Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

海神;カンジとケンジ

2010-02-11 22:03:12 | 日記


★ 私の中に味の悪い不安と腹立ちがある。いや私が路地について忠実に言おうとすると、私が今に至っている過程も、路地が今に至っている過程もここにもあそこにもある遠近法どおりにわかるのに、酒に酔いしれて、地に倒れている男のようにことごとく脈絡を欠き、腹の中で海がうねっているように不安定になる。いつかそんな小説を書こうと思った。それは私が初めて長編小説を書き出す前に考えていたもので、女房子供に逃げられた評論家という設定の長編だった。小説を書こうとする小説家の小説ではなく、綿密なテキスト校訂と注釈をやる評論家の小説で、テキストはこの世にまったく存在しない架空の武勲詩だった。

★ <海の神が海から這い上がり岩場に身をよこたえていた>という冒頭を持つその武勲詩は半神半魚の大きな裸体の神が日の光の元に体をさらしているところから、その神が殺されて海が血でわきたち、地上には病気が蔓延するというのが第一章で、評論家はその第一章の後半で登場する血で汚れた海から生まれた醜く小さい者が町々をさすらい病気を治癒して歩く姿を、これ以上細密に注釈できぬほどに注釈を加えていくのだった。


★ その時も「ケンジ」と呼びかけられるまで4回湯船に入りもういい加減に湯気に当り眼がくらんでいた。見ると横につかっているのが完治だった。「おまえ、新宮のどこに住んどるんな?」と訊くので新宮には遊びに来たのだと言って立ち上がる私につられ、立ち上がった完治の肩に刺青がある。色の入っていないただ青だけの龍の刺青が両肩から背中に廻って尻の辺りまで来ている。
「どこで彫ったんな?」
私が訊くと、完治は湯舟のへりに子供のように股間をかくしもせずに座り、「どこで、と言うて、こんな新宮で彫り物出来るやつおるかい?」と私がまだカンジ・ケンジとからかわれていた路地の子供のままだと言うように、「大分かかっとるんやだ」と言う。

★ そのカンジが死んだのは最近の事だった。

★ 老婆の話から私は立ち上がって坂道をやってくる女の背丈から肉つきまで今眼にしているようにありありと想像出来ると思った。肥った顔の平べったい女で、老婆はその女を駅前のバス発着所で何度か見かけた事がある気がすると言った。完治は老婆の家に女を見せに来た以外に何の用があったわけではなかった。訊ねると一言二言口をきき黙っていると黙りつづける女に退屈したがさりとて完治と話をすればどうなるのか分かっているので老婆は口を閉ざし、人の家から帰る潮時を分からない二人がうっとうしいと心の中でつぶやいた。所在なく二人が座っているのを見て「あんたらもう来る時間と違う」と言うと、完治は「いや」とウスノロらしく答えたが女は気まずいのが分かったように帰ろうと立ちあがり、「おおきに有り難うございました。すみません」と何のつもりか調子をつけて礼を言い、外へ出、今度は夜道が危ないと思ったのか下に降りて山の頂までついた石段をのぼっていくと言う。

★ シンゴは、ほどなくもどり、路地の裏山は自分の眼で登って確かめてみると、下からあおぎみるのとは違って頂上からはどこもかしこも凡庸な風景で、自分にも完治が石でも投げて景色を波立ててみたいと思う気持が分かる気がすると、小林のオバがむくれるような訳のわからない事を言い、
「あの女、病気じゃだ」
と言って、老婆の顔をみつめた。
老婆はシンゴの眼をみつめて、その病気が何なのか知った。老婆は私にもその名を口に出さなかった。だが、それを口に出さずとも、路地の山に表れたそれが未来永劫に渡って病気の中の病気、苦しみの中の苦しみとしてあり、私はカンジ・ケンジと仇名された者として、私のかたわれであるウスノロで頓馬な完治がその女が業病と呼ばれた病を患っていたからこそさがし出して来て恋を知った年少の者のようにはしゃぎ戯れ、治療しようと本能として動いたのだと思った。今さらながら完治が私が書く予定だった小説の中の、評論家がデッチ上げ綿密に校訂し注釈を加える武勲詩の、海神の血がたぎり腐った果てに生誕した賤しく醜い治療神に能うる限り似ているのに気づいたのだった。

★ 完治が死んだのは傷がいえその包帯が取れてすぐの事で、滅多に酒を飲まない男が深酒して眠り込んでいた駅のベンチから転がり落ち、耳から大量の血を流しての事だった。その日のうちに、完治のバラック建ての家は何人もの路地の男衆や市役所から派遣された路地の出の職員らの手によって縄をかけて引き倒され、そこにあった物一切合切たき火をたくように燃やされ、その煙が夕焼けの光に赤黒く染まって路地の方に流れ落ちてくる頃、路地の誰が見て来たのか、完治の体のいたるところが皮膚を破って血を流さぬようブラックジャックで殴られた跡が無数にあったと噂が流れた。完治は誰に殺されたのか分からない、いや殺されたのかどうかもブラックジャックの跡を見た者が見つからぬ今確証出来るものはないが、確かな事は、カンジ・ケンジの片割れである完治が死んで一月もたたぬうちに山を削り取る作業が始まった事だった。さらに確かな事は、海神が殺されて流した血で海があふれ、その腐臭の立つ海から生誕した治療神がまたも血を流して死に、再び腐臭が家々をおおい、辻辻はぬらぬらする腐った血でおおわれたという新しい章がその架空の武勲詩に加わり、主人公の評論家は腹の中の海が揺れて波立つように不安定なまま、それに更なる綿密な校訂と注釈を加えるという事である。

<中上健次;“海神”-『熊野集・火まつり』(小学館文庫、中上健次選集9)>




浅草紅団

2010-02-11 14:42:32 | 日記


ぼくは浅草に行ったことがない、ながいあいだ東京に住んでいるにもかかわらず。
これは偶然である(すなわち仕事で行く機会がなく、私生活でわざわざ行きたいと思ったことがなかった)

また、(全然関係ないが)、ぼくの母はぼくが幼児の時をのぞき、ぼくに“読むべき本”を指示したことがなかった。
ただし“例外”はあったのだ、前田愛『都市空間のなかの文学』を読んでいて、“その本”にめぐり合った;川端康成『浅草紅団』である。

たぶんぼくはこの本を40年以上前に読み、忘れていた。
川端康成という作家も、“若い頃(ぼくが)”、『雪国』は好きだったが、近年関心を持っていない。

さて、この前田愛の“劇場としての浅草”から引用しようとして困った。
“変換できない漢字”である。
ぼくは、普通のやり方で変換できない漢字“があった場合は、”IMEパッド“の”部首“で探しているのだが、その漢字の”部首“もわからない(笑)
ゆえに、“ひらがな”表記するので、許されよ。

★ しかし、弓子の変装がまきちらす曖昧さのみなもとは、彼女がアンドロギュヌス(両性具有)の少女として設定されているところにある。女の弓子はどことなく男っぽいし、明公に変身したときの弓子は、身ぶりや言葉のはしばしに少女らしい優しさをただよわせる。

今朝の明公の顔は――言問橋で見失つたのは彼であつたが、その時のよごれが洗われて、オペラの舞台の少年のやうに白い。その首の滑らかさを隠すのか、指を首筋で組み合せ、両肘に頬を埋めて、急ぎ足だった。
その肘に、小学生の草履袋のやうなものがぶら下がつてゐる。
「それお弁当かい。」
「お化粧道具さ」

  「私」が明公の案内で、早朝の浅草公園にたむろする浮浪者を見物に行く場面だが、化粧道具をぶらさげた首筋の白い明公の後ろ姿には、倒錯したエロティシズムが的確にとらえられている。


★ 弓子の曖昧さ、ないしは両義性をもっとも的確に要約しているのは、地下鉄食堂の塔屋で披露される半紙の落書きだ。弓子からのメッセージは、手習いのように格の正しいペン字でこうしたためられている。
 
  霞は朝薄く、夕に深し。
  霧は朝深く、夕に薄し。
  陽炎は消えて明るく、
  稲妻は消えて暗し。
  紅葉は峰より染め、
  花は麓より咲く。
  川音は昼静かに、夜騒がしく、
  海の音は昼騒がしく、夜静かなり。
  木の花は朝に開き、
  草の花は夕に開く。

★ アンドロギュヌスの聖性を帯びた美少女弓子。彼女と同様に変装好きな紅団の面々。浅草に出没する‘きっかい’、ポン引き、無頼の徒、売春婦の群。健全な市民から疎外されたかれらをぞんぶんに跳梁させている『浅草紅団』のアノミーそのものの世界は、震災の天譴(てんけん)に引きつづいて世界恐慌の波に洗われることになる1920年代の東京を裏返しにした陰画を見る思いがする。やや性急な物言いを許していただくなら、プロレタリア文学が夢想していた革命の設計図とはべつに、川端が垣間見た地下世界(アンダーワールド)の不逞な活力には、たいへん古風な世直しの幻想が託されていたかもしれないのである。

★ (弓子と春子の)このライヴァル同士が対決する場面は、『浅草紅団』ではついに書かれなかった余白の部分だが、その勝敗の結果はいうまでもない。私たちがまのあたりにしているのは、水の神話の地下水脈がほとんど枯れ果てようとしている浅草の風景だからである。今の浅草でいちばん展望が利くところは、おそらく花屋敷のなかにある「宇宙ロケット」だと思うが、この乗りものからも隅田川の水面を視界に収めることはもう難しくなっているのだ。

<前田愛;“劇場としての浅草”-『都市空間のなかの文学』>



弓子は<私は地震の娘です>と言う。
<地震>とは、関東大震災(1923年)の大地震のことである。
ぼくの母も、この年に生まれたのではなかったか。




Snapshot;Happy Birthday !

2010-02-11 12:08:23 | 日記


★ 今日は何の日?

“建国記念の日”(爆)
鳩山由紀夫さんの誕生日(1947年うまれ) ぼくと1歳ちがい(爆)


★ “建国記念の日”とは何か?

Wikipedia概説 ;
国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日から適用された。
他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、建国記念の日は「政令で定める日」と定めている。この規定に基づき、佐藤内閣が建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定め、「建国記念の日は、二月十一日」とした。2月11日という日付は、明治時代の初期に定められ1948年(昭和23年)に廃止された紀元節と同じである。紀元節の日付は、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔)に由来する。
当日は、建国記念日を祝う式典・集会が各地で行われ、これに反対する集会も各地で行われる。また、各地の神社仏閣では「建国祭」などの祭りが執り行われる。


★ “紀元節”とは何か?(Wikipediaによる)

紀元節(きげんせつ)は、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日として定めた祝日。1873年(明治6年)に、2月11日と定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。
歌曲「紀元節」
伊沢修二作曲、高崎正風作詞により1888年(明治21年)に発表され、「小学唱歌」にも掲載された。
一、雲にそびゆるちほのねおろしに艸も木も
  なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ
二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき
  めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ
三、天つひつぎのみくら千代よろづに動きなき
  もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ
四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき
  國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ


★ “建国記念の日”はどのようにして決まったか?(Wikipediaによる)

紀元節復活に向けた動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第一党の日本社会党が「建国記念日」の制定を「神武天皇即位の年月は、歴史上、科学的に根拠が薄弱であり、今後学問的検討を待って決定すべきではないか」「過去において、神武東征の物語りが、征略国家として支那事変、大東亜戦争において利用され、偏狭なる忠君愛国の教育とも相待って、日本の進路を誤まらせたものではないか」[3]と批判して反対し、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となった。
その後、「建国記念日」の設置を定める法案は、9回の提出と廃案を繰り返すも、成立には至らなかった。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。
同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めた。建国記念日審議会は、学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が1966年(昭和41年)12月9日に提出された。同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定めて公布し、即日施行した。


★ ぼくの感想

サラリーマンだったころは、その“口実”がなんであれ、休みの日が多いほどよかった。
現在、“パートタイマー”なので、“国民の休日”は関係ない。
ぼくよりたくさん稼いでいる“正規雇用者”が休めるのは、いまいましい気もするが、ま、いいか。

今年の2月11日の感想は、“建国”よりも、“年齢”である。
つまり、ぼくは鳩山首相というひとが、ぼくと(ぼぼ)同年齢であると、意識していなかった。
それと、もうひとり、やたら大新聞コラムに受けがいい立松和平氏の死である。
このひとも、ぼくと1歳ちがいなのだ。
すなわち、ぼくと“同世代”のひとが死んだり、首相であったりしている。
ぼくには、鳩山氏も立松氏も“同世代”という認識はなかった。

なんか、ぼくには、はなはだ<縁遠い>ひとたちだなぁー。

ぼくと<同年齢の>中上健次がなつかしい。