Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

いったいなにがいいたいの?

2010-02-25 12:06:55 | 日記

みなさん!

毎日、毎日、わけのわからない言葉がとびかっている。

いったい大新聞コラムというのは、愚劣な言葉の“見本”を掲げるために存在しているのか。

いったいいつから、“メディア”は、気のきいたふうな引用とレトリックで、まったく無意味なことやデタラメだけを作文するだけのひとたちで占拠されてしまったのか。

新聞社には、デタラメな文章を書くテクニックを伝授する“文章読本(マニュアル)”が備え付けてあるらしい。

はなはだ残念なことだが、<ある時代の言葉>は、それを読まなくても、見なくても、“メディア”にリードされていくのだ。

もちろん、“いつの時代でも”、大衆に受け入れられやすい言葉は、“通俗”であった。
歴史を潜り抜け、現在まで生き延びた言葉は、すべてそのような多数の蒙昧を切り裂く言葉である。

ぼくは、そのような言葉だけを読んでいればいいのだが、ぼくは自分の人生で“考えること”に気づいた端緒に、サルトルというひとの<状況(シチュアシオン)>という概念=態度に触れたのだ。
また吉本隆明は、<情況>と言った。

すなわち<言葉>は、状況=情況の“なかでしか”発せられない。

さて、今日の状況はいかなるものか。
もちろん話題は、“オリンピック”である。

昨日ぼくが“感想”を書いた“カーリング”女子日本チームについて、読売新聞は、ぼくとは対極的な“感想”を掲げている、引用する;

起承転結の例として、よく引かれる俗謡がある。〈大坂本町糸屋の娘/姉は十六、妹は十四/諸国大名は弓矢で殺す/糸屋の娘は目で殺す〉◆思わず引き寄せられるようなまなざしの魅力を「目で殺す」と言い表している。カーリングというスポーツの醍醐味は、一つにはこの競技者の眼光だろう◆石の滑る軌道を測る設計技師の目、微妙な回転を加えて手を離す熟練職人の目、祈る人の目――バンクーバー冬季五輪・カーリング女子の日本代表は惜しくも8位に終わったが、多くの人が作戦と技術の精緻を競う「目」の光を堪能したに違いない◆氷上の小さなごみに軌道が狂い、痛恨の失点をする場面もあった。〈美しく、冷酷で、無情〉とは『高い窓』のなかで探偵フィリップ・マーロウがチェスを評して語る言葉だが、“氷上のチェス”といわれるカーリングにも通じよう。眼光の消えた目から最後は悔し涙がこぼれた◆ときに呼吸をとめて石の行方を追いながら、初めて競技の面白さを知った子供たちもいたはずである。眼光に心を射抜かれたその子がいつか、日の丸を身につけて氷上に立つ日もあるだろう(引用)

いったいこの文章はなにを言っているのか;
① ここでの、《目で殺す》という比喩は適切か?
② もし“《目で殺す》という比喩”が適切でなければ、この文章はなりたたない
③ もし、カーリング女子日本代表の<目>で“殺す”ことができたなら、なぜ彼女等は“負けた”のであろうか?
④ 《氷上の小さなごみに軌道が狂う》のは、“日本”だけではなかった
⑤ なぜ“探偵フィリップ・マーロウ”がここで、出てくるのか?(爆)
⑥ 《眼光に心を射抜かれたその子》とは、いったい“どこの子”のことであろうか!
⑦ どうして《日の丸を身につけて氷上に立つ》ということが、そんなにも重要なことであろうか?


Next(笑)、天声人語;

▼先に滑った真央さんの曲は「仮面舞踏会」。ポーズをとって、曲が始まる前に4回まばたいた。仮面も緊張までは隠せない。しかし、勝負のトリプルアクセルが成功すると、社交界にデビューする少女の生気が戻った▼続いて登場した妍児さんは「007」。少し背伸びをしてボンドガールになりきり、妖(あや)しく、なまめかしく舞い切った。この競技、スポーツであり芸術であり、何よりショーなのだと得心した▼二人は、誕生日が20日違うだけの19歳で、国際大会での成績は伯仲している。両親と姉1人の家族構成も同じ、背格好までそっくりだ。妍児さんは、真央さんのことを「もう一人の私」と表現してもいる▼できすぎた背景と展開に彩られて、めったにないライバル物語がいよいよ佳境を迎える。その結末は期待の真綿にくるまれ、あすのフリー演技へと大切に運ばれた。フィクションでは再現しえない熱狂と鼓動が二人を待つだろう。だから、「4年に1度」はたまらない(引用)


ぼくは上記の演技を見ていない。
ここではじめて彼女らの“選曲”を知った;「仮面舞踏会」と「007」である(笑)
なんか古くありませんか?
《社交界にデビューする少女の生気》というのは、何のことだろう?(ぼくには分かりません、日本国に“社交界”があるんですか?)
《ボンドガール》???(知ってる? ぼくは知ってるが;笑)

さて奇怪な言葉がつづく;
《この競技、スポーツであり芸術であり、何よりショーなのだと得心した》
《できすぎた背景と展開に彩られて、めったにないライバル物語がいよいよ佳境を迎える》
《その結末は期待の真綿にくるまれ、あすのフリー演技へと大切に運ばれた》
《フィクションでは再現しえない熱狂と鼓動が二人を待つだろう。だから、「4年に1度」はたまらない》
(以上引用)


ぼくの“日本語感覚”では、
① スポーツと芸術とショーは、まったくちがう概念である(だからぜんぜん“得心”しない)
② 《できすぎた背景と展開》という言葉は、普通、否定的な場面に使用される(すなわち、そういうものに“彩られる”ことはない)
③ 《その結末は期待の真綿にくるまれ》の場合も、《真綿にくるまれ》という表現はネガティヴである
④ 《フィクションでは再現しえない熱狂と鼓動》というものは在りえる、が、これは<フィクション>というものを、“あなどる”表現である、天声人語氏は“フィクション”に感動したことがないのであろうか?
⑤ 《だから、「4年に1度」はたまらない》(爆)
この“だから”というのは、誤用(まちがった用い方)ではないだろうか。
“だから”というのは、それまでの文章の展開が正当である場合に、結論を導くために使用される。
すなわち“それまでの文章の展開が正当でない”場合には、使用できない。


こんなデタラメな文章を読まされては、《たまらない》。

しかも「4年に1度」ではないのである。

<毎日>である!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!





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2 コメント

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新聞は… (かぷかぷ)
2010-02-25 23:24:45
ヘンだと、私も思います。
ですが、周りの人たちはそれが正しいと思って読んでいるからか、私がヘンなところを指摘すると驚きます。
コラム欄は、まず、さあ、今日は何が何でもコラムに共感するぜ!と気合いを入れてから読むのが正しい読み方だと思います。
特にオリンピックに関する報道は、以下の予備知識を血肉になるまで繰り返し読むことが必要です(※周りのオリンピック大好きなひとたちを見て、オリンピックに無感動な私が考えました)。

オリンピックは、国民みんなで日本を応援して、選手が勝てば一緒に嬉し泣き、負ければ一緒に悔し泣きするのが正しい。
競技の結果に関わらず、オリンピック選手はその存在自体、尊敬に値するので、誇りに思わなくてはならない。
オリンピックは、とにかく素晴らしいので、何を言おうと批判だけはダメ。

こんな感じで、あらゆる理論を捨て去った後に残るオリンピックのくれる感動のなか、テレビのコメンテーターの話を聞いたり、新聞のコラムを読んでいれば、四年に一度がたまらなくなる…はず?だと思います。
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Unknown (warmgun)
2010-02-26 00:03:09
かふかふ さま

実はぼくはずっと”オリンピック大好き”人間だったのね。

ブログに書いたこともあるが、”スポーツ観戦”も子供の頃から好きでさ。

その時々で”流行”はあったが。
テニスもサッカーもF1も女子マラソン(笑)もかなり熱狂した時期があった。
陸上競技も好きさ。
オリンピックもTV中継も映画も見てきた。

ぼくが興味持ったことないのは、ゴルフ(笑)と高校野球とプロレス(ボクシングは大好きだった)くらいかな。

だから今回のオリンピック批判は、メディア言説にあるんだが、競技自体も昔よりつまらないね。

やっぱり選手の”個性”の問題だと思う。

見ていて、面白い人が少なくなったんだ。
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