Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

<生>の哲学;ドゥルーズによるスピノザ

2010-02-14 13:49:10 | 日記


★ かくて<エチカ>が、<モラル>(道徳)にとって代わる。道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえるタイポロジー(類型理解)の方法である。道徳とは神の裁き(判断)であり、<審判>の体制にほかならないが、<エチカ>はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。価値の対立(道徳的善悪)に、生のありようそれ自体の質的な差異(<いい><わるい>)がとって代わるのである。

★ 道徳的な法とは、なすべきこと・あるべきこと(義務・本分・当為)であり、服従以外のなんの効果も、目的ももたない。そうした服従が必要不可欠の場合もあれば、その従うべき命令が十分根拠あるもっともなものである場合もあることだろうが、そんなことは問題ではない。問題は、こうした道徳的もしくは社会的な法が私たちになんら認識をもたらさず、何も理解させてくれないということだ。最悪の場合には、それは認識の形成そのものを妨げる(圧制者の法)。最善の場合でも、法はただたんに認識を準備し、それを可能ならしめるにすぎない(アブラハムの法・キリストの法)。この両極端の中間では一般に法は、その生のありようゆえに認識するだけの力をもたないひとびとのもとで、認識の不足を補う役割を果たしている(モーセの法)。だが、いずれにしても認識と道徳とでは、<命令>に対する<服従>の関係と<認識されるもの(真理)>に対する<認識>の関係とでは、そこに本性上のちがいがあることはおおうべくもない。

★ <生の倫理 エチカ>と<道徳 モラル>とが、ただ解釈のうえで相違するだけで同じ教訓を語っているにすぎないとすれば、この両者の区別はたんなる理論上のものでしかないことになるだろう。だが事実はそうではない。スピノザはその全著作をつうじて、たえず三種類の人物を告発しつづけている。(略)奴隷(隷属者)と暴君(圧制者)と聖職者と・・・・・・まさに三位一体となった道徳の精神。エピクロス、ルクレチウス以来、これほどみごとに隷属者と圧制者のあいだの深い暗黙のきずなを示した者はいなかった。「君主制の最大の秘密、最も深い関心事は、ひとびとを錯誤のうちに置き、恐怖心に宗教の美名を着せて彼らを抑えるのに利用し、彼らがあたかもそれが救いであるかのように自身の隷属をもとめて闘うようにさせるところにある」(スピノザ『神学・政治論』序文)

★ まさしくスピノザには「生」の哲学がある。文字通りそれはこの私たちを生から切り離すいっさいのものを、私たちの意識の制約や錯覚と結びついて生に敵対するいっさいの超越的価値を告発しているからである。私たちの生は、善悪、功罪や、罪とその贖いといった概念によって毒されている。生を毒するもの、それは憎しみであり、その憎しみが反転して自己のうえに向けられた罪責感である。

★ 真の国家(共同社会)は国民に、褒賞への希望や財産の安全よりも、自由への愛を提供するものなのだ。なぜなら「善行の褒賞は自由人に対してではなく、隷属者に対してこそ与えられるからである」(スピノザ『国家論』)。スピノザは、悲しみの受動的感情にはよいところもあると考えるひとびとには属していない。彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。私たちは生きていない。生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えている。生をあげて私たちは、死を礼賛しているにすぎないのだと。

<ジル・ドゥルーズ;『スピノザ 実践の哲学』(平凡社ライブラリー2002)>





自殺率について;月に、吠える

2010-02-14 09:10:43 | 日記


ここで、いま目にした三つの発言を取り上げ、考えてみたい。

① 天声人語より・外山滋比古発言;

自慢話にならない限り、長老の人生論は聴くに値する。どんな人生であれ、一つをほぼやり遂げた事実が言葉に重みを与える。80近くまで生きた江戸時代の俳人滝瓢水(ひょうすい)も、教訓めいた句を多く残した▼〈浜までは海女も蓑着る時雨かな〉は、いよいよとなるまでは最善を心がけよ、といった意味らしい。評論家の外山(とやま)滋比古(しげひこ)さんが、近著『マイナスのプラス』(講談社)でこの句を引いて、「どうせ」の思考にクギを刺している▼「最後の最後まで、生きるために力をつくすのが美しい……浜まで身を大切にする人は、海に入ってからもいい働きをする」。86歳の外山さんは、「どうせ××だから」との判断は人生を小さくすると戒め、逆境や失敗を糧にする生き方にエールを送る。マイナス先行の勧めである


② 天声人語より・加賀乙彦発言;

相通じる発言を本紙で目にした。「こうでなければ幸せになれない、という思い込みは捨てるべきです」。『不幸な国の幸福論』(集英社新書)を書いた作家の加賀乙彦(おとひこ)さんだ▼日本人は他の目を気にし、世間のいう「幸福行き」のレールを外れまいとする。勢い、個は育たず、子どもは考える力を奪われるとの見方だ。精神科医でもある80歳が求めるのは、幸福の形を決めつけないしなやかな精神。そして、挫折も幸せの要件だと説く。年長の識者2人が、期せずして同じ助言に達したのが面白い▼バンクーバーからの映像には、準備を尽くして「浜」に立つ選手たちがいる。冬季五輪の開会式に目を奪われながら、彼らを待つ栄光と、その何倍もの挫折に思いをはせた。


③ 内田樹ブログ・“日本の高い自殺率についてドイツの雑誌から寄稿を依頼されて書いた文章”、この文章の結論部分は以下の通り;

☆とりあえずそれが仏教思想や武士道とほとんど無関係な変化であるということは言えると思う。
もう一つ言えることがあるとしたら、それはバブル崩壊以降、日本社会はゆっくりと非活動的なものになりつつあるということである
社会が安定的であったり、非活動的であったりするだけで私たちは自殺したいほど不幸になるわけではない。けれども、日本人の場合、消費文化の亢進と、グローバリゼーションの結果、伝統的な地域共同体と血縁共同体はほぼ解体し尽くされた。だから、日本人のもっとも弱い階層は、単に経済的に貧しいというだけでなく、セーフティネットとして機能するようなどのような互恵的・互酬的な集団にも属せず、「根」を失ったまま浮遊している。

☆ 日本社会は流動性を失って、硬直化を始めている。強者たちは連合して既得権を死守し、一方、弱者は分断され、原子化した状態で、階層下位に釘付けにされている。おそらくそのような状況の中で、特定の社会集団(若く、貧しく、孤立した人々)の生命力が衰微しつつあるのだと思う。
この否定的状況に対して講じることのできる対抗策は存在するのだろうか。

☆ いずれにせよ、社会成員たちの相互支援以外に私たちの社会を「生きるに値する」ものにする確実なソリューションは存在しない。
日本の新しい総理大臣は先日のその所信表明演説で「友愛」を基盤とする国作りを提言した。為政者が「友愛」について語るのは、日本の政治史上では珍しい事件である。
為政者が「何か」が必要だと説いたときには、それはその社会においてもっとも欠如しているものであると推理して過たない。たぶん、いまの日本にいちばん足りないのは「友愛」なのである。それがわが国の高い自殺率を説明するために私が提示する暫定的な仮説である。


さて以上の引用を踏まえ、なにか言うことがあるだろうか?

ぼくは加賀氏の《「こうでなければ幸せになれない、という思い込みは捨てるべきです」》という発言を支持する。

しかし“こうでなければ幸せになれない、という思い込み”という<思い込み>の内容が問題である。

すなわち、いまぼくたちが、<何を>思い込んでいるのかについての、<認識>が必要である。
<それ>を、ぼくは本を読むことで、“考えて”いるし、このブログでも<書いて>いるつもりである。

つまり“何かを思い込んでいる”という事態は、ある<部分>を思い込んでいるのではなくて、<すべて>を思い込んでいるということである。

また、<思い込む>ということは、<虚偽認識>のことである。
つまり自分が生きていく過程で経験することすべての認識が、<虚偽>であるということである。

非常に“シビア”なことであるが、実は、虚偽と虚偽でないものの<中間>(グレイゾーン)は論理的には存在しない。

これは、“恐ろしい”ことである。
つまりそういう“意味”では、“虚偽でない認識”というものは、ほとんど存在しない。

その<ほとんど存在しない>ものを“求める(思考しようとする)”ことが、たとえば先日引用したフーコーの“パレーシア”というような<態度(生き方)>なのだと思う。
ドゥルーズは、“それ”を、フーコーにおける<熱情>と呼んだ。

“哲学者”だろうと、“社会学者”だろうと、“文学者”だろうと、ぼくたちが彼らを“読みたい”のは、この<熱情>に触れたいからである。

すなわち、ぼくたち<凡人>にも、それらが“参考”になることがあるかもしれない(笑)からであり、彼らが“思い込み”から離脱しようとする<思考と熱情>に触発され、鼓舞される可能性が、まったくなくはない(笑)からである。


さて、内田樹教授の<友愛>について述べると、このブログは長くなりすぎる(爆)

《為政者が「何か」が必要だと説いたときには、それはその社会においてもっとも欠如しているものであると推理して過たない。たぶん、いまの日本にいちばん足りないのは「友愛」なのである》


そうだよね、内田さん!

しかし<友愛>は、語るものではなく、実行(実現)するものである。

たしかにぼくにも、<友愛>は欠けている。

しかし<友愛>は、相互作用であって、“ぼく”から一方的に発現するわけには、いかない。

だからぼくは、この“東京の空”に向かって、<東京でロリータを読む>ことを呼びかけるのみである。

つまり、満月の夜には、ひとりで吠える、のである。


ぼくは、<犬年>の生れである。


或る時わたしは帰ってくるだろう
やせて雨にぬれた犬をつれて    吉岡実


この詩は、ぼくの目の前の壁で、今日も古びてゆく。



そういえば、昨夜、冬季オリンピック開会式に飽きて、「イギリス人の患者」をテレヴィで見たよ。

あの患者が最後まで手放さない<ヘロドトスの本>、

それは<聖書ではない>のだ。

それは”思い出の断片”を挟み込んだ<歴史の本>だ。

つまり”思い出の断片”は、<具体物>としてあった。

もちろん、砂漠の砂も、そこにまぎれ込んでいた。