Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“知性”がなければ、ロックじゃない(笑)

2010-02-25 13:10:36 | 日記


まずおことわりしておくが、ぼくはかねがね“テレビを見ない”と言明している。

これは“地上波テレビは見ない”という意味(すなわちBSとケーブルテレビ・チャンネルは見ることがある;主に映画と海外ドラマ)

さらに例外がある。
① ぼくが見る気がなくとも、“そこに写っている”場合(たとえば仕事の日にランチに行った食堂での“笑っていいとも”)
② 重要なニュースや国会中継があった場合(ごくたまに)
③ BSやケーブルテレビ・チャンネルで見る番組がまったくなく、“おもわず”地上波チャンネルを“見てしまう”場合(笑)


さて昨夜は③のケースで、なんと“NHKテレビ”を見てしまった!
佐野元春というひとが、ゲストを招いて、会場の“大学生?”と質疑応答するシーン。
昨夜のゲストは“ドラゴン・アッシュ”の降谷建志というひと?であった。

なにを隠そう(こういう表現をレトリックという)、ぼくは佐野元春も“ドラゴン・アッシュ”も1曲も聴いたことがない(街を歩いていて“聴こえた”ことがあったかもしれないが、それは“聴いた”ことにはならない)

ぼくが見ている間は、ほとんど降谷建志と会場大学生?の質疑応答であった。

それでぼくは、愕然としたのだ;
①“ドラゴン・アッシュ”の<音楽性>は聴いたことがないので知らないが、降谷建志というひとの“発言”には、ひとかけらの<ロック>もない。
②実は(怠惰なぼくであっても)このブログを書くためにWik.で、“ドラゴン・アッシュ”を検索したのである。
そこには、“ドラゴン・アッシュ”のジャンルとして、“ミクスチャー・ロック”という分類がされていた。
“ミクスチャー・ロック”???とはなんじゃいな?
“ごたまぜロック”?

知ったことではないが、Wik.から引用する;

Dragon Ash(ドラゴン・アッシュ)は、日本のミクスチャーロックバンド。ビクターエンタテインメント内のレーベル、MOB SQUADに所属する。
オルタナティブ、パンクロック、ハードコアパンク、ヒップホップ、エレクトロニカやラテンなど、様々なジャンルの音楽を取り入れたミクスチャー・ロックを構築する。 ヒップホップMCZEEBRAとの共演で日本語ヒップホップをメジャーシーンに知らしめ、2000年以降のJ-POPシーンにおけるラップ・ミュージック、ヒップホップの人気に大きく影響したバンドである。(引用)

《オルタナティブ、パンクロック、ハードコアパンク、ヒップホップ、エレクトロニカやラテンなど、様々なジャンルの音楽を取り入れたミクスチャー・ロックを構築する》
なんじゃこれ(笑)

<ロック>もオヤジがしらん間に、ずいぶんゴタイソーなモンになったのね。

こういう風に“分類を細分化”したことが、<音楽>が複雑になったことを、“意味しない”ワケ。

<ロック>は<ロック>だぜ。

なんかこのNHKの番組では、<歌詞>が問題になってるようなワケ。

すなわち<歌詞>というのは、<詩>であり、なによりも<言葉>でしょうが。
しかし<音楽>における<詩=歌詞>というのは、文字で書かれた<詩>とは、ちがうワケ。

すなわち、それは<声>なワケ。

“だから”、<音楽>について“考えることがあるなら”(レトリック!)、<ロック>とグールドのバッハ演奏(キース・ジャレットの“トリオ”でもよい)の<比較>においてしか、考えられない、ワケ。<注>

つまり《オルタナティブ、パンクロック、ハードコアパンク、ヒップホップ、エレクトロニカやラテン》だけじゃ、ダメなんよ。

<ヒップポップ>の真似して、“日本語で”ヒップポップしててもダメなんよ。


というよーなことを考えるまでもなかった。

この降谷建志というひとの昨夜のNHK番組での“発言”の、“内容”と“言葉”と“話し方”と“表情”と“声”とで、それがわかってしまった。

これは(このひとは)、ロックではない。
もちろん、これは、<音楽>ではない。

会場の“大学生?”の降谷建志への“質問”というのにも、あきれ果てた。
そこには、なんの<質問>もないからである。
つまり彼らには“他者に聞きたいこと”がないのである。
“ミュージシャンとファン”のうるわしき予定調和(ああ愚劣の花園、ニッポン)

それにしても“現在の大学生?”というのは、どうしてこうも知性が欠如していて平気なのか!

知性のないひとには、<ロック>をやることも“鑑賞する”ことも不可能である。

この番組を(あきれて呆然と見ているとき)、寝ていた妻が起きてきたので、自分の神経が正常か否かを判断するために、この番組を妻にも見てもらった。

“妻の感想”もぼくと同じであった(信じられないほど愚劣!)
しかし、このことは、ぼくの感性の正統性を証明しはしない。

すなわち、夫婦揃って(仲良く)気が狂っていることもありうるからである。



この番組の主催者である、佐野元春とは何ものであろうか?

とても”古い”ひとなので、ぼくもその<名>知っているが、いちども”聴きたい”と思ったことがない。

昨夜の番組でも、このひとは、大学教授のように坐っている。

”大学教授のように坐っている”ひとは、<ロック>ではない(笑)

ならば、<POP>であろうか?

いやいや、<音楽>では、ないのである。

願わくは、みなさん、音楽を聴こう!






<注>

不破利晴ブログがブックマークしているので読んだ、“中村の考え”というブログから引用したい。
この中村というひとがどういうひとか知らないし、このブログは最近更新されていない。
だが、このひとがミュージシャンでありジャズ・ピアノを教えているひとであり、<音楽>について考えているひとであることは、ブログを読めばわかる。

なによりも以下の引用部分を読めば;

《曲を知る、ということはどういうことなのか???
曲のコード進行を覚えることなのか???メロディーを覚えることなのか???
歌詞を覚えることなのか??
勿論それら全て、曲を知る、ことの一つだ。
だが、本当にそれで知ったことになるのか??
コード進行など、楽曲の本質ではなく、表面の一部分であり、場合によっては音楽を奏でる上において何の意味も持たない場合も数多い。
少なくとも、僕のトリオに、コードを覚えているだけでは参加することは出来ない。
キースジャレットのトリオにおいては、メンバーみんな「知っている」曲を演奏しているのだが、ゲーリーピーコックとキースジャレットは「しばしば」全く違うコードを弾いている。
知るということと、覚える、ということは少し違うのだ。》
(以上引用)


《キース・ジャレットのトリオにおいては、メンバーみんな「知っている」曲を演奏しているのだが、ゲーリー・ピーコックとキース・ジャレットは「しばしば」全く違うコードを弾いている》





いったいなにがいいたいの?

2010-02-25 12:06:55 | 日記

みなさん!

毎日、毎日、わけのわからない言葉がとびかっている。

いったい大新聞コラムというのは、愚劣な言葉の“見本”を掲げるために存在しているのか。

いったいいつから、“メディア”は、気のきいたふうな引用とレトリックで、まったく無意味なことやデタラメだけを作文するだけのひとたちで占拠されてしまったのか。

新聞社には、デタラメな文章を書くテクニックを伝授する“文章読本(マニュアル)”が備え付けてあるらしい。

はなはだ残念なことだが、<ある時代の言葉>は、それを読まなくても、見なくても、“メディア”にリードされていくのだ。

もちろん、“いつの時代でも”、大衆に受け入れられやすい言葉は、“通俗”であった。
歴史を潜り抜け、現在まで生き延びた言葉は、すべてそのような多数の蒙昧を切り裂く言葉である。

ぼくは、そのような言葉だけを読んでいればいいのだが、ぼくは自分の人生で“考えること”に気づいた端緒に、サルトルというひとの<状況(シチュアシオン)>という概念=態度に触れたのだ。
また吉本隆明は、<情況>と言った。

すなわち<言葉>は、状況=情況の“なかでしか”発せられない。

さて、今日の状況はいかなるものか。
もちろん話題は、“オリンピック”である。

昨日ぼくが“感想”を書いた“カーリング”女子日本チームについて、読売新聞は、ぼくとは対極的な“感想”を掲げている、引用する;

起承転結の例として、よく引かれる俗謡がある。〈大坂本町糸屋の娘/姉は十六、妹は十四/諸国大名は弓矢で殺す/糸屋の娘は目で殺す〉◆思わず引き寄せられるようなまなざしの魅力を「目で殺す」と言い表している。カーリングというスポーツの醍醐味は、一つにはこの競技者の眼光だろう◆石の滑る軌道を測る設計技師の目、微妙な回転を加えて手を離す熟練職人の目、祈る人の目――バンクーバー冬季五輪・カーリング女子の日本代表は惜しくも8位に終わったが、多くの人が作戦と技術の精緻を競う「目」の光を堪能したに違いない◆氷上の小さなごみに軌道が狂い、痛恨の失点をする場面もあった。〈美しく、冷酷で、無情〉とは『高い窓』のなかで探偵フィリップ・マーロウがチェスを評して語る言葉だが、“氷上のチェス”といわれるカーリングにも通じよう。眼光の消えた目から最後は悔し涙がこぼれた◆ときに呼吸をとめて石の行方を追いながら、初めて競技の面白さを知った子供たちもいたはずである。眼光に心を射抜かれたその子がいつか、日の丸を身につけて氷上に立つ日もあるだろう(引用)

いったいこの文章はなにを言っているのか;
① ここでの、《目で殺す》という比喩は適切か?
② もし“《目で殺す》という比喩”が適切でなければ、この文章はなりたたない
③ もし、カーリング女子日本代表の<目>で“殺す”ことができたなら、なぜ彼女等は“負けた”のであろうか?
④ 《氷上の小さなごみに軌道が狂う》のは、“日本”だけではなかった
⑤ なぜ“探偵フィリップ・マーロウ”がここで、出てくるのか?(爆)
⑥ 《眼光に心を射抜かれたその子》とは、いったい“どこの子”のことであろうか!
⑦ どうして《日の丸を身につけて氷上に立つ》ということが、そんなにも重要なことであろうか?


Next(笑)、天声人語;

▼先に滑った真央さんの曲は「仮面舞踏会」。ポーズをとって、曲が始まる前に4回まばたいた。仮面も緊張までは隠せない。しかし、勝負のトリプルアクセルが成功すると、社交界にデビューする少女の生気が戻った▼続いて登場した妍児さんは「007」。少し背伸びをしてボンドガールになりきり、妖(あや)しく、なまめかしく舞い切った。この競技、スポーツであり芸術であり、何よりショーなのだと得心した▼二人は、誕生日が20日違うだけの19歳で、国際大会での成績は伯仲している。両親と姉1人の家族構成も同じ、背格好までそっくりだ。妍児さんは、真央さんのことを「もう一人の私」と表現してもいる▼できすぎた背景と展開に彩られて、めったにないライバル物語がいよいよ佳境を迎える。その結末は期待の真綿にくるまれ、あすのフリー演技へと大切に運ばれた。フィクションでは再現しえない熱狂と鼓動が二人を待つだろう。だから、「4年に1度」はたまらない(引用)


ぼくは上記の演技を見ていない。
ここではじめて彼女らの“選曲”を知った;「仮面舞踏会」と「007」である(笑)
なんか古くありませんか?
《社交界にデビューする少女の生気》というのは、何のことだろう?(ぼくには分かりません、日本国に“社交界”があるんですか?)
《ボンドガール》???(知ってる? ぼくは知ってるが;笑)

さて奇怪な言葉がつづく;
《この競技、スポーツであり芸術であり、何よりショーなのだと得心した》
《できすぎた背景と展開に彩られて、めったにないライバル物語がいよいよ佳境を迎える》
《その結末は期待の真綿にくるまれ、あすのフリー演技へと大切に運ばれた》
《フィクションでは再現しえない熱狂と鼓動が二人を待つだろう。だから、「4年に1度」はたまらない》
(以上引用)


ぼくの“日本語感覚”では、
① スポーツと芸術とショーは、まったくちがう概念である(だからぜんぜん“得心”しない)
② 《できすぎた背景と展開》という言葉は、普通、否定的な場面に使用される(すなわち、そういうものに“彩られる”ことはない)
③ 《その結末は期待の真綿にくるまれ》の場合も、《真綿にくるまれ》という表現はネガティヴである
④ 《フィクションでは再現しえない熱狂と鼓動》というものは在りえる、が、これは<フィクション>というものを、“あなどる”表現である、天声人語氏は“フィクション”に感動したことがないのであろうか?
⑤ 《だから、「4年に1度」はたまらない》(爆)
この“だから”というのは、誤用(まちがった用い方)ではないだろうか。
“だから”というのは、それまでの文章の展開が正当である場合に、結論を導くために使用される。
すなわち“それまでの文章の展開が正当でない”場合には、使用できない。


こんなデタラメな文章を読まされては、《たまらない》。

しかも「4年に1度」ではないのである。

<毎日>である!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!