★ われわれが玩具とみなしているものは、もともとは、あの世の生活で死者のお供をするために墓に埋葬されなければならないほど深刻な品々だったのである。墓に埋葬された遺品の多くが、現実の物にくらべて縮小された物であるという事実は、その置き換えが決して「経済的な」動機によるわけではないことを物語っている。
★ 幼児と外界との最初の関係についての研究において、ウィニコットは、ある種の対象を同定し、それを「移行対象」と命名した。つまり、幼児が外的現実の中から分離させ、自らに同化させる最初の物(シーツや布地の端のたぐい)であり、その場所は、「親指とテディ・ベア間に、口唇性欲と真の対象関係の間にある経験の領域に」位置している。それゆえ、これらの「移行対象」は、文字どおり内なる主観性の領域に属しているのでも、外の客観の領域に属しているのでもなく、ウィニコットが「イリュージョンの領域」と呼ぶものに属しているのである。その「潜在的空間」の中に、遊戯ばかりでなく、文化的経験すらもまた据えられることになる。文化や遊戯の位置づけは、それゆえ、人間の内でも外でもなく、「第三の領域」、つまり「内なる心理的現実からも、個人の生きる実際の生活からも」区別される領域の中にあるのである。
★ 心理学の言語が手さぐりでとらえたこのトポグラフィーは、実はフェティシストや幼児、「未開人」や詩人がずっと昔から気づいていたものなのである。19世紀のあらゆる偏見から真に解放された人間の科学が、その探究の先を向けなければならないのは、この「第三の領域」に対してであろう。物は、使用と交換の中立的な対象、「前に置かれたもの」(ob-jecta)として、われわれの外、つまり計量できる外の空間にあるのではなくて、それ自身が、われわれに原初的な「場」を開示しているのである。そして、この「場」から出発してはじめて、計量できる外の空間の経験は可能となる。つまり物それ自体は、最初から、世界内存在としてのわれわれの経験が据えられる「場なき場」の中でとらえられ、理解されるのである。
★ 「物はどこにあるのか」という問いは、「人はどこにいるのか」という問いと切り離すことはできない。物神として、玩具として、物は本来いずこにもない。なぜなら、それらの場は、対象の此岸でしかも人間の彼岸に、つまり客観的でも主観的でもない、人称的でも非人称的でもない、さらに物質的でも非物質的でもない領域に位置しているからである。が、その領域の中で、われわれは突然、一見したところは非常に単純に見える未知数x、つまり人間と物に直面するのである。
<ジョルジョ・アガンベン;“マダム・パンクーク、あるいは玩具の妖精”―『スタンツェ』>