★ かくて<エチカ>が、<モラル>(道徳)にとって代わる。道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえるタイポロジー(類型理解)の方法である。道徳とは神の裁き(判断)であり、<審判>の体制にほかならないが、<エチカ>はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。価値の対立(道徳的善悪)に、生のありようそれ自体の質的な差異(<いい><わるい>)がとって代わるのである。
★ 道徳的な法とは、なすべきこと・あるべきこと(義務・本分・当為)であり、服従以外のなんの効果も、目的ももたない。そうした服従が必要不可欠の場合もあれば、その従うべき命令が十分根拠あるもっともなものである場合もあることだろうが、そんなことは問題ではない。問題は、こうした道徳的もしくは社会的な法が私たちになんら認識をもたらさず、何も理解させてくれないということだ。最悪の場合には、それは認識の形成そのものを妨げる(圧制者の法)。最善の場合でも、法はただたんに認識を準備し、それを可能ならしめるにすぎない(アブラハムの法・キリストの法)。この両極端の中間では一般に法は、その生のありようゆえに認識するだけの力をもたないひとびとのもとで、認識の不足を補う役割を果たしている(モーセの法)。だが、いずれにしても認識と道徳とでは、<命令>に対する<服従>の関係と<認識されるもの(真理)>に対する<認識>の関係とでは、そこに本性上のちがいがあることはおおうべくもない。
★ <生の倫理 エチカ>と<道徳 モラル>とが、ただ解釈のうえで相違するだけで同じ教訓を語っているにすぎないとすれば、この両者の区別はたんなる理論上のものでしかないことになるだろう。だが事実はそうではない。スピノザはその全著作をつうじて、たえず三種類の人物を告発しつづけている。(略)奴隷(隷属者)と暴君(圧制者)と聖職者と・・・・・・まさに三位一体となった道徳の精神。エピクロス、ルクレチウス以来、これほどみごとに隷属者と圧制者のあいだの深い暗黙のきずなを示した者はいなかった。「君主制の最大の秘密、最も深い関心事は、ひとびとを錯誤のうちに置き、恐怖心に宗教の美名を着せて彼らを抑えるのに利用し、彼らがあたかもそれが救いであるかのように自身の隷属をもとめて闘うようにさせるところにある」(スピノザ『神学・政治論』序文)
★ まさしくスピノザには「生」の哲学がある。文字通りそれはこの私たちを生から切り離すいっさいのものを、私たちの意識の制約や錯覚と結びついて生に敵対するいっさいの超越的価値を告発しているからである。私たちの生は、善悪、功罪や、罪とその贖いといった概念によって毒されている。生を毒するもの、それは憎しみであり、その憎しみが反転して自己のうえに向けられた罪責感である。
★ 真の国家(共同社会)は国民に、褒賞への希望や財産の安全よりも、自由への愛を提供するものなのだ。なぜなら「善行の褒賞は自由人に対してではなく、隷属者に対してこそ与えられるからである」(スピノザ『国家論』)。スピノザは、悲しみの受動的感情にはよいところもあると考えるひとびとには属していない。彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。私たちは生きていない。生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えている。生をあげて私たちは、死を礼賛しているにすぎないのだと。
<ジル・ドゥルーズ;『スピノザ 実践の哲学』(平凡社ライブラリー2002)>