詩”を愛好しているとか、それに詳しいことを意味しないだろう。
“ことわざと詩”が、<短い>ことが、コラムに引用するのに便利だからだ。
たとえばこのように;
《吉野弘さんに、「『目』の見方」と題する詩がある。「目」を含む漢字がいくつか出てくる。その一節。〈民の目は眠くて/罠の中〉(『続・吉野弘詩集』、思潮社)。民と目で「眠」、目が横になって熟睡すれば「罠」になる、と》
《◆吉野さんの詩から。〈目の中に、日と月がいて、明るい/口もいくつかあって、うるさい〉。首相は12億円、幹事長は4億円、「いのちを守りたい」と心優しい子守歌を聴かせてもらっても、そう簡単に目をつむれる額ではない。口を閉じられる額ではない》
(読売編集手帳引用)
これでは<詩>がかわいそうではないだろうか。
ぼくはここに引用された吉野弘の<詩>を知らないが、吉野弘はこのように<引用>されることが、うれしいであろうか。
天声人語は“ことわざ”である;
《〈江戸の敵(かたき)を長崎で討つ〉の例えは、本来は「長崎が討つ」だという説がある。江戸での見せ物興行で大阪の竹細工が大評判を呼び、地元勢は面目をつぶされる。ところが長崎からのガラス細工がさらなる人気を博し、江戸の職人たちも留飲を下げた、との由来である》
《▼冒頭の「長崎が」説を付した小学館の「ことわざ大辞典」に、〈長崎の怖い雑魚〉という古語があった。遠隔地の不案内と、イワシなどの「小合(こあい)雑魚」をかけた言い回しで、何ともいえぬ恐ろしいことの意味だという▼自民はイヤ、民主もダメの政治不信。そのうち選挙も納税もばからしくなって、日本社会から活力がますます失われていく。そんな展開こそ、いま一番の「怖い雑魚」である》
<国民>は、“怖い雑魚”であろうか。
「ことわざ大辞典」によって、われわれは何を“学ぶ”のであろうか。
ようするに、“言葉の機能”は、大丈夫であろうか?
ある漢字をじっと見つめていると、<言葉>が分解していく。
ここで<言葉>を変換していると、奇怪な言葉が、出現する。
<詩>とは、新しい言葉であった。
すなわち、まったく新たに、ぼくらを、言葉に対面させ、そのことによって、惰性的な言葉の使用を<疑う>ものであった。
言葉を使用することは、便利な手段のみではなかった。
それは、惰性的な生をくつがえすことであった。
仕事に行きます!