トム・ウルフ『ザ・ライト・スタッフ』読了。
ぼくは、“ノン・フィクション”と呼ばれるジャンルのものを、集中的に読んできたのではないが、日本のものも海外のものも、“それなりに”読んできた。
けれども、“網羅的に”読んだのではないから、“独断”だが、このジャンルの傑作とぼくが考える3冊を挙げたい。
この『ザ・ライト・スタッフ』はその1冊に入る。
この原著は1979年書かれ、1983年に映画化された。
現在、この原作を読んだ人は少ないが、サム・シェパードやエド・ハリスが演じた“映画”を見た人は多いのではないか(アカデミー賞もいくつかの部門でとった)
ぼくはこの“ノン・フィクション”(ウルフ自身は“ニュー・ジャーナリズム”と呼んだ)をずいぶん昔に読みかけて放置していた。
ぼくの変わった癖であるが、ぼくが読み掛けで放置する本は、必ずしも“つまらないから”ではない。
“楽しみは後に取っておく”という心理もはたらくのであるが、もはや“取っておく”時間もなくなったのである。
昔読んだとき、とても印象的だった最初の第1章から第3章までが、今回読んでも圧倒的だった(とくに書き出しの第1章)
この“ドキュメント”は、アメリカ最初の有人宇宙飛行計画・マーキュリー計画の“7人の宇宙飛行士”を扱ったものなのに、この部分は戦闘機パイロットのチャック・イェーガーに焦点を当てている。
そこにおける“ザ・ライト・スタッフ”という意味を抽出・提示したのだ。
もちろん“マーキュリー計画”の実像や裏面を知ることは、<アメリカ>を知ることであり、ある意味では<世界>を知ることである(たとえば、現在と変わらぬアメリカの“メディア”の狂乱)
ぼくにとっては、この時期、ケネディとフルシチョフの“冷戦”の時代こそ、“世界に目覚める”時期だった。
“宇宙競争”があっただけでなく、核兵器の脅威、“キューバ危機”から“ヴェトナム”、ケネディ暗殺にいたる時代である(この本にも、“副大統領リンドン・ジョンソン”が強烈なキャラで登場)
ここには、“生々しい歴史がある”というべきか、それどころか、“アメリカは変わらないなー”という感想もあり得るのだ。
これまでにぼくが読んだ“ノン・フィクション”の傑作の他の2冊は以下の通り;
☆ ラピエール&コリンズ『おお、エルサレム』(ハヤカワ文庫)
この本については、これまでも何度か引用した。
この著者たちの本では、映画化された『パリは燃えているか』の方が有名だと思うが、ぼくはその本は読了していない。
なによりも、ここに記録された“事態”の深刻さと、それが現代史と<現在>に投げかけるスケールの大きさと“深度”において、この“ドキュメント”はすぐれている(インタビューをつみかさねた、生の(観念的でない)記述において)
☆ スティーヴ・ホデル『ブラック・ダリアの真実』(ハヤカワ文庫)
この本は比較的最近のものであるが、あまり話題になったとも思えない。
“ブラック・ダリア事件”については、エルロイの小説とその映画化の方が話題になったようだが(ぼくも読んだし、見たが)、この『ブラック・ダリアの真実』に比べると児戯にひとしい。
まったく世の中の“批評家”や“犯罪小説・犯罪ドキュメント愛好家!”というのは、何を読んでいるのか!
この本に欠点があるとすれば、この“ドキュメント”に書かれていることに“フィクション(誇張、嘘)”があるかもしれない、ということだけだ。
しかしそうであっても、これは、“フィクション”としても優れている。
ぼくは一般に、“ノン・フィクション”というのは、“世界的な事件”について書かれるか、“犯罪”について書かれるかだと思う。
『おお、エルサレム』は世界史的事件を扱い、『ブラック・ダリアの真実』は犯罪について、犯罪を引き起こす“人間”について探究している。
この“犯罪”へのアプローチにおいて、ぼくはカポーティの『冷血』などよりも、この『ブラック・ダリアの真実』は、本当の闇(アメリカ的なものの暗部)に迫り得ていると考える。
この著者が、カポーティのような老練な書き手ではなく、“素人の実直さ”で語ったことが、それを可能にしたのかもしれない(もちろん著者の“位置”も)