Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

人形使い

2010-02-04 22:06:05 | 日記

★ ところが、女形や人形使いは、はじめから女になりきらねばならないのだし、ナマの現身がないのであるから、そもそも芸が女に「なる」女に扮することから出発する。これは有利なことでしょう。人間誰しも異性の長所というものは、本能的な理想として所有するものでもありそれが真善美の秘密の支えでもあるのだから、異性に扮し表するところの女らしさ、男らしさは全人格的な活動によって完成されるものであり、また純粋でもありましょう。

★ 女形の色気、色ッぽさが女優以上であるのはフシギではないが、人形の色気がそれ以上にしみるような深い綾を表するのは、女になる前にさらに人間にならねばならないのだから、そもそも芸の出発が人間のタマシイやイノチを創ったり身にこめたりするところから始まらなければならないのだもの、舞台の上に生まれて生きることから始まるのだもの、ナマの身をもつ人間よりも純粋に人間になりきれるのは当然でありましょう。

<坂口安吾;「宝塚女子占領軍」-『安吾新日本地理』(ちくま文庫・坂口安吾全集18)>




フーコーの振り子

2010-02-04 21:19:27 | 日記


★フーコーはこのカントの立論を踏まえながら、物の秩序を認識するためには、その認識を可能にする条件が必要であると主張する。フーコーはこの認識を可能にする条件を、<歴史的ア・プリオリ>というカント的な言葉で表現する。ある思想や科学が成立するためには、歴史的にみてア・プリオリな(その前提として必用な)条件が存在すると考えるのである。

★ するとこの視点は、第2章で述べた『臨床医学の誕生』を貫いている分析視点と同じものであることがわかる。『臨床医学の誕生』においては、ある物がみえるようになるということ、そしてみえるものを語るということがいかに困難であるかを明らかにしていた。一つの科学の誕生とは、それまでたんに網膜の像として写っていたにすぎず、<みえる>ものではなかったものを、<みえるもの>として認識し、それを言語で表現できるようになることと密接に関係していたのである。すなわちさまざまな物が一つの秩序をもつものとして認識されるためには、まずその秩序を構成する視点が確立される必要があるのである。

<中山元;“知の考古学の方法”-『フーコー入門』(ちくま新書1996)>




★ 規律社会の仕組みを検討することによって、フーコーが提起するのは権力をめぐるもうひとつのイメージである。フーコーにとっての権力とは、少数の特権者が、他を犠牲として、仲間内で専有する実体でも、ある社会階級にのみ属する専有物でもない。権力は社会という組織体の厚みをくまなく流通するもの(たとえこの流れが、もっぱら社会の一部の利益のためだけにもろもろの技術と仕組みとによって統御され、調整されているとしても)であり、誰かれの手のなかに収まった一個の事物ではなく、万人のあいだを流通し、人びとを結びつけると同時に切り離す要素、対立を招く葛藤のうちに人びとを集結させる要素なのである。だが、これらの力の関係は、支配という一面的な関係には要約されない。むしろ、諸階級のあまりに圧倒的な対立を貫通し、単なる生産関係には(たとえ、生産関係に依拠しているにせよ)還元不可能なものとして示現する多様な網の目が問題なのである。

★ そこかしこに、権力の多かれ少なかれ錯綜した結び目が存在しているが、けっして<権力>は特定の制度や装置(国家、等々)のうちに位置づけられない。情夫と愛人、職工長と工員、親と子、売春婦と客、師匠と弟子のあいだには、それに見合う数だけの、特異で多面的な権力関係が結ばれる。社会の組織は葛藤を孕んだ仕方で存続する。断片化された諸戦略が相互に依拠しあうことができ、諸戦術がある関係から別の関係へと移し替えられる、そのような仕方で存続する。すなわちフーコーにとって、権力は所有されない。権力は行使されるのである。

★ 権力の実体論的レベル(物としての権力)のみならず、<法>のモデルもまたフーコーにとっては権力関係の特権的な解読格子たりえない。フーコーの見るところ、契約説に立つ法的な構想と同時に、マルクス主義的な構想もまた、権力の本質的顕現としての<法>という主題がのさばりすぎて身動きがとれずにいる。権力という問題構制が畳み返され収まる先が、共和主義の枠内での個人の権利および国家の責務の肯定ということであれ、すべてに優先するのはつねに(一方では個人相互間の協和の原理とされ、他方では抑圧装置とみなされる)<法>のモデルなのである。かくして、フーコーの分析は二つの批判的方向をたどる――すなわち、一方では(契約説に対して)、権力は<法>の調停をもたらす秩序の確立とは混同されないことを示し、他方では(マルクス主義に抗して)、権力は抑圧し、禁止するのではなく、教唆し、生産することを示そうとするのである。

<フレデリック・グロ;『ミシェル・フーコー』(白水社・文庫クセジュ1998)>




人間中心主義

2010-02-04 11:44:50 | 日記

“ツナミン”という名のブロガーが書いた“クジラ論争の哲学的背景”というブログに対して、“反捕鯨運動”側のひとからの疑問が提起され、それに対してツナミンが<補論>を書いている。

ぼくは“反捕鯨運動”とか“反反捕鯨運動”については、とくになにも考えていないので、ここに述べない(クジラは好きなので、なるべく殺さないほうがよいと思う)
ツナミン自身も自分のこのブログは、《「クジラ論争」そのものではなく、その「哲学的背景」を論じたもの》だと言っている。

ならば<哲学的背景>について考えようではないか。
すなわち<人間中心主義>である。


ツナミン自身が言っている<主張>は次ぎの2点;
(1) 人間は人間中心主義を脱却できないし、その必要もない。したがって、人間とそれ以外の生物を区別しても構わないし、せざるを得ない。
(2) 人間については、その生命の尊厳の平等性を承認すべきである。

ツナミンは<人間中心主義>が、海外では、日本のように“当たり前”ではなくなっているとして、その中心的思想家としてピーター・シンガーというひとを取り上げている(海外では現在“非常に有力な思想家”らしいが、不勉強にもぼくは存じ上げない)


ツナミンによるピーター・シンガーさんの主張は以下の通り;

(1) 人間と動物を区別する思想は種差別(speciesism)であり、人種差別と同様、間違った思想である。それゆえ、「すべての動物は平等である」。
(2) しかし、すべての動物が生存権を有するわけではない。生存権を有するのは、人格を備えた存在、すなわち、自分が時間を通じて存在することを知るだけの知能を備えた存在に限られる。そのような人格的存在とは、人間のうち健常な成人と、大型類人猿である。
(3) 多くの動物と、人間でも新生児や重度の脳障害を負った人には人格がなく、それゆえ生存権は持たない。ただし、苦痛を経験する能力(受苦能力)はあるので、道徳的に配慮すべき対象ではある(が、苦痛なく殺すことはただちに悪いことではない)》(引用)


さて、どんな<主張>でもそれを、“検討”したり“批判する”には、そうとうのエネルギーがいる。

現在、この<問題>についてそういう“労力”を傾ける根気もないので、ぼくとしては、上記の“ピーター・シンガーさん”の主張への疑問点を提示する。

すなわち<人格>ということである。

ここでぼくは、“人間と動物はどうちがうか、とか、動物のなかで高等動物を区別する”というような問題については、“考えない”。
あくまで<人間>だけについて述べる。

①<人格>とはなにか?<人格>を定義せよ。
②すなわち《自分が時間を通じて存在することを知るだけの知能を備えた存在》ということは何を意味するのか?
③ゆえに、《そのような人格的存在とは、人間のうち健常な成人と、大型類人猿である》というような<定義>には納得しがたい。
④ぼくの“精神分析”などから得た乏しい知見によれば、人間は、生れ落ちた時から(あるいは母の胎内にいたときから)<人格>に係わっている可能性がある。
少なくとも、<赤ん坊>は、まさに、<人格形成の最もダイナミックな渦中にある>。
④ゆえに、
《人間でも新生児や重度の脳障害を負った人には人格がなく、それゆえ生存権は持たない。ただし、苦痛を経験する能力(受苦能力)はあるので、道徳的に配慮すべき対象ではある(が、苦痛なく殺すことはただちに悪いことではない)》(引用)
ということに、“論拠”はない(“重度の脳障害を負った人に人格がない”ことは、どうやって証明できるのか?)
⑤ただし、ぼくにはこれらの問題についてなんらかの<結論>があり、それを<主張>したいのではない。


つまり、上記でぼくは“ピーター・シンガーさん”の主張に疑問を呈しているだけでなく、ツナミンの主張にも疑問を呈している。

そもそも“ツナミンの2項目の主張”には、反論する必要を感じない。
つまり<絶対的真理>が述べられているからである(笑)

つまりツナミン的<真理>が、実現し得ない<状況>にぼくらは生きている。
だから<問題>は、ある。
困難は、“ピーター・シンガーさんのような”の主張だけではないのである。
たとえば“経済効率”の問題である(それだけでもない)

もし“認知症のひとに(も)人格があるか?”と問われたら、その“重度により、<ある>状態と<なくなってしまう>状態がある”というのが“科学的(医学的)”である。

しかし<にもかかわらず>、どんなひとにも(どんな状態でも)<人格がある>とまわりの人々(本人ではない人々)が“考える”のは、<思想の問題>(宗教の問題でさえなく)である。

上記のように<考える>だけ、が、現在のぼくの立場である。