Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“ノン・フィクション”の傑作

2010-02-16 16:31:48 | 日記


トム・ウルフ『ザ・ライト・スタッフ』読了。

ぼくは、“ノン・フィクション”と呼ばれるジャンルのものを、集中的に読んできたのではないが、日本のものも海外のものも、“それなりに”読んできた。

けれども、“網羅的に”読んだのではないから、“独断”だが、このジャンルの傑作とぼくが考える3冊を挙げたい。

この『ザ・ライト・スタッフ』はその1冊に入る。
この原著は1979年書かれ、1983年に映画化された。
現在、この原作を読んだ人は少ないが、サム・シェパードやエド・ハリスが演じた“映画”を見た人は多いのではないか(アカデミー賞もいくつかの部門でとった)

ぼくはこの“ノン・フィクション”(ウルフ自身は“ニュー・ジャーナリズム”と呼んだ)をずいぶん昔に読みかけて放置していた。
ぼくの変わった癖であるが、ぼくが読み掛けで放置する本は、必ずしも“つまらないから”ではない。
“楽しみは後に取っておく”という心理もはたらくのであるが、もはや“取っておく”時間もなくなったのである。

昔読んだとき、とても印象的だった最初の第1章から第3章までが、今回読んでも圧倒的だった(とくに書き出しの第1章)
この“ドキュメント”は、アメリカ最初の有人宇宙飛行計画・マーキュリー計画の“7人の宇宙飛行士”を扱ったものなのに、この部分は戦闘機パイロットのチャック・イェーガーに焦点を当てている。
そこにおける“ザ・ライト・スタッフ”という意味を抽出・提示したのだ。

もちろん“マーキュリー計画”の実像や裏面を知ることは、<アメリカ>を知ることであり、ある意味では<世界>を知ることである(たとえば、現在と変わらぬアメリカの“メディア”の狂乱)
ぼくにとっては、この時期、ケネディとフルシチョフの“冷戦”の時代こそ、“世界に目覚める”時期だった。
“宇宙競争”があっただけでなく、核兵器の脅威、“キューバ危機”から“ヴェトナム”、ケネディ暗殺にいたる時代である(この本にも、“副大統領リンドン・ジョンソン”が強烈なキャラで登場)

ここには、“生々しい歴史がある”というべきか、それどころか、“アメリカは変わらないなー”という感想もあり得るのだ。


これまでにぼくが読んだ“ノン・フィクション”の傑作の他の2冊は以下の通り;

☆ ラピエール&コリンズ『おお、エルサレム』(ハヤカワ文庫)
この本については、これまでも何度か引用した。
この著者たちの本では、映画化された『パリは燃えているか』の方が有名だと思うが、ぼくはその本は読了していない。
なによりも、ここに記録された“事態”の深刻さと、それが現代史と<現在>に投げかけるスケールの大きさと“深度”において、この“ドキュメント”はすぐれている(インタビューをつみかさねた、生の(観念的でない)記述において)


☆ スティーヴ・ホデル『ブラック・ダリアの真実』(ハヤカワ文庫)
この本は比較的最近のものであるが、あまり話題になったとも思えない。
“ブラック・ダリア事件”については、エルロイの小説とその映画化の方が話題になったようだが(ぼくも読んだし、見たが)、この『ブラック・ダリアの真実』に比べると児戯にひとしい。
まったく世の中の“批評家”や“犯罪小説・犯罪ドキュメント愛好家!”というのは、何を読んでいるのか!

この本に欠点があるとすれば、この“ドキュメント”に書かれていることに“フィクション(誇張、嘘)”があるかもしれない、ということだけだ。
しかしそうであっても、これは、“フィクション”としても優れている。


ぼくは一般に、“ノン・フィクション”というのは、“世界的な事件”について書かれるか、“犯罪”について書かれるかだと思う。
『おお、エルサレム』は世界史的事件を扱い、『ブラック・ダリアの真実』は犯罪について、犯罪を引き起こす“人間”について探究している。

この“犯罪”へのアプローチにおいて、ぼくはカポーティの『冷血』などよりも、この『ブラック・ダリアの真実』は、本当の闇(アメリカ的なものの暗部)に迫り得ていると考える。
この著者が、カポーティのような老練な書き手ではなく、“素人の実直さ”で語ったことが、それを可能にしたのかもしれない(もちろん著者の“位置”も)







考えるひと

2010-02-16 11:06:00 | 日記


先日、仕事の帰りに乗り換えの上野駅で降りて、上野公園を散歩したことは、書いた。
そして西洋美術館前庭のロダンの“考える人”を見たのだ。
ぼくはロダンについても“考える人”についても、よく知らない。
しかしそれが“地獄の門”の一番上にあることは知っていた(“地獄の門”もこの前庭にある)

ぼくが、西洋美術館に前に行ったのは、いつのことだか思い出せないほど昔だった。
何年ぶりかの“考える人”は、感銘を与えたか?
残念ながら否である、ぼくは“この人は何を考えているのか?”と思った。

つまり、ロダンを貶したいわけではないが、“考える人”は、ああいうポーズで考えるとは限らないからである(笑)

このブログを読みつづけている方には、あるいは少しは“感じて”いただけるかもしれないが、ぼくが“考えている”(考えようとしている)ことは、きわめて<基礎的>なことである。

<他者>とはなにか?(誰か?)
<関係>とはなにか?
<行為(実践)>とはなにか?
<道徳>、<倫理>、<モラル>というような言葉を、“どう使う”べきか?
<欲望>とはなにか?
<病気>とはなにか?
<貧乏>とはなにか?
<自由>とはなにか?

すなわち“言葉”の<定義>(辞書的定義)ではなく、そもそもこれらの<言葉>が、世間においてどう使われ、それが、それらの言葉が“あらわすべき”概念と、いかにずれているかが問題である。

先日引用のブログで、内田樹は“日本社会に流動性がなくなり、硬直化してきている”と指摘していた。

このことは、現在、“まともな神経を持った日本人”なら、誰もが感じていることだろう。

“問題”は、この<硬直化>にたいする<認識(のあり方)>であり、それにたいする<対処法>である。

ぼくは<日本社会の硬直化>というのは、もちろん<社会システム>の硬直化であるが、なによりも<言葉の硬直化>として捉えている。
すなわち、この“ブログ”について言えば、Twitterや掲示板などの言説を“含め”、それらの言説が、“大量・多様である”と言われており、書いている本人もそう思っているにもかかわらず、まったく“そうではない”と思う。

“多量”であるのは、そうかも知れないが、“多様性”などまったくないではないか。

“みんな同じ事を言っている”としか、ぼくには思えない。

これが<言説の画一性=硬直性>である。
ようするに、何を読んでもおもしろくもない糞ばかりである。

これだけ言説が、<硬直化>したということは、<言葉の使用>が硬直化したということである。

そもそも<日本語>は、“明治以来”、外来の<観念語>を日本語として“発明して”使用してきた。

そのことが、どうもうまくいってないのである。

たとえば、<政治>とか<法>とか<民主主義>とか<人間主義>とか<自由>という“用語”についての<共通認識>が、ないのである。

すなわち、“みなさん”が、こういう恐るべき用語を、なんの基礎認識もなく、ただ“習慣”として使用しているのみである。

これじゃ、“話にならない”じゃありませんか!

たとえば、法学部を出た人は、“法律”に詳しいが、“文学”がわからん(笑)
つまり大学時代、“法律”の勉強にいそがしいので、文学が読めないカワイソーな人々なのだ。

しかし奇妙なのは、そのひとが、文学に弱いから文学を誤解していることではなく(笑)、<社会科学>のセンスがないことなのだ。

これは別に“法科”に限らない、どうも“政治経済学部”(“商学部”、“教育学部”はもちろん!)も危ない(笑)

みなさん“大学での習性”はやめませんか(大学を出てないひとは、有利だぜ)

“言葉の問題”は、もちろん“政治・経済”の問題ですよ。
“法の問題”は、もちろん、“言葉の問題”です。

“文学の問題”は、“政治・経済・法の問題”ですよ(笑)

だから、“すべてを貫通する”、<言葉の問題>があるんです。

つまり、“言葉をもちいて考える”なら、ぼくたちは<人間>なんです。

(そうでないなら、人間ではありません)





トランスクリティーク

2010-02-16 00:07:02 | 日記


★ 私がトランスクリティークと呼ぶものは、倫理性と政治経済学の領域の間、カント的批判とマルクス的批判の間のtranscoding、つまり、カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む企てである。私がなそうとしたのは、カントとマルクスに共通する「批判(批評)」の意味を取り戻すことである。いうまでもなく、「批判」とは相手を非難することではなく、吟味であり、むしろ自己吟味である。

★ 彼(マルクス)は若い時に次のように書いた。《宗教批判の最後は、人間は人間とって最高の存在である、という教義である。つまり、人間が卑しめられ、奴隷の身分に落とされ、見捨てられ、蔑まれる存在としてあるような関係をすべて転覆せよ、という無条件の命令である》(『ヘーゲル法哲学批判序説』)。マルクスにとってコミュニズムは、カント的な「至上命令」、つまり、実践的(道徳的)な問題である。この点において、マルクスは終生変わっていない、のちに、それが実現されるべき歴史的物質的な条件を重視したとしても。

★ だが、多くのマルクス主義者は、こうした道徳性を馬鹿にし、歴史的必然や「科学的社会主義」を標榜したあげくに、まさに奴隷的な社会を「構成」してしまった。それは「理性の越権行為」以外のなにものでもない。もしコミュニズムへの不信が蔓延したとしたら、その「一切の不信の源泉」はこの種の独断論的マルクス主義者にあったといわねばならない。(略)しかし、その結果、コミュニズムを嘲笑することが「時代の好尚」となった今日において、別の、同様に「甚だしく独断論的」な思考が栄えている。また、知識人が「道徳への不信」を表明している間に、世界的に、文字通りさまざまな「宗教」が隆盛し始めた。われわれはそれを嗤うことはできない。

★ かくして、私は90年代に入って、特に考えが変わったわけではないが、スタンスが根本的に変わってきた。私は、理論は、たんに現状の批判的解明にとどまるのではなく、現実を変える何か積極的なものを提出しなければならない、と考えるようになった。同時に、そのことがいかに困難であるかをあらためて思い知った。(略)もちろん、グローバルな世界資本主義の進行のもとで、「現状を揚棄する現実の運動」が世界各地で不可避的に生じている。しかし、理論を軽視してはならない。理論、というより、トランスクリティカルな認識がなければ、過去の過誤を別のかたちで反復することになるだけだから。

★ 新たな実践はそれまでの理論を総体として検証することなくしてありえないのである。そして、その理論は必ずしも政治的なものに限らない。

★ 本書において、私はカントやマルクスについてちっぽけなあら捜しなど一切しなかった。あたうるかぎり彼らを「可能性の中心」において読もうとした。しかし、実は、ある意味でこれ以上に彼らを批判した本もないと思っている。


★ カントの哲学は超越論的――超越的と区別される――と呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。だが、哲学とはその始まり以来、そのような反省的態度ではなかっただろうか。そして、哲学とは、そのような反省によって誤謬や仮象を斥けることではなかっただろうか。では、どこにおいてカントが違っているのか。カント以前においては、仮象は感覚にもとづくものであり、それを正すのが理性であると考えられていた。しかるに、カントが問題にしたのは、理性自身の欲動によって生まれ、したがって、たんなる反省によってはとりのぞけないような仮象、すなわち、超越論的仮象である。だからカントの反省は、フロイトが哲学的反省に関して指摘したような表層的なものではありえない。フロイトの考えでは、「無意識」は、分析者と被分析者の関係、とりわけ、後者の抵抗においてのみ存在する。他者のない一人だけの内省では、このような無意識は開示されないのである。だが、むしろ主観性の哲学者と批判されてきたにもかかわらず、カントの反省には、「他者」が介在している。

<柄谷行人;『トランスクリティーク-カントとマルクス』(岩波・柄谷行人集3:2004)“序文~イントロダクション“>