Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ハードボイルドな探究者;今日の読書から-2冊の本からの引用

2010-02-24 19:56:33 | 日記


★ それでは『ブレードランナー』と『エンゼル・ハート』には、一体何が共通しているというのだろうか。どちらの映画も、記憶と、撹乱された人格の同一性(アイデンティティ)を扱っている。主人公であるハードボイルドな探究者が、あることを追及するために派遣されるのだが、その探索の結果は、彼自身が、その探究の対象に、そもそものはじめから含み込まれていたということが明らかになるのである。

★ 『エンゼル・ハート』では、彼が探しもとめていた死んだ歌手は、彼自身にほかならないことを突きとめる。『ブレードランナー』では、彼は、2012年のLAを逃げ回るレプリカントの一団を追いかけている。彼が任務を遂げようというときに、彼は自分自身がレプリカントであることを告げられる。どちらの場合も、探究の結果は、神秘的で、全能の機関(エージェンシー)によって支配されていた自己同一性が、根本から掘り崩されることに終わるのである。そのエージェンシーとは、前者では、悪魔それ自身であり、後者では、自分がレプリカントであることを知らない、自分のことを人間であると誤認したレプリカントの製作に成功するタイレル・コーポレーションである。

★ これらの映画が共通して描いている世界では、企業体<資本>がわれわれの存在の最も内密な幻想の核にまで入り込み、それを支配している。われわれの持っている特徴の何ひとつとしてわれわれのものではない。われわれの記憶や幻想さえも、人工的に植えつけられたものである。(略)<資本>と<知>のこのような融合は、新しいタイプのプロレタリアートを生む。それは、いってみれば、私的な抵抗のための最後のポケットさえ奪われた絶対的プロレタリアートである。

★ デッカードがレイチェル(ショーン・ヤング)に対して、彼女の最も内密な、誰とも共有していないはずの子供のころの思い出を引用することで、彼女がレプリカントであると証明したあとで、キャメラは、彼の個人的な神話的要素(ピアノのうえの古い子供時代の写真、一角獣の夢の記憶)をしばらく眺め渡す。それは、これらのものも作られたものであって、「真の」記憶や夢ではないことを、明らかに含意している。それだから、レイチェルが、彼に、レプリカント検査を受けたのかを尋ねるとき、その問いは不吉な予感のする響を伴っていたのだ。

★ 『ブレードランナー』や『エンゼル・ハート』の宇宙では、思い出すことは比較を絶するほどに根底的な何ものかを指し示してしまう。それは、主人公の象徴的同一性のまったき喪失である。彼は自分がそうであると考えていたものではなくて、別の何か-誰かであると想定せざるをえなくなる。この理由から、『ブレードランナー』の「ディレクターズ・カット」で、デッカードの画面にかぶせる声なしで済ませたことは、十分に正当化できる。なぜなら、ノワールの宇宙では、画面にかぶさるナレーションは、主体の経験の大文字の<他者>への、間主観的な象徴的伝統の領野への統合の実現を表わすものであるからだ。

<スラヴォイ・ジジェク;『否定的なもののもとへの滞留-カント、ヘーゲル、イデオロギー批判』(ちくま学芸文庫2006)>



★ 1800年に作成されたフランスの旅券は、ヘーゲルの容姿をつぎのように記述している。「年齢・30歳。身長・5ピエ2プース(約167センチメートル)。頭髪および眉毛・褐色。目・灰色。鼻の高さ・並み。口の大きさ・並み。顎・丸味を帯びている。額の大きさ・中ぐらい。顔の形・卵型」。彼の門弟たち自身が認めているところからしても、彼の風貌にはなんら魅力的なところも、堂々としたところもなく、ホートーの言によれば、「顔色は蒼ざめ、目鼻立ちは生気がなく、だらりとしていて、まるでしびれてしまったとでもいうような印象を与えた」。また、椅子に坐ったときの姿勢は締りがなく、腰かけるときも、疲れたような様子でどかりと倒れるように坐った。顔はうつむきかげんで、話す言葉はいつも淀みがちなうえに、たえず軽い咳払いで中断され、声は籠った感じで、ひどいシュワーベン訛であった。講義のとき以外は、自分の学説のいろいろな点について質問されるのを好まず、漠然とした身振りでしか答えないか、自分の著書を参照するようにと指示するだけであった。しばしば彼は学問的な話題よりも、教養のないブルジョワ連中とのつきあいを選び、彼らとホイストに興ずるのを好んだ。他方、講義の草稿を準備したり著書を書いたりするときには、幾晩も幾晩もぶっ通しで石油ランプの明かりのもとで過ごすのであった。

<ルネ・セロー;『ヘーゲル哲学』(白水社・文庫クセジュ1973)>





“かったるい”ひと;あるいは《風を追うがごとし》

2010-02-24 14:53:09 | 日記


このオリンピックでは、“カーリング”を見ていた。
今朝は明け方まで、対スェーデン戦につきあったが、“日本”が負けた。

なんかがっかりして寝たのである(今日は休みなのでソウユーことが可能だった)

だが、そもそもぼくらは、オリンピックで何を見いているのであろうか、何が見たいのであろうか?

端的に言って、日本選手にメダルを取ってほしいと思っているのである。
きわめて“シンプル”である(笑)

そういうこと(気持)から、自分もまぬがれていないことを“反省”するには、よい機会である。

さらにぼくが日本のカーリング・チームを観察していて(彼女らの“顔(表情)”が観察できるだけでなく、彼女らの声や、“話し声”まで聞けた)得た結論はつぎの通り;

どんな“競技”でも、負けるのは、“人間ができてないから”である(笑)

さて、こう定義した上で、あわてて補足したい。

つまり、まず、“負けてもよい”のである(爆)

おなじくらいの<人間度>(人間の出来上がり度)であっても、そのときの<運>で勝ったり、負けたりするからである。

しかしもし<運>でない、<実力>の差というものがあるなら、それは、その選手の(個人であればそのひとの、団体競技であればその人自身と、その人と他の選手の関係の)“成熟度”(ぼくはこの言葉ではなく<リアリティ>という言葉を使いたいが)が問題である。

つまりカーリング日本女子団は、“カワイイ”(顔や話し方や声が)のであるが、ずっと彼女等を見ていると(聴いていると)、飽きるのである。

すなわち彼女等は、<単調>(ワンパターン)である(笑)

すなわち<単調でないこと>が、人間としての成熟度であり、その多様性(複雑さの深度)が、“個性の魅力”なのである。

“カワイイだけじゃ、ダメかしら?”
ダメである(爆)


とつぜん話題が転換する。

ツナミンという人が“諸々日記”というブログに引用している“鏡響子”というひとである。
このひとは、前にブログで自分を“ブスであるかのように”書いているが、お会いすると、決してそのヨーなことはないのであった(ぼくの“タイプ”であるかどうかは別である;笑)

しかしぼくは彼女に“ブロガー”として会ったので、あくまで彼女の<言説>を問題にしたい。

ツナミン引用の文章を再引用して、“批判”したい;

☆ このような「生存を脅かされることへの恐怖・嫌悪感」から戦争に反対しても、9条を守り抜くことはできない、と私は思う。なぜなら、もし「自分の生存が脅かされることへの恐怖・嫌悪」が、戦争反対の第一義的な理由なら、「生存を脅かされないために自衛の武器」を持つことは、いとも簡単に許されてしまうのではないか、と思うからである。そして、生存を脅かされたくない、という人間のエゴは、武器を持つ喜びと、底のところでつながっていると私は思うのである。そして、ゲバ棒が必要最低限の自衛の道具だったのに、警官を殴る攻撃用の武器にすぐに変わったことを思うと、「最低限の自衛のための自衛隊」などというものが本当に自衛のためにだけ存在しうるものなのか、その不確かさを思わずにいられないのである。
☆ だが、「やられてもやりかえさない」という「非暴力」を貫くのに、「どうしてもやりかえしたくなる」自分の欲望を捨てさせうる思想・価値なくして、その態度を貫くことが可能なのかどうかは謎である。いうまでもなく、現代の日本には、自我の欲望を捨てさせるような価値・思想は不在である。だが、「自分の生存権を脅かされないこと」にのみ、平和の主眼を見出す限り、人間はゲバ棒をもたずにはいられない。今の日本の平和は、そういうゲバ棒を持たざるを得ないタイプの平和である。自衛隊が生まれてきたのは憲法違反だったかもしれないが、国民のほうに、9条を支える思想・価値がなかったことを思えば当然の帰結とも思える。あれから60年経った今、9条の価値を守り、貫くこと、の矛盾と困難さを思うのである。
(以上、鏡響子言説から引用)


さて、ここではどうやら“憲法第9条”が論じられている。
あるいは、さらに、“武器を持つこと”とか“非暴力の謎”!が論じられている。

ぼくの感想は、ひとこと、“かったるい”というものである。

この女(ひと)は、“カワイク”ないのだが(カワイクしたくないのだが)、それは結構なことなのだが(笑)、“かったるい”のである。

なぜ“かったるく”(ぼくには)感じられるのだろうか?(しばし熟考)

結局、このひとは、何を“言いたい”のであろうか!(爆3乗!)

いやいや、ぼくは自分のブログもそうだが、“何事も結論を述べなければならない”という<立場>ではありません。

人間、“みんな迷って大きくなった”のである、から。

しかしまず、なんで“ゲバ棒”なんですか?

なんか“ゲバ棒世代”に偏見がおありでは?
ぼくの“世代”には、たしかに“ゲバ棒を振り回した”方々もおられるが(ぼくが知っていたひとは、高校生で振り回したのでぼくより10歳くらい年下でも可能だったようだが)、ぼく自身はゲバ棒を手に取ったことさえ、ない。

しかし、それは、“反権力や反戦である自分が、ゲバ棒をもつことは、暴力に加担することであるのか?”などという自省によったわけではない。

たんに、そういうことをすると、怪我をしたり、就職ができなくなる、からである。
(怪我をするというのは、主に自分が怪我をすることであるが、相手も怪我をする可能性もある、またゲバ棒は“警官”に対してのみ用いられたのではなく“仲間”に対しても用いられた)

だから、“ゲバ棒”についての“一般論”とか、それを“暴力の比喩”とするような思考は(それが“思考”と呼べるか否かはほっといて)バカげているし、“かったるい”。

たしかにぼく自身も、なにかを<比喩>としたり、“一般論で語ってしまう”ことがある。
そのことは反省しよう。

また<暴力と非暴力>については、なにひとつ“明らか”ではないので、この問題が考えられ、論じられることは、良いことだと考える。

またこの暴力の問題のみではなく、なにかを語る(書く)ときに、そこに、どこまで“自分があるか”(<主体>はあるか)という、古典的な問題は、確固として<ある>のだ。

もちろん、もっと観念的でなく言うならば、
鏡響子よ、君は、君の<友人>が、ゲバ棒を持ったとき、なんと“言える”のか?
また“ぼくの隣の叔父さんがぼくの家族を殺しに来た”(旧ユーゴでの事態)時、君はどうするのか(このことを昔ぼくはDoblogに書いた、鏡響子はそれをどう読んだか?)

あるいは、自分の生まれた土地を家ごと家族ごと奪われて、見知らぬ土地のバラックに隔離さたら、君は、どうするのか?

《あれから60年経った今、9条の価値を守り、貫くこと、の矛盾と困難さを思うのである》(引用)

たしかに、ぼくらは、いま、このような言葉しか発し得ない。

しかしこの<思う>ことにも、複雑さと深度(深さ)が必用である。

鏡響子の言説をぼくが、“疑う”のは、彼女の“不徹底さ”についてではない。

彼女の“言葉と裏腹な奇妙な確信”を疑う。

彼女は、何かを“思い込んでいる”。

ぼくが鏡響子に問いたいのは、<彼女自身の欲望>についてである。

これは、すべての<言説>について、ぼくが<問う>ことである。
(ブログであろうと、ツイッターであろうと、秘密の絵日記であろうと、ラヴレターbyケータイであろうと)

ぼくはここで、鏡響子を引用している“ツナミン”については、ひとことも述べない。

述べる必用がないからである(笑)





<補足>

昨日、臨時収入があったので、マルグリット・デュラス『戦争ノート』(河出書房新社2008)を買った。

このタイトルをみると、デュラスが“戦争について”書いたもののように思うが、そうではなくこの本は、デュラス死後に刊行された、彼女の作家デビュー前の“ノート”4冊を収録したものである。

すなわち、“その後”、彼女の小説へと発展する“草稿”的文章が収められている。
(最初に『太平洋の防波堤』“草稿”がある)

この4冊のノートの表紙や手書きの(当然!)ページ写真もある(彼女の“イラスト”もある)

あっさり言って、ぼくにとってデュラスは(あまり読んでないが)、あらゆる女性の書き手(小説家であろうとそうでなかろうと、“日本人”であろうとそうでなかろうと)、いまのところいちばん好きな<女性>である。

しかし、あまり彼女の小説を系統だって読んできたのではないし、彼女のつくった映画も見ていないし、彼女の人生の具体性についても知らないので、ぼくの愛が誤解である可能性もある(彼女は“ユダヤ人好き”なので、“反パレスチナ”ではなかったか?)

この本の訳者解説や、本文の始めを読んで、彼女が旧約聖書を生涯愛していたことを知った。

彼女の葬儀の最後には彼女がことに好きだった「集会の書」の一節が読みあげられたという;

《空の(くうの)空なるかな、万事(みな)空にして風を追うがごとし》


こういう<言葉>ひとつでも、いかようにも解釈可能である。
この<言葉>が好きな人自身にとってさえ、その解釈は“多義的”であり、生涯の時期によって変わりうる。

ぼくは、《風を追うがごとし》という言葉が好きだ。





死ぬほどくだらない音楽

2010-02-24 12:21:07 | 日記


いったいいつのころからか忘れたが、テレビで“番組のテーマ曲”がつくようになった。

たとえば、このオリンピックのNHK-BSでのテーマ曲である。

ぼくはこういう“音楽”を、“死ぬほどくだらない音楽”と認定する。
だれが歌っているかしらないが、曲、歌詞、歌唱ともに、死ぬほどくだらないと感じる。

これらの曲は、ようするに、みな同じである。

なぜ“白い恋人たち”を流さないのか。

昔の冬季オリンピックの曲を流したら、2010年のオリンピックであることが、証明できないのであろうか。

たしかに、現在連日、ぼくらは、2010年のバンクーバー・オリンピックを見ているらしいが、すぐに、そのオリンピックが、“いつ・どこで”あったのかを、忘れるのである。

もちろんこのような“認知症”は、オリンピックに限らない。

ぼくらには、それぞれ、自分が経験したこととしなかったことがあり、しかも、自分が経験したことを忘れ果てるのである。

“死ぬほどくだらない音楽”の対極にある音楽は、けっこうたくさんあるが、たとえば<ビートルズ>という。

今日の天声人語は、なぜか今日、ビートルズについて書いている、引用する;

ビートルズの解散から40年になる。メンバー個々の活動が目立ち始めたのは1968年だった。別れを意識した4人は69年夏、有終の美を飾るべく最後のアルバム録音に臨む。「アビーロード」だ▼広報担当の著作によると、プロデューサーのジョージ・マーティンはこの傑作をこう評した。「A面はジョン、B面はポールと僕が望むようになった」。それは、ジョン・レノンに始まりポール・マッカートニーで終わった、とも語られるバンドの歴史に重なる▼先ごろ、アルバムが制作されたロンドン北部のスタジオが売りに出ると報じられた。ところが「売らないで」の声がわき起こり、所有者のEMIグループは売却を断念したと伝えられる▼ビートルズの曲の9割がここで録音された。4人が横断歩道を渡ってスタジオを去る有名なジャケット写真は、解散を暗示するものと話題になった。周りにはファンの姿が絶えない観光地である。資金難の会社は巨万のブランド価値に注目したが、「史跡」とあっては換金しづらい▼希代の感性が生み出した自在の曲想は、この場で形を整え、人類が永久に楽しめる「音の世界遺産」になった。4人の活動は実質7年。彼らの才能、友情、不和のすべてを見届けて、スタジオはなおそこにある▼ゆかりの地にも染みわたる伝説の重さ。最後のシングルにどうにか間に合ったビートルズ世代の端くれとしても、感慨深い。「どれだけ大切な資産なのか痛感した」という関係者の言を信じよう。願わくはレット・イット・ビー、あるがままに。(引用終わり)


この文章は、《最後のシングルにどうにか間に合ったビートルズ世代の端くれ》さんが書いたのである。

では、<ビートルズをリアルタイムで(その新曲をまちかねて)聴いてきた世代の端くれ>であるぼくは、上記に対してなにを言えばよいのか。

いや“その新曲をまちかねて”いたわけではなかった。
ひとつには、ビートルズの新曲は“やつぎばやに”出た。
もうひとつは、当時、ビートルズ以外の“新曲”に聴くべきものが、たくさんあった。

つまり、音楽が“リアルタイムで”たくさんあったのである。

それは、<現在>において、“それらの音楽が全部”ダウンロードできるとか、CDで買えることとは、まったく意味がちがう。

またそれは、音楽が“量的にたくさんある”ということとは、ちがう。

“同じでない音楽”が、たくさんあったからである。

上記引用文について、まず抗議する;

《それは、ジョン・レノンに始まりポール・マッカートニーで終わった、とも語られるバンドの歴史に重なる》

とは、何事であろうか?

ビートルズには、ジョージ・ハリスンもリンゴ・スターもいたのであり、その<音楽>の創出・演奏・録音には、その他のミュージシャンが係わっている。

だがそれだけではない、ビートルズとは、最後までジョン・レノンのバンドであった。
これは、ぼくのレノン贔屓で言っているのではない。

もし、ビートルズがポール・マッカートニーの<センス>だけのバンドだったら、あのビートルズは、存在し得ない。

それは、消えていった凡百のバンドと同じように、忘れ去られただろう。

すなわち、もしビートルズが、“現在において聴きうる”音楽であるなら、それは、ジョン・レノンという<感性>のリアリティにあり、そのリアリティにしかない。

「アビー・ロード」は、“ビートルズのアルバム”の中では、傑作ではない。
まずこのことを確認したい。

“レット・イット・ビー”という<世界観>は、けっしてすぐれた認識ではない。

それは、天声人語のように、<音楽>に没入したこと(狂ったこと)ことがない、たんなる鑑賞者(享受者)の世界観である。

自分の生活や人生の<かたわらに>、バックグラウンドとして音楽があればよい。

そういうひとの<世界認識>なのだ。

“アビーロード”がどうなろうと、どうでもよい。
ビートルズは“世界遺産”などでは、ない。

すべてのモノ、すべての音楽を、世界遺産にしてしまうような、感性が狂っているのだ。

すべてをランクづけ、“世界遺産”に登録して、安心している<精神=肉体>が、歴史を忘却させ、味噌と糞をゴタマゼにし、すべてを忘れさせる(すべてをなかったことの虚無に陥らせる)のだ。

<伝説>はいらない。

もしビートルズが、現在に生きるなら、いま、その曲とその楽器のリズムと彼らの声を聴け。

<音楽>は、今聴くことの、現在において<現前する>のだ。

そのほかに音楽は、どこにもない。

ビートルズとは、ぼくにとっては、ジョン・レノンの声である。