Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

あたりまえのこと;ユマニスムについて

2010-02-19 19:45:44 | 日記


このブログでは<本>について書くことが多いし、読んでいる本からの<引用>だけのブログも多い。

だから、このぼくのブログを読んでくださる人々は、“このブログの書き手(warmgun)は、本が好きなひとなんだ”と思われるだろう。
しかし、ぼく自身は、自分が“本好き”であるかどうかについて確信はない。
すごく単純に言って、いまぼくに本を読むよりエキサイティングなことがあるなら、本は読まないだろうと思う。
つまりぼくは“文学青年”タイプでも、“学究者”タイプでも全然ない。

だから忙しかったり、疲れていれば、本は読まない(読めない)
なにがなんでも“読めたり”、疲れているとき読んで“癒される”こともない。
そういうときは、むしろ、つまらない映画をぼーっと見たり、音楽を“少し”聴く(なによりも、寝る)

だから、そういう“中断”のあとに、<本の世界>に入ることは、やはり“おどろき”なのだ。

つまり、その本の世界の、“直前”まで、ぼくは、<ここに>まったく本の世界とは無縁の<現実の世界>を生きているからである。

すなわち、この2010年2月19日金曜日の、薄暗く寒い一日の夕方に、ある一冊の本を数ページ読み(敗戦直後のある人の文章を読み)、また、<この現実>に還るのである。

この“あたりまえのこと”こそ、“おどろくべきこと”なのである。
その本にある文章は、ぼくが生まれる前に(直前に)書かれた。
ぼくはその時代のリアルな雰囲気も、その本を書いた人の表情も息遣いも知らないのだ。

その人の<名>を知っていても;渡辺一夫である。

もちろん<そのひと>の“表情も息遣いも”知っているひとの“みちびき”はある;この文庫本(『狂気について』)なら、清水徹と大江健三郎にみちびかれて。

清水徹(このひとはビュトール、デュラスの翻訳者であり、すぐれた“評論”を書いた)による“解題”がある;この『狂気について』は、1970年代に刊行された“渡辺一夫著作集”からの清水氏によるセレクションである。

この“解題”において、ぼくはそのセクションⅢにおさめられた“トーマス・マン『五つの証言』に寄せて”に注目した。

この文章は1946年2月28日の日付をもった、渡辺一夫が“師”(辰野隆)に宛てた手紙である、引用しよう;

★ 今から考えてみますと、自ら若干滑稽な感じもし、先生お笑いになるかもしれませんが、あの15日の正午まで、私はこのマンの訳稿を常にポケットに潜ませ、「本土決戦」に備えていたのであります。即ち、私も国民義勇隊員でありましたから、いずれは本職の軍人たちをしばらくの間でも山岳地帯に温存するために、竹槍を持って一大ゲリラ戦に駆り出されるに違いないと思っておりました。そうした折、もちろん必ず私は、紫匂う武蔵野のはてを若干の「戦友」と彷徨せざるを得ぬことになりましょうが、ポケットに収めたこのマンの訳稿をぜひとも戦友達に読ませ、このような考え方も世のなかにあり得るということを死力を竭して(つくして)判ってもらい、徹底的に議論しようと思っておりました。そして、一人でも二人でもマンの考えに共鳴する人が出てきたら、私を併せて二人あるいは三人になるが、それでよいのだとまで考えておったのであります。


上記引用文を読んで、ぼくがまず“反応する”のは、
《紫匂う武蔵野のはてを若干の「戦友」と彷徨せざるを得ぬ》という言葉である。

まず《紫匂う武蔵野のはて》という言葉が、こころに残る。
もちろんこの古風な文学的表現は、この文書が書かれた<背景>の上に浮かびあがるのだ。

もちろんここで述べられていることの<意味>が最後に残る;
《そして、一人でも二人でもマンの考えに共鳴する人が出てきたら、私を併せて二人あるいは三人になるが、それでよいのだとまで考えておったのであります》


まさに、これこそ“ブログ”を書き続ける<指針>ではないだろうか!(爆)

《マンの考えに共鳴する人》というのを、<ぼくの考えに共鳴する人>に入れ替えるのでは、“ない”のである。

<ぼくが“引用する人”(の言葉)>に入れ替える。


さてこの“手紙”にはトーマス・マンの“原文”(の渡辺一夫翻訳)は収録されていない(それは本になるので、それへの“批判”を渡辺一夫は師に依頼している)

清水徹はその“解題”で、そのマンの文章(一部)を引用している;

★ 一切のユマニスムのなかには、脆弱な一要素がある。それは一切の狂信主義に対する嫌悪、清濁併せ飲む性格、また寛大な懐疑主義へ赴く傾向、一言にして申せばその本来の温厚さから出て来る。そして、これは、ある場合には、ユマニスムにとって致命的なものともなり得る。今日我々に必用かもしれないのは、戦闘的なユマニスム、己が雄々しさを確証するようなユマニスム、自由と寛容と自由検討の原則が見す見すその仇敵どもの恥知らずな狂信主義の餌食にされてしまう法はないということを確信しているユマニスムであろう。
<トーマス・マン『ヨーロッパに告ぐ』>


このマンの発言は、戦争に向かうヨーロッパでなされた。
渡辺一夫は戦争が始まった時以来、この発言を収めた小冊子を“雑嚢に入れて身辺から離さず、警報と警報との合間に少しずつ訳した”のである。


もちろん、まさに、いま、こういう文章をどう受け止めるかが、問題である。

マンが発言し、渡辺一夫が手紙を書いた“時代・場所”と、<現在>は、まったくちがっているのであろうか。

マンの<ユマニスム>に対する“批判”とそれに対する渡辺一夫の“共感”は、過去の遺物であろうか。

まったくそんなことはない。

《今日我々に必用かもしれないのは、戦闘的なユマニスム、己が雄々しさを確証するようなユマニスム、自由と寛容と自由検討の原則が見す見すその仇敵どもの恥知らずな狂信主義の餌食にされてしまう法はないということを確信しているユマニスムであろう》

戦闘的ユマニスム。

たしかに“ぼくら”には、
《己が雄々しさを確証するような》機会が、まったくなくとも。

<ヒューマニズム>の名のもとに、《恥知らずな狂信主義》によってわれわれを《餌食にするもの》がいる以上、ぼくもこのブログにおいても、<戦闘的ユマニスム>を擁護し、たたかいを継続する必要があるのである。


たとえ、

<一人でも二人でも“戦闘的ユマニスム”の考えに共鳴する人が出てきたら、私を併せて二人あるいは三人になる》

ために。






<翌朝追記>

すなわち<ユマニスム(ヒューマニズム)>とは、“多数派工作”ではない、のである。

“多数を取る”ことだけを目的とするあらゆる言説と行為は、<ユマニスム>でも<デモクラシー>でもない。

内田樹(のよーなひと)が言う<政治>=《反対派を効果的に排除する能力》も「《反対派と仲良くなってしまう能力》も、<ユマニスム>でも<デモクラシー>でもない。

まったくそのような<能力>は、無意味(虚無=からっぽ)である。

あらゆる社会科学と哲学と科学と文学は、それが“有意味である”ならば、そのような<能力>と無縁であることを目指している。

<多数>ではない;

《一人のひとが私を併せて二人になる》ような言説と行為のみが、<人間主義>である。



<多数>が暗愚に陥るとき、ひとり目覚め、逆境のなかで、ただひとりの理解者を得られるかどうかもわからない言葉を発するものが、“考えるひと”であったのである。




世界を知るためのニュース

2010-02-19 08:28:16 | 日記

☆<米兵自殺、1月は27人 前月から10人増 防止策に効果なく >(CNN)
ワシントン(CNN) 米軍兵士の自殺者が今年1月だけで27人に達していると、米軍が17日に発表した。昨年12月は17人で、自殺防止プログラムを実施しているにもかかわらず自殺率が下がらない原因は不明としている。
米軍発表によると、1月に亡くなった27人のうち、自殺と断定されたのは1人。残る26人は、自殺の可能性が高いとして、調査中だという。
27人のうち、従軍中が12人で、15人が州兵ならびに予備役だった。
米軍によると、2008年は140人の従軍兵士と57人の州兵・予備役が自殺。昨年は160人を超える兵士が自殺している。
米軍では、自殺防止プログラムや兵士の健康管理対策を打ち出しているが、成果が挙がっている兆しは見えていない。


☆英BBC司会者が番組で殺人告白 「恋人の苦痛終わらせた」(CNN)
ロンドン(CNN) 英公共放送BBCの番組キャスターが、エイズで苦しんでいた交際相手を殺害したと番組の中で告白し、警察は17日、このキャスターを殺人の疑いで逮捕したと発表した。
逮捕されたのは、BBCの番組で司会をしていたフリーランスのキャスター、レイ・ゴスリング容疑者(70)。「死」をテーマにした番組の中で「私が長い間秘密にしてきたことを、そろそろ打ち明けるべき時でしょう。私はかつて、人を殺しました。彼は私の恋人で、エイズにかかっていました」と切り出した。
この男性は病院で医者にも見離され、「恐ろしい苦痛」に襲われていたと同容疑者は言い、その苦痛を終わらせるため、枕を使って窒息死させたと語った。英国で嘱託殺人は犯罪となる。
ロンドン北部ノッティンガムシャー州の警察は、この番組の放映後、同容疑者を逮捕したことを明らかにした。死亡した男性の身元や、いつ死亡したのかなどは明らかになっていない。


☆<UFOは「三角チョコレート形」が主流に? 英公文書公開 >(CNN)
ロンドン(CNN) 英国防省と国立公文書館は18日、未確認飛行物体(UFO)の目撃証言を集めた新たな資料を公開した。1940―50年代は白い円盤形が主流だったが、最近は黒い三角形をした大型の物体を見たという証言が増えているという。
UFO資料の公開は今回で5度目となり、1994―2000年の目撃情報が、これまでで最大の6000ページ強のファイルに収録されている。
三角形のUFOは、イングランドやスコットランドなどで目撃された。バーミンガムでは1997年3月に仕事を終えて帰宅した男性が、自宅の庭の上空に大きな三角形の物体が浮かんでいるのを目撃。約3分ほどすると物体は飛び去って姿が見えなくなったが、樹上に光沢のある白い物質が付着しており、男性はこの物質を瓶に入れて保存しているという。
94年7月にはスコットランドで「トラブローネ」というチョコレートバーのような形をしたUFOが目撃された。
人間や航空機とUFOが接近・接触したとの証言もある。ウェールズ南部では97年1月に車で帰宅途中の男性が、チューブ状の光が空から降りてくるのを見て車から降り、光の中を歩き回ったと証言した。携帯電話とカーラジオは使えなくなり、男性は車に戻ると気分が悪くなり、皮膚疾患で医者にかかったとされる。
航空機とのニアミス報告では、95年1月にマンチェスターの空港に向かっていたブリティッシュ・エアウェイズのボーイング機で機長と乗員が、同機に異常接近してきたUFOを目撃。しかし英民間航空局の調べでは何も見つからなかった。
一方、96年10月にはイングランド東部で警察官が「赤、青、緑、白の光を放ちながら回転する物体」をビデオ撮影し、近くにいた船舶もこの光を目撃、同時刻に英空軍のレーダーに「未確認の光点」が映ったという記録もあった。
UFOについての著書がある大学講師のデービッド・クラーク氏は、三角形の大型UFOが増えた背景について、米国のステルス爆撃機や偵察機「オーロラ」がテレビ番組に登場したり、大型のUFOが出てくる映画「インデペンデンス・デイ」の影響があるようだと分析している。


☆<霊長類634種の約半数に絶滅の恐れ 自然保護団体が報告 >(CNN)
(CNN) 地球上の霊長類634種のうち、48%が絶滅の危機に直面しているとの報告を、国際自然保護連合(IUCN)が17日、発表した。熱帯雨林の破壊などが主な原因とみあれる。
IUCNは2000年以来1年おきに、絶滅が強く懸念される霊長類25種に関する詳しい報告書を出している。
霊長類が危機に陥る原因としては、食用、ペットとしての違法取引も指摘されている。
新たな報告によると、ベトナム・トンキン湾にのみ生息するゴールデンヘッドラングールは、現在60―70匹しか残っていない。また、アフリカ・マダガスカル島のキタイタチキツネザルの生息数は100匹を切り、ベトナム北東部のヒガシクロテナガザルも110匹前後と、深刻な危機に直面している。


☆ <「日本代表はプレーも態度もダメ」サッカー協会会長>(アサヒコム2010年2月18日4時18分)
 日本サッカー協会の犬飼会長が17日、さいたま市内で講演し、「プレーもだらしないけど、態度もだらしない」と先日の東アジア選手権で過去最低の3位に終わった日本代表に苦言を呈した。
 経営者向けのセミナーで同選手権の表彰式に言及。「ほかの国はピシッとしているのに、ダラダラと立っていた。会長として情けなかった」
 会場の男性からは「自ら呼びつけて一喝して欲しい」と要望が出た。講演後、会長は「原(強化担当技術委員長)に言うよ」とさっそく指示することを明らかにした。代表の立て直しは、まずは態度の改善からということか。


☆ <「刑務所の方がましと思った」千葉大生殺害容疑者が供述>(アサヒコム2010年2月19日3時4分 )
 千葉大園芸学部4年荻野友花里さん(当時21)が殺害され、マンション自室に放火された事件で、強盗殺人などの疑いで再逮捕された住所不定、無職竪山辰美容疑者(48)が「(事件を起こして)刑務所に戻ってもいいと思っていた」などと供述していることが18日、捜査関係者への取材で分かった。
 また、竪山容疑者は昨年9月の出所後、荻野さん宅も含めて4カ所の女性宅で強盗致傷や窃盗事件などを起こしたとして立件され、不当に得た現金は計約80万円にのぼるとみられる。同容疑者は「キャバクラの飲食代などに使った」と供述しており、1回あたりの支払いが10万円を超えることもあったという。県警は出所後の心情の変化や、奪った金の使途についても調べている。
 同容疑者は出所後、仕事につかず、東京都荒川区の入浴施設などに寝泊まりしていた。「当初は空き巣をしていたが、金にならずに10月から強盗事件を起こすようになった」と説明し、当時の心情を「刑務所の方がましだと思った」とも供述しているという。
 実際、10月から逮捕までに起こしたとされる事件で、10月7日に約57万円、11月2日にも約18万5千円をそれぞれ得ていた。一方、1カ月以上滞在したとされる荒川区の入浴施設は1泊2800円で1カ月10万円弱だった


☆ <米下院委、トヨタ社長を公聴会招致> (2010年2月19日01時26分 読売新聞)
 【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の大量リコール(回収・無償修理)問題で、米下院監視・政府改革委員会は18日、同社の豊田章男社長を24日に開く公聴会に証人として正式に招致した。
 同委は招致理由について「この状況を明確にするため」と説明し、豊田社長に5分間の声明を準備し、質疑に答えることなどを求めている。19日午後5時(日本時間20日午前7時)までに返答するよう求めた。


☆<性犯罪「過去の量刑軽すぎ」裁判長が言及>(2010年2月18日22時30分 読売新聞)
 女性4人への強姦未遂、強姦致傷などの罪に問われた徳島県小松島市、無職・福田光生被告(25)に対する裁判員裁判の判決が18日、徳島地裁であった。
 畑山靖裁判長は「これまでの(性犯罪の)量刑は軽すぎ、見直しの必要がある」と異例の言及をし、懲役10年(求刑・懲役12年)の実刑判決を言い渡した。判決後には、裁判員を務めた女性2人が記者会見。40歳代の主婦は「性犯罪は精神的被害がとても大きい。今までの量刑は軽いという裁判員の意見を反映した判決で良かった」と評価した。
 公判で弁護側は、強姦致傷と強姦未遂2件の罪に問われた被告を懲役5年とした裁判例を挙げ、「刑の均衡を考えれば懲役6年が相当」と主張した。
 しかし、畑山裁判長は「従前の裁判例では、強姦未遂事件はおおむね懲役3年前後、強姦が未遂で傷害の程度も比較的軽微な強姦致傷事件は懲役4~5年に分布しているが、被害者の立場を考えるとやや軽すぎる」と指摘した。


☆天声人語
▼ ありふれた無限連鎖も人の世にはある。「今どきの若い者は……」の嘆きである。かのソクラテスも若者に嘆息したそうだ。言われた者がいつしか言う年齢になり、生きかわり死にかわり、有史以来のバトンリレーが続いてきた▼かつて「太陽族」があり「みゆき族」があった。五輪スノーボードの国母和宏選手の服装問題も、逸話の一つになろう。だいぶ叩(たた)かれ、国会でも取りあげられた。出場辞退がちらつき、本人は開会式参加を自粛した。「バンクーバー五輪外伝」として記憶されるに違いない▼多少の小言はわが胸にもある。にも増して、ひとりの若者のささいな「未熟」をあげつらう、世の不寛容が気になった。若いネット世代からの非難も目立ったと聞く。どこかとげとげしい時代である▼皮肉屋だった芥川龍之介に一言がある。〈最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑(けいべつ)しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである〉。だが、若い身空でその処世術にたけた人物が魅力的だとも思えない▼「両親が見えた。応援してくれるのでうれしかった」と臨んだ決勝ではふるわなかった。8位は不本意だったろうが、次がある。4年後に、「今の若い者は」と嘆くほど自身が老け込んでいないよう、願っている。


☆ 読売編集手帳
東京・池袋のキャバレーで舞台衣装に着替えようとしたら、部屋がない。トイレの横にゴザが敷かれ、「ここで」と支配人が言う。売れる前の下積み時代ならばともかく、茶の間の人気者であった人には、こたえただろう◆『てなもんや三度笠』が終わって『必殺』シリーズが始まるまでの4年間、藤田まことさんはテレビから忘れられた時期をすごしている。ほかに仕事がなく、歌とコントを携えてキャバレーを回ったのはその頃である◆「まことさん、まことさん」とチヤホヤしていた取り巻き連中は、背を向けて去っていった。いっときの人気にのぼせていた頭を冷やし、芝居の基礎を身につける時間を運の“神さん”が与えてくれたんでしょうな――藤田さんはのちに語っている◆『てなもんや』あんかけの時次郎、『必殺』中村主水、『はぐれ刑事純情派』安浦吉之助、『剣客商売』秋山小兵衛…と、重ねた年輪にふさわしい花を咲かせたのも、じっと地に根を張る不遇のときがあったからだろう。藤田さんが76歳で急逝した◆人の世の浮き沈みと、泣き笑いと、人情喜劇を見ているような役者人生である。





<蛇足>

”いま”ネットにある<言説>を引用したのは、天声人語と読売編集手帳が、<世界>にまったく反応してないことを証明するためである。

昨日書店で新刊書を見ていたら、『ガラパゴス化する日本』という新書があった。

買わなかったが、よいタイトルである。

この<列島>が、ガラパゴス諸島になるのは、時間の問題である。

この列島全体が、”世界に関する無関心”という見えないラップですっぽりと包まれてしまった。

そのなかで、いろんなひとが勝手にわーわー言っているだけと、なった。

世界が滅びる”前に”、日本は滅びるね。


ちなみに昨日ぼくが買った本は以下の3冊;

★渡辺一夫『狂気について』(岩波文庫・第8刷;大江健三郎・清水徹編)
★大仏次郎『天皇の世紀2』(文春文庫)
★アンドレ・コント=スポンヴィル『哲学』(白水社・クセジュ文庫)





別に本を読まなくてもいいが、下記ブログに書いたように、”すべての日本人”が、<自分のケツの穴>をよく見たほうがよいと思うよ。

<ケツの穴>は、”男女共通”で、普遍性があるしさ。




“ケツの穴”についての哲学的考察

2010-02-19 00:11:33 | 日記


どうも寒くて、ブログを書く気力も、引用する気力もない(なにしろ連日仕事だし)のだが、気力をふりしぼって(笑)なんか書こう。

といっても、このタイトルを見て“下ネタ”と思ったひとには、期待に添えない展開が予想される(つまりマジである)

まずあるブログへのコメントを読んでいただく(ぼくはブログのコメント欄というのは“私信”ではなく、公開されていると考える、私信なら個人メイルすればよい)

引用開始;
確かに文章って、
話し言葉以上にその人の人生が見えてきますよね。
考え方や生き方、
もっと極端にいえば育ちが見えてきますもんね。
僕の親友の森ダイナマイトは、
文章を読めば、
いやな奴はすぐ分かるっていいます。
だから怖いですよね。
まあそういう己の気質がバレバレになることを、
仕事に選んじゃったもんで、
僕は最近ケツの穴まで晒すことに慣れちゃいましたが、
仕事じゃないブログでは気取ったりしてますね(笑)。
あれで?
っていわれれば返す言葉もありませんが(笑)。
本日もよろしくお願いします。
(引用終わり)

上記引用でぼくが注目したのは、《まあそういう己の気質がバレバレになることを、仕事に選んじゃったもんで、僕は最近ケツの穴まで晒すことに慣れちゃいましたが、》という部分である。

つまりこれを書いた人は、一応“もの書き”を職業としているらしい。
ぼくも《文章を読めば、いやな奴はすぐ分かる》と思う。

だから、文章を“読まれる”ことは、プロでなくとも《ケツの穴まで晒す》ことなのである。
ただ“ブロガー”は、《ケツの穴まで晒す》ことを職業としていないだけである。
ぼく自身は、素人だが、このブログにおいて、“引用”していても、《ケツの穴まで晒して》いると思う。
そういう覚悟がなければ、自分で毎日、日記を書いているのと同じである(つまり“日記”であるなら、自分で自分の《ケツの穴》を見ているだけである》

もうぼくの言いたいことは、上記につきている。
が、それでは“哲学的考察”は、どこにあるのだ?とご不満の方々もいらっしゃるのだろうか?

実は、ぼくは今日仕事の合い間に、この《ケツの穴まで晒す》ということについて、いろいろ考えたのだが、とうていそれを簡略に記すことができない。
つまり、上記引用では、《ケツの穴まで晒す》というのは、“比喩”であるが、実際に“エッチビデオ”などでは《ケツの穴まで晒す》方々がいて、ぼくたちは、(見ようとおもえば)<それ>を見れるわけである。

つまり、この場合、《ケツの穴まで晒す》というのは、比喩ではなく、<映像>である。
さらに、この事態が、<映像>ではなく、<現実>である場合も“ありうる”のである。

さてここにおいて、“哲学的”に問題になるのは、この“比喩-映像-現実”の<関係>である。
こうなってくると、たしかに“問題”は、“一筋縄ではいかない”ではないか。

だから、こういう<問題>は、ぼくにとっては、“冗談ではない”のである。

ちょっと“ちがう角度”だが、テレビで海外の犯罪ドラマを見ていると(たとえば“CSI科学捜査班シリーズ”)、<死体>という<肉体>を日常的に扱う職業というものがあるわけである。
彼らにとって、<死体>というのも、一種の<モノ>である。
注意して見ていると(聞いていると)、かれらが死体について、ある種の“ジョークを言う”シーンが時々ある。
これに対して、“死者の尊厳を傷つける”と、思う人は少ないと思う。
つまり毎日、死体の解剖をするのが仕事なら、そういう冗談も言いたくなるのが、人間の自然だと感じる。

つまりここにおいて、“本質的問題”と思えるのは、<人間>というのは、どこまで精神で、どこまで肉体なのかということではないだろうか。

さらに、肉体は<モノ>だが、精神(魂)は別物(つまりもっと高級なもの)であると考えたい人々も出てくる。

ぼくはなぜか、そう考えたくないのである。
ぼくは、精神と肉体は、同じものであると、考える。

この“立場”から、いろいろ考えてゆきたい。

その立場が、破綻するなら、別様に考える可能性もありうるが。